・・・現在、「風」にこだわって制作していると書いてきましたが、色や形のないものをどう表現するのか、おもしろい画題だと思っています。
《チコちゃんに叱られる》
http://www4.nhk.or.jp/chikochan/
http://www4.nhk.or.jp/chikochan/x/2018-10-20/21/13140/1490026/
・・・意識して視聴しているわけではありませんが、素晴らしい番組・企画だと当初から感心しています。先日、「シーンってなんで言うの?」という内容が放映され、深~く考えさせられました。
・・・初代チコちゃんから現在のチコちゃんに変更されたのは、どうやら奈良さんのキャラがからんでるようだというウワがあります。
・・・結果として、今のチコちゃんの方がいいなと思います。
・・・2016年度の主題派「大作展」テーマが「音」でした。真っ先ににイメージしたのが、芭蕉(1644~1694)「1689閑さや岩にしみ入る蝉の声」でした。
■『NHK 100分de名著』2013年10月号より
松尾芭蕉が山形県★立石寺で詠んだこの句は、『おくのほそ道』の中で大きな意義を持っていると俳人の長谷川櫂氏は言う。しかし、蝉が鳴いているのであれば、閑かというよりはやかましいのではないか——そんな疑問も浮かぶ。この句に秘められた意味を、長谷川氏が解説する。
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
「岩に巌を重て山とし」とあるとおり、岩に岩を重ねたような山のところどころにお堂が建っています。古い山水画の空中にそびえる岩山を思い浮かべても、それほどまちがってはいない。ここで芭蕉が詠んだ「閑さや」の句は『おくのほそ道』の中で大きな意義をもっています。西脇順三郎(詩人、1894—1982)ふうに訳すと、
何たる閑かさ
蝉が岩に
しみ入るやうに鳴いてゐる
こんなふうになりますが、蝉が岩にしみいるように鳴いているのなら「何たる閑かさ」どころか、「何たるやかましさ」ではないか。
やかましいにもかかわらず芭蕉が「閑さや」とおいたのは、この「閑さ」が蝉の鳴きしきる現実の世界とは別の次元の「閑さ」だからです。そこで本文に目をもどすと「佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」とあって「閑さ」は心の中の「閑さ」であることがわかります。芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わたした。頭上には梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとった。本文の「佳景寂寞として」、あたりの美しい景色はただひっそりと静まりかえって、とはそういう意味です。このように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのです。梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現わしたというわけです。『おくのほそ道』を読みすすめてゆくと、月(出羽三山)や太陽(酒田)や銀河(出雲崎/いずもざき)が次々に姿を現わしては去ってゆきます。「閑さや」の句はこの★宇宙めぐりの旅の扉を開く一句なのです。
・・・専門的に解説すると以上のようになるのですが、私たちが日常用いる「静か」と「閑(か)」との違いだと理解しています。
《かん【閑】(名・形動)[訓]ひま、しずか》
1用事がないとき。ひま。2実用的でない。むだ。3のんびりと落ち着く。ひっそりと静か。4★どうでもよい。いいかげん。
・・・辞書で調べると以上のように出てくるのですが、とりわけ「どうでもよい。いいかげん。」という意味もあったりして、アートだなあと気に入っています。