《北野村の寺院について》綱敷天神社HPより
http://www011.upp.so-net.ne.jp/u-shirae/ujichi/nishideramachi.html
北野村(現在の北野連合、梅田東連合)地域には多くの寺院がある。特に兎我野町の南端に東西に連なっている寺院は、かつて★西寺町とよばれ、堀川(現在の阪神高速守口線扇町出口付近)を挟んで東側の★東寺町(天満寺町とも)、中央区の下寺町と同じく、大阪夏の陣のあと、松平忠明の大阪市外の再整備の一環でまとめられたもので、当時は戦時の兵舎に転用する事をひとつの目的とされたようである。しかしその後、太平の時代が続いた事で軍事的に利用される事無く、檀家・地域の人々とともに先祖供養、文化興隆の場として親しまれ、今日に至っている。
《日蓮宗/詮量山「妙福寺」 》
530-0053大阪市北区末広町1-5/06-6312-5816
大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、大坂の町の復興に努めるよう家康の孫である松平忠明に与えられ、南の空堀付近に中寺谷町。北の天満付近に寺町を置いてここに寺院を集結させました。それは有事の際、この寺院に兵を駐屯させて前線基地にと考えました。
元和五年(1619)大坂は幕府直轄領となり、翌六年(1620)二代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成しました。
時同じくして柏原今町にある了意川に船溜りを作り、鉄道が開通するまでの間「柏原船」を大阪との交通機関として活躍させた船株主★三田浄久は、自分の甥を出家させて本宗の僧侶とさせていました。その僧侶は廣演院日容といい、誕生寺等で修行をされ元和元年(1616)、大坂復興事業の際にこの天満寺町に詮量山妙福寺を建立されたのです。
以来、江戸から明治の時代には大坂城に於いて勤修された豊臣家の法要に参列する為に来阪した加藤清正が暗殺を恐れて当山に宿泊したこともあり「清正公」の信仰が盛んとなり大阪一のご利益があると言われ、祈願成就された信者さんの幟(のぼり)がたくさん立てられていたそうです。
江戸末期の天満の大火や★大塩平八郎の乱などの災難からも免れ、明治時代には★豪商の檀家さん達に守られて大阪市内の日蓮宗の寺院としては、三ヶ寺という五人以上の庶家さん(住み込みで勤めておられた僧侶)がいる大寺院で、中津には末寺★「導通寺」がありました。しかし大東亜戦争の空襲によって消失し、焼け跡に導通寺を移設。昭和四十年まで使用していましたが、24世日海上人が一念発起。現在の妙福寺建立に25世日敬上人と共に尽力され、現在に至っています。そして平成28年に開創400年を迎えるに当たり、庫裡客殿を増築することとなりました。
《参考》「銅板屋根葺替え工事」施工:河野工務店
http://tansinawaji.blog108.fc2.com/blog-entry-435.html
・・・露香さんは「ネコ」好きだったのかなあ、ずっとここに居ついている猫だということです。
・・・なんとお隣に「大塩平八郎」さんのお墓があります。こちらも「日蓮宗」です。
《日蓮宗/讀誦山「成正寺」》
530-0053大阪市北区末広町1-7/06-6361-6212
https://temple.nichiren.or.jp/5031002-johshouji/
慶長9(1604)年に増長院日秀上人によって開創された身延末の日蓮宗のお寺です。増長院日秀上人は、歌道が縁となり、豊臣秀吉公との知遇を受け、現在地に寺領を賜りました。文禄元(1592)年より出征する朝鮮出兵の戦勝祈願として秀吉の持佛である妙見大菩薩像を寄進され、今も堂内にお祀りさせていただいております。江戸時代後期、当時の幕政を揺り動かし、新しい歴史の契機ともなった大阪大塩家8代目中齋★大塩平八郎の菩提寺です。大塩のお墓には今でも絶えず墓参される方があります。昭和51年(1976)には、今まであった大塩の顕彰会を新たに、大塩事件研究会として大塩平八郎に関することを研鑽する会が発足され、今でも隔月程度講演会やフィールドワークなど行われています。また、未生流二代上田廣甫の菩提所でもあります。二代廣甫は、初代未生斎一甫(山村山碩)によって但馬国の上田家へ滞在中に見出された生来の花の才により、二代家元を継いで未生斎と称します。また、嵯峨御所へ仕官して花務職となり、法眼の称号を許され、上田周防法眼とも称しました。初代一甫のいけばなを進展させ、未生流を全国各地に広めて確固としたものにしました。文久元年(1861)7月、大阪の地でなくなりました。今でも、未生流の家元をはじめ、ゆかりの方々により護持されています。
《参考》柏原市「三田家」
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500014/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500021/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500038/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500045/
三田家と寺田家5「三田浄久の活躍」
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500052/
三田家と寺田家6「浄久と『河内鑑名所記』」
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500069/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500076/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500083/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500090/
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2018032500106/
《柏原市制60周年記念・平成29年度春季企画展》
平成30年3月31日(土)~6月10日(日)
「今町-三田家・寺田家からみた柏原村-」
【特集展示】「水野家文書-三田家のはじまり-」
582-0015柏原市高井田1598-1(歴史資料館内文化財課)072-976-3430
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014081900065/
《参考》『大阪府全志/巻之三』目次(抄)井上正雄/大阪府全志発行所1922
第六項:中津町
光立寺 富島神社、光徳寺、
小島新田
小島古堤
下三番 上小竹葉野、大日寺、★導通寺、
成小路 十三渡、黙庵、円照寺、淨円寺、
《参考》明治安田生命/関西を考える会「関西の道を巡る」刊:2008
https://www.meijiyasuda.co.jp/enjoy/kansai/2008/index.html
「箕面有馬電車唱歌」/文:岩井正也毎日放送部長
https://www.meijiyasuda.co.jp/enjoy/kansai/2008/01/index.html
「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり……」は広く知られた鉄道唱歌の第一番ですが、最後は南海線に入り、和歌山から難波へと向かいます。そして、鉄道唱歌は他の関西私鉄でも作られました。「箕面有馬電車唱歌」という歌があった。明治43年に今の阪急電鉄が宣伝のために作った歌である。
一、東(こち)風ふく春に魁けて 開く梅田の東口 往来(ゆきか)う汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋
二、業平塚や萩の寺 新淀川の春の風 十三堤の野遊びに 摘むやたんぽぽ五形花(げんげばな)
こんなふうに沿線の名所や風景を織り込んだ歌詞が十五番まで続く。唱歌から当時の風景が浮かんできます。今となっては全く様変わりした風景や風俗がうたわれていておもしろい。一番を見ると、当時はJRが阪急の下を走っていたんだとわかる。二番を見て、業平塚や萩の寺はどこにあったのだろうと中津界隈を訪ね歩いて見る。曽根に移転した萩の寺が当時はどこにあったのかと探すと中津一丁目に「元萩之橋」の石碑が見つかった。★「業平寺導通寺」がどこにあったのかと探すが遺跡らしいものがなかなか見当たらず、休日ごとに出かけて探訪を楽しんでいる。風景や風俗を織り込んだ歌は、後の時代に探訪の楽しみを残してくれる。同じころに「大阪市街電車唱歌」「阪神電車唱歌」も作られた。今ならどんな電車唱歌ができるだろうか。