平瀬露香(28) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《参考》「圓井雅選堂」 

541-0043大阪市中央区★高麗橋4-4-21/06-6231-7138 

店主:圓井謙三郎、愼一郎さん(大阪美術倶楽部元取締役、大阪美術商協同組合元理事・監事)現状はモルタル塗り、高塀と犬矢来、むくり屋根が渋い非常に本格的な船場の町家建築。1932年(昭和7)創業という格式ある古書画の古美術商が入居している。現在の住所表示は高麗橋だが、ここは高麗橋通りではない。船場の東西を横断するこの細い通りはかつて★「浮世小路」と呼ばれていた。

 

 

《浮世小路「一方庵」》 

浮世小路の御霊筋を東へ入った南側の別宅。翁の夫人★園子さんは摂津郡山の豪家・山本三四郎氏の長女であったが、長の御病気であった為か、翁は主に別宅に住まわれて、本宅にはほとんど居られなかった。(中略)先年改革の為めに此妾宅も人手に渡され今は★島氏の邸内になっている。只茶席の一方庵の床柱を使って今の★京の本邸に席の形を残してある。

 

 

【平瀬水】(1806~1835)「卜深庵」HPより 

http://bokushinan.com/history/13_hirasesui.html

平瀬家5代当主・水 ( すい ) は文化三年(1806)に春郷の子として生まれている。はじめ亀之助、のちに宗十郎と名乗り、 士潤 ( しじゅん ) と号し、文政三年(1820)に家督を相続している。水は生来病弱であったため、義兄の 呑光 ( どんこう ) (勝古)が家政を補佐している。天保元年(1830)、播州山崎で病気療養中に、水の養生所として浮世小路御霊筋の★「小路座敷(浮世小路別宅)」の普請が行われていて、この時に直斎好みの茶室「一方庵」が武者小路千家から移築されている。なお、平瀬家第7代当主★露香はこの一方庵のあった小路座敷で大半を暮らし、「一方庵」と号している。水は茶の湯を松斎に師事し、文政11年(1821)12月21日から5日間にわたり、梶木町の卜深庵で連会茶事を行っている。水は小路座敷で病気療養をしつつ、読書や茶の湯を楽しんでいたようである。 

 

《参考》「世代を越える茶の湯のご縁とご恩」表千家不審庵HPより 

http://www.omotesenke.jp/chanoyu/7_1_20c.html

祖父・貴一(1880~1966)が惺斎宗匠のお許しを得て帰阪した翌々年の1915年(大正4)、父・貴道(1914~)が生まれました。惺斎宗匠は父の誕生祝いに樂弘入氏に平茶碗を作らせて、祖父にくださいました。碌々斎宗匠は、1902年(明治35)から1910年(明治43)頃まで隠居されてからも大阪によく来られ、平井利兵衛氏宅裏の南船場倶楽部で稽古や書付をされたと祖父から聞いています。祖父の修業時代からの生涯にわたる大恩人の中には、数寄者では山口玄洞氏、惺斎宗匠の又従兄弟に当たられる歌人の山本行範先生、国文学者の吉澤義則先生、阪急創業者の小林逸翁氏、大徳寺では昭隠老師や間宮英宗老師などがおられました。特に山口玄洞氏のお世話で祖父は大阪★浮世小路に稽古場を設けました。ここは近代の代表的な数寄者★平瀬露香氏の別邸小路座敷「一方庵」の跡でした。昨年(2008)★大阪歴史博物館で平瀬露香展があり、「一方庵」の解説が祖父から聞いていたことと重なり驚いた次第です。その後再び山口氏のお世話で淡路町に稽古場を移しました。そこは鴻池旧宅に移る前の美術倶楽部も向かいにあり、ちょうど大名家の入札が始まった頃で、名物道具が落札されたときの歓声が聞こえたと聞いています。大正から昭和にわたって、多くの表千家門人の数寄者の方たちや大阪の主な道具商の方たちが祖父と父を支えて下さり、そのおかげで大阪の茶の湯の発展に尽力出来たのです。また、惺斎宗匠のご命で祖父は福岡・長崎方面にもご縁をいただき、福岡の田中丸様や長崎の松田様他、九州の同門の方々には世代を超えて今もご縁とご恩をいただいている次第です。

 

 

・・・別邸は「浮世小路御霊筋」にあったということなので、まさしく圓井さんのお店のあたりです。 

 

《参考》「御堂筋完成五十周年記念碑」 

541-0043大阪市中央区中央区高麗橋4-1 

 

《うきよしょぉじ》なにわ詞さがしHP「Osakaあらかると」VOL.36より 

http://www.area-best.com/osaka/naniwakotoba/index.html

艶めいた地名は日本中に、仰山おまス。大阪にも通称“浮世小路”在り。ご存知のお方も末だ末だおいなはる筈で。浮世離(ばなれ)のこの呼び名から一寸だけ。船場の中心高麗橋通と今橋通の間に一間半程の小路、市内地図にも名前の載らぬ通路がある。昭和も35年頃の家並は本(ほん)にしっとりした景色で、静かなF喫茶店などポツポツとお店がおました。今日日(きょうび)エライ、様変わりしてしもて。文献によると「船場に小路四所(ところ)有りて云々。淀屋小路・衣張小路・御前小路と此所(ここ)、他に狐小路も…」ゴザッタとか。17世紀後半の寛文・貞亨の頃は、小路両側に質屋・売卜(ばいぼく)・寺子屋・米屋・風呂屋・油屋・色宿まで軒をあらそひ、家建ち集(つど)ひ実に浮世のありさまを眼のあたりに見わたすの故(ゆえ)をもって浮世小路と唱へたるよし…とかや。他に「ここを手代の隠し宿又は問屋蓮葉(はすは)の身ままになりて…云々」の記述がおまス。これなどを直訳? すると「高級料亭を使わず別宅を利用して尻軽(しりがる)に接待等をさせる」即ちその分交際費の節約に通じるという事、一口(くち)に言うと船場の商人達は始末人倹約家が多かったんやてぇ。筆者が月給取りの頃、別家(べっけ)番頭に承った事この話イカイ昔話になってもたねぇ。 

 

【三島佑一】(1928~) 

昭和三年大阪船場道修町生まれ。大阪大学附属薬学専門部京都大学文学部国文科卒元四天王寺国際仏教大学名誉教授元船場大阪を語る会会長主著 小説『美酒のめざめ』(筆名友川康彦・筑摩書房) 『死灰また燃ゆ』(豪華限定本・文学地帯社) 『谷崎・春琴なぞ語り』(東方出版) 『あの日は再び帰らず』(鳥影社) 詩 『詩集 裏の自画像』(編集工房ノア) 『仏教聖歌集 父母の歌・観音さまと私』(非売品) 『地球タイタニック』抄(日本ペンクラブ電子文藝館) 短歌『山河共に涙す』戦争体験歌文集(創元社) 評論『増補 堀辰夫の実像』(林道舎)『谷崎潤一郎『春琴抄』の謎』(人文書院) 『谷崎潤一郎と大阪』(和泉書院) 自分史『昭和の戦争と少年少女の日記』(東方出版)郷土史『薬の大阪道修町―今むかし―』(和泉書院)他。平成二十八年一月逝去。 

【訃報】2016.1.7 

三島佑一さん87歳(四天王寺大名誉教授・日本近現代文学)5日、肝硬変のため旅行先の沖縄県で死去。通夜は9日午後7時、葬儀は10日午前10時、大阪市福島区吉野1-22-8ロイヤルシティホール野田。喪主は妻カツさん。大阪・道修町生まれ。谷崎潤一郎の作品と大阪とのかかわりをはじめ、大阪文化の特徴を長く研究してきた。「船場大阪を語る会」会長。著書に「谷崎・春琴なぞ語り」「船場道修町」など。 

《船場大阪を語る会》 

541-0053大阪市中央区本町4-7-11(愛日会館内)/06-6264-4100 

https://www.sumai-machi-net.com/event/portal/group/sumai106

会長:西岡透。当会は、「船場」文化の研究・発掘と顕彰を主たる目的として、「船場を語る会」の名称で、1981年(昭和56)発足。2000年(平成12)当初から従たる研究対象であった大阪府全体及び旧摂津国の地域を名称に加えて、「船場大阪を語る会」に名称を(拡充)変更しました。当初は年6回、近年は年4回、例会を継続して開催しており、平成28年(2016年)12月には180回目の例会を開催し、現在に至ります。幸いにも設立当初から、大阪を愛する多数の皆様と、多種多方面の研究者・著名人の方々から、会の運営への御協力を賜り、その敬愛する(先人と)先生方の御名前は、とても掲載しきれません。(例会150回目には記念誌を作成しました。)当会発足時からの方針として、大阪の文化を愛し、ご興味のある方々に、出来るだけ気軽に参加して頂くことにしており、例会は、初めての方を含み、どなたでも参加できる、全くの自由参加制にしております。入会金等は無料で、連絡費・資料作成費等として、都度の会費(現在1,000円)のみを、出席時に納めていただいております。現在、会員総数は約300名。毎回の例会には100名前後が出席します。会場と事務局は、大阪市中央区本町の「愛日会館」にございます。 

第178回(2016年3月)「当会前会長★三島佑一氏を偲ぶ」 

第179回(2016年9月)「五代友厚・廣岡浅子(阪大名誉教授・宮本又郎)」 

第180回(2016年12月)「船場大阪を語りつぐ(近江晴子・前川佳子)」 

第181回(2017年3月)「秀頼時代の豊臣家(大阪城館長・北川央)」 

第182回(2017年6月)「昭和初期の北浜(岡安証券元代表・岡本昭)」 

第183回(2017年9月)「大坂蔵屋敷展から(今昔館館長・谷直樹)」 

 

 

★三島佑一さんの著書には、浮世小路や船場商人の「妾宅」について、自家専用のお茶屋(東京風に言うと待合)のような接待施設と愛人の住居を兼ねたものと書かれています。妾は主人の愛人兼自家用お茶屋の管理者、★接遇担当者として置かれた女性である。芸妓や仲居が多いのは、接遇能力の高さを期待されるからです。落籍は人身売買のように思われるが、移籍という表現がふさわしいかもしれない。商家の妻=御寮人さんは、今でいう人事教育や総務の責任者に近い役割を果たしていたようで、昔は良家の奥様方が妾宅に折々の挨拶にまわり、自家用接待施設の視察及び管理担当者との面談を目的として行われていた。また、御寮人さん達も夫公認で役者遊びをすることがあったようです。 

 

《参考》「妾宅」著:永井荷風/明治四十五年四月 

https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49644_38959.html

 

《身請》 

芸娼妓などの身の代金(前借り金)を支払い、約束の年季があけるまえに、稼業をやめさせることである。身請ののち、自分の妻、また妾にすることもある。落籍ともいう。

 

 

・・・「浮世小路」という響きに魅せられて調べてみると、今では考えられない豊かでほっこりした「遊びの文化」が息づいていたんだなあと感心させられる。さて、本宅は「梶木町」日本生命ビルの南側にあり、御堂筋の地下鉄工事のために取り壊されたそうです。現在、当時の写真がないかと探しています。