《播磨のたたら製鉄》文:土佐雅彦
(前略)
播磨での「鉄山」は鉄製錬に不可欠な大炭を焼くための山林をさし、その一画に高殿を備えた山内(製鉄村)を設けた。砂鉄を採る「鉄砂流場」は一鉄山に六口まで認められている。周辺の富裕な商人たちに運上を納めさせ、三~五年単位で請負稼ぎをさせていた。「鉄山諸道具一式同小屋井鉄砂流山諸道具同小屋共御公物」とある史料があり、鉄山稼ぎの諸道具は山内者(製鉄集団)とともに藩などから貸し出す形式がとられていたようだ。実際の運上請負例は第三次池田藩が誕生する慶安二年(一六四九)、千草屋がししはい山・うつのミ山(宍粟市波賀町)で稼業した記録の頃からたどることができる。この年、千種町などはいち早く天領に組み込まれており、幕府が播磨の鉄に関心を寄せていたことが推察される。やがて、延宝七年(一六七九)、宍粟郡北部二万石は天領となり、生野代官所支配下の須賀村山方役所が一括して宍粟の鉄を掌握するようになる。複数の請負人の中から抜け出し、以後、宝暦年間まで百年あまりこの地の鉄山をほぼ独占するのが千草屋である。山崎城下の平瀬家に伝わる古帳面を宇野氏らが発掘し★『千草屋手控帳」と命名して世に紹介したのは一九六八年であった。(後略)
★『千草屋手控帳』
平瀬家に所蔵された江戸時代中期の古文書で、波賀や千種の鉄山で砂鉄の採集や運送などに従事した記録が綴られています。
《たたらの歴史》
約100年前まで、たたらの歴史とは鉄の歴史でもありました。日本での製鉄は主に6世紀頃朝鮮から伝来し、全国に広がったと言われています。もともと中国では石炭と鉄鉱石を用いていたようですが、日本では木炭と砂鉄を主に用いる方法が発展しました。 日本のものづくりのさきがけ初期のたたら製鉄は他の産業と共に伝えられたと考えられ、一説には渡来人である忍海漢人(おしぬみあやひと)らが鉄製農機具をはじめ、麻・絹などの布類、また東大寺の大仏の製作にも携わったと言われており、まさに日本のものづくりのさきがけを担ったのは忍海氏ら渡来人であったことが窺えます。
また、鉄作りの神様として知られる島根県安来市にある金屋子神社の伝説によると、始め金屋子の神は敷草村の岩鍋(千草町岩野辺)で行われた雨乞いに応えて雨を降らし、その後製鉄を広めるため、白鷺へと乗って安来市へ飛んで行ったということです。安来市はたたらの街として有名であり、そこで作られている「ヤスキハガネ」は世界屈指の純度と品質を持つ特殊鋼だそうです。
歴史書を見ると、古くは古事記に、朝鮮半島の新羅との交渉の場において「たたら」の記述が見られます。また8世紀前半の書物『播磨国風土記』には、鉄を産した場所として、敷草村(現兵庫県宍粟市千種町)などの記述があるそうです。ここには、孝徳天皇(在位645~654年)に鉄を献上したとも記されており、7世紀にはすでに製鉄が行われていたことが窺えます。この頃はまだ野外に炉を設置するだけの野だたらと呼ばれる形で、天候に左右されることも多かったようです。
室町時代になり中国への輸出等で刀の大量生産が必要になり、たたら製鉄に必要な木炭、砂鉄、粘土全てが比較的容易に揃えられた中国地方一帯で盛んになりました。この頃、鋼としての千種鉄が、その効率の良さと品質の高さから全国的に有名になります。現在の"鋳物"から"特殊鋼"の生産へ主な目的が移ったのかもしれません。また、戦国時代になると全国的に鉄不足となり、一時はポルトガルから輸入も行っていたそうです。その教訓からか豊臣秀吉は天下統一を果たすと、量・質共にに定評のあった千種方式を全国へ奨励したということです。それ以降の日本刀は全て玉鋼という"特殊鋼"により作られ、新刀と呼ぶそうです。ここで、面白い話があります。信長の時代、秀吉が赤松氏を攻めた際に、赤松側についていた平瀬氏は千種へと逃げ込みました。そしてそのまま千種に定住し、鉄山師として成功し、豊臣を支えたというのです。このことと千種式製鉄が全国に広まったことはどう関係しているのか、非常に興味があります。また、ズクと呼ばれる"鋳物"を脱炭し、品質を上げる大鍛冶という技術はこの時代にできた可能性があります。
この時代になると、炉の大型化と共に周辺環境も整備され、たたらの一つの完成型となります。千種のたたら場も幕府直轄となり、日本屈指の産出量を誇りました。この頃、先ほど登場した平瀬家は分家し、鉄の卸売業を経て両替商として発展していきました。また、技術の発達として欠かせないのが鉄穴流しと天秤ふいごです。砂鉄を、川の流れと比重選別によって採取する鉄穴流し法の確立によって更なる大量生産が可能となりましたが、川に大量の泥水が流れ出すことから、農閑期のみの操業と決められました。他にも、木炭の為の森林伐採など、環境問題も引き起こしています。
明治以降のたたら製鉄はその需要から最盛期となりながらも、西洋式製鉄の導入によって一気に衰退の流れへと向かいました。明治始めより、和鋼の生産量の5倍の輸入を西洋諸国より行い、(その後日清・日露によりさらに輸入量は急増しました。)薩摩藩を始め幕府は西洋式反射炉(原料はたたらのズク鉄など)を建造するなどし、効率の良い国産製鉄を求め、ついに1901年に八幡製鉄所を建設し近代鉄鋼業へと向かいます。時代の流れや恐慌によりたたらの経営は行き詰まり、ついにたたら製鉄は歴史の舞台から姿を消します。
・・・露香さんのお墓は★「日蓮宗」妙福寺にあるのですが、兵庫県宍粟市にある平瀬家菩提寺「大雲寺」は、★「浄土宗」です。露香さんが17歳の時、「放蕩がすぎる」と預けられた京都「天龍寺」は★「臨済宗」でした。結局のところ仏教の原点は、開祖「お釈迦さん」に違いないわけです。
《★浄土宗青龍山「大雲寺」》
671-2571 兵庫県宍粟市山崎町上寺169/0790-62-0765
当山は元和5年(1619)専誉上人によって開山されたお寺です。開山・称蓮社専誉上人天樹大和尚は、姓は千葉氏と言い、文禄2年(1593)下総国千葉に誕生されました。佐倉清光寺森誉玄愚上人に就いて、剃髪・出家・檀林附法の後、大坂★「大雲寺」に住し、姫路幡念寺を経て、播磨山崎の地に赴き、当地において元和5年(1619)8月 15日に、入仏法要が行われました。正保2年(1645)当山において世寿52歳をもって遷化されました。
《NEWS》2018.4.18神戸新聞NEXTより
●弘化2年(1845)5月26日に再建された山門
当山の過去帳によると再建の費用は千草屋★平瀬家の一寄進によるものと記載されており、施主名は、大阪梶木町★平瀬宗十郎、山崎本町★平瀬源右衛門の両名となっています。とりわけ平瀬宗十郎(春温)は当時大阪で両替商を営む豪商でありました。平成20年、大阪歴史博物館において、没後100年最後の粋人「平瀬露香展」が盛大に開催されましたが、その先代の人にあたります。
●建築年不詳だった鐘楼堂 棟札発見で文政6年と判明
たたら製鉄に起源を持つ江戸時代の上方の豪商、平瀬家ゆかりの大雲寺(兵庫県宍粟市山崎町上寺)でこのほど、建築年不詳だった鐘楼堂の改修工事現場から、文政6(1823)年の建物であることを示す棟札が見つかった。隣の山門と同じく平瀬家が寄進したとの説もあったが、建築時期が異なり寄進者の名前もなく、地元の檀家らで建てたとの見方が強まっている。鐘楼堂と山門は屋根が解体されており、22日まで間近で見学できる。平瀬家は同市千種町の鉄山経営で栄えた千草屋の家系で、江戸時代に山崎に店を構え、その分家が大坂で両替商として財をなした。江戸から明治にかけて「最後の粋人」と呼ばれた文化人、平瀬露香が輩出したことでも知られる。大雲寺は山崎平瀬家の菩提寺で、その山門は露香の父、春温が1845年に寄進した。隣接する鐘楼堂は、戦時中に供出した梵鐘の銘に1694年建立と記されていたが、当初のままなのか、改築されたのかは諸説あった。鐘楼堂の棟札は「文政六未年四月大工播州三木なめら町紅粉屋卯兵衛」などと読めるが、誤字が多く、漢字を習っていない人物が書いたとみられる。裏側は大正5(1916)年に改修した際の棟札として使われていたが、鬼瓦にも文政5年の銘が見つかり、文政期に建立された可能性が高いという。同寺の加藤昭彦住職(64)は「鐘楼堂の歴史が分かり感慨深い。解体修理のまたとない機会に、見事な彫刻などを見てもらいたい」と話していた。見学は午前9時~午後5時。
《参考》★浄土宗當麻山「大雲寺」
542-0065 大阪市中央区中寺1-3-6/06-6762-1976
https://www.facebook.com/taimazan.daiunji/
寛文元年(1661)大和国★當麻寺より源栄上人が入寺して浄土宗寺院となる。以前は★日蓮宗「常在寺」という名の寺院であったが、創建の年月など詳細は不明。安政元年(1854)の大地震で山門が倒壊するが、翌2年(1855)大阪城の武家門を移築したという来歴が今日に伝わる。昭和20年(1945)3月、大阪大空襲により山門・観音堂を除く諸堂を焼失した。現在の本堂は日蓮宗★「妙福寺」から昭和43年(1968)に譲渡され移築したものである。
・・・なんと露香さんのお墓のある★「妙福寺」から本堂が移築されたとは、やっぱり調べてみるもんですね。それでは、そろそろお墓参りに。