・・・お詫び、平瀬露香(25)に掲載した★《秀吉所持真珠埋め込み刺繍団扇形軍配》朝鮮王朝時代16世紀/蔵:徳川美術館について「平瀬露香旧蔵」と書きましたが、「大刀剣市2010」カタログに掲載された画像とよくよく見比べますと、よく似ていますが微妙に違うことがわかりました。徳川美術館HPによりますと「本品とよく似た一握が★宮内庁に所蔵されており、ともに豊臣秀吉(1537~98)の所用と伝えられています。」ということです。宮内庁にあるものが露香さん旧蔵なのか、でないとすればよく似たものが3本あることになります。(未解決事案です)
【日本美術協会】
明治初年には急激な西洋化の結果、従来の美術作品は価値を落とし、作家も需要を失って窮乏していた。このような状況を危惧した佐野常民、河瀬秀治、九鬼隆一らは1878年(明治11)3月、上野の天龍山生池院(弁天堂)に集まった。これが後の「龍池会」の始まりである。会頭は佐野、副会頭は河瀬が担当し、古美術品の鑑賞会(「観古美術会」)や同時代の作品の品評会を主な活動とし、上野で会合を行った。当初は旧来の美術をそのままに保護しようという方針であったが、重要なブレーンであったフェノロサは狩野芳崖を通じて和洋折衷の新しい日本画の創出をめざすようになり、内部での対立を生み出した。この結果、1884年(同17)に九鬼や岡倉覚三(天心)、今泉雄作ら文部省組が離反して新たに「鑑画会」を発足させ、この運動は明治20年(1887年)の東京美術学校の設立へと到る(同校の授業開始は明治22年)。 鑑画会の革新運動に危機感をいだいた龍池会側は宮内省との関係を深め、1887年(明治20年)に有栖川宮熾仁親王を総裁に迎えて「日本美術協会」へと改称する。純粋な伝統絵画を保存しようという方針の下に伝統画派の重鎮が集まり、鑑画会系の革新派が新派と呼ばれたのに対して旧派と呼ばれた。1888年(明治21年)には会報である『日本美術協会報告』を創刊する他、同年に帝室技芸員の前身である「宮内省工芸員」を認定している。上野公園内の宮内庁用地を借り受けて会館を建設し、美術展の開催を行ってきた。皇族を総裁に戴いた求心力も手伝い、設立時の1888年には478名だった会員数は増え続け、1903年(明治36年)12月時点のピーク時には1560名に達した。ここから1917年(大正6年)までが最盛期で、この期間は前期日本美術院の苦境と新旧両派が激しくぶつかり合った文展期に重なる。もっとも、日本美術協会は単に伝統を墨守していたわけではない。実際の作品を見ると明治30年代以降、画面全体の鮮明化、伝統的な画面構成に囚われない近代的な感覚をうかがわせる作品も出てくる。画題も静的な花鳥画が減り歴史画が増え、作品名に「図」を繋ぐ「之」の字が30年代から少しずつ減り始め、30年代末期から大正に入ると「図」の字そのものが付されなくなる[1]。しかし、過去の栄光にこだわる本質的な姿勢は変わらないままの変革は、国粋的伝統保守派という自らの存在意義を失わせる行為であった。やがて協会の才能ある若手画家たちは協会に見切りをつけ、活動の中心を文展に移していく。会員数は下降線を下り、宮内庁の作品買上も急速に減少していく。宮内庁買上の激減は、床軸に適した日用の調度品としてではなく、美術の奨励を主眼として歴史的意義ある展覧会出品作をコレクションしていく方針に切り替えたためだと考えられ、協会の日本画が画壇の主流としての地位を完全に失ったのを示している。第二次世界大戦中に活動を停止したが、戦後、活動を再開し、展示施設を建設した。現在の★「上野の森美術館」である。
◆【上野の森美術館】◆
110-0007東京都台東区上野公園 1-2/03-3833-4191
公益財団法人日本美術協会は、明治12年に設立された「龍池会」を前身とする美術団体で、1883年(明治16)有栖川宮熾仁親王殿下が龍池会総裁に就任され、現在は常陸宮正仁親王殿下が総裁をつとめられています。当協会が運営する上野の森美術館は、日本美術協会美術展示館の設備を一新して1972年(昭和47)4月に開館しました。上野恩賜公園のなかに建つ当館は、開館以来重要文化財の公開をはじめ様々なジャンルの美術を紹介しています。常設展示は行っておりませんが、毎年開催している美術館主催の現代美術展(VOCA展)、公募展(上野の森美術館大賞展、日本の自然を描く展)のほか、定期的に独創的な企画展を開催し話題を提供しています。2006年(平成18年)、別館が増築され1階は小企画展が開催できるスペース「上野の森美術館ギャラリー」を新設、3階は上野の森アートスクールが設置され、ますます活動のはばが広がりました。そしてこの度、2011年(平成23年)4月1日、財団法人日本美術協会は「公益財団法人日本美術協会」へ移行いたしました。
●日本美術協会美術展覧会1889年(明治22)1890年(明治23)
『明治22年臨時美術展覧会出品目録』『明治23年美術展覧会出品目録』
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849735
・・・露香さんの出品があります。
【日本美術協会「大阪支会」】
《参考》渋沢社史データベースより
(財)日本美術協会『日本美術協会年表 : 創立50年記念』(1928.04)
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=15140&query=&class=&d=all&page=4
明治26年(1893)3月1日ヨリ同31日マテ、大阪支会第1回美術展覧会ヲ★大阪府立博物場内「美術館」ニ開催ス。
《森琴石.comより》
https://www.morikinseki.com/chousa/h1804.htm
明26(1893)第1回日本美術協会大阪支会展覧会2/29「波涛図」銀牌、賞状
明29(1896)日本美術協会絵画研究会大会賞朱盃
明34(1901)日本美術協会美術展覧会6/22「秋景山水図」2等銀牌、賞状
大6(1917)日本美術協会第1部委員嘱託12/25嘱託状
大7(1918)日本美術協会第1部委員嘱託 2/9嘱託通知状
●日本美術協会大阪支会について
https://www.morikinseki.com/kanren/kanren_na.htm
結成★明治24年(1891)11月
事務所:大阪市東区大手通2丁目⇒明治31年★「泉布観」に移転
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000000997.html
支会長★平瀬亀之輔(露香)
・・・そうそうたるメンバー、その会長が露香さんスゴ~イ。
《豊公遺物展覧会》「豊公遺物展覧会出品目録」による(概要)
期間:明治36年3月1日~7月31日
場所:川崎御料地★「泉布観」内
目的:古美術工芸の保存発達を奨励する為 (第五回勧業博覧会の開催を機とし当地に最も縁故ある豊太閤の遺物及び、その関係ある諸家の事物を広く蒐集し名づけた)
出品者:(出品遺物品名・住所は省略する)
東京帝国博物館・公爵池田章政・侯爵池田仲博・泉由次郎・池上治三郎
伊藤清助・飯田松次郎・井上勝彦・伊木忠愛・西村庄兵衛・侯爵細川護成
堀之内高潔・伯爵藤堂高虎・徳弘太無(高知)・友淵楠麻呂・大橋平右衛門(岡山)・小幡重吉・大利鹿蔵・岡本喜兵衛・岡本福孝・渡邊叉三郎・若月貫一・
和田直資・子爵加藤泰秋・川村顕往・嘉納治兵衛(兵庫御影の酒造家)・堅田少輔・
筧半兵衛・片岡利一郎・河野五左衛門・侯爵伊達宗徳・侯爵伊達宗基・
子爵田中光顯・高崎親章・谷森善臣・谷森眞男・高田源四郎・玉井久次郎・
高橋正意・谷友三郎・田中楢次郎・高田邦三郎・高橋諸隋・土井邦吉・中井芦郷・
長野吉兵衛・中村利恭・長澤常山・成田クニ・中村雅眞・仲田傳之松(愛媛)・
中宮平兵衛・内田幸助・上野理一・野村米太郎・黒田長成・子爵黒田長敬・
桑原羊次郎・国枝虎助・草間繁蔵・久保貢・侯爵山内豊景・安井武蔵・
山口忠敬・山本憲(播磨鍋展示・一致帖)・山村栄吉・山村直心・保田元義・
侯爵前田利同・侯爵松平直亮・子爵松平親信・松平家晃・松本幹一(舩田舩岳日誌)・益田孝・下條正雄・子爵福間孝悌・藤田傳三郎・福間富蔵・
藤原宗七・深田與三郎・福井藤九郎・藤木喜兵衛・二見金助・侯爵近衛篤麿・
子爵五嶋盛光・薦田理兵衛・寺村庄三郎・子爵秋元興朝・伯爵佐野常羽・
伯爵眞田幸民・子爵榊原政敬・阪井瓢亭・子爵木下俊哲・木村静幽・
男爵北畠治房・伯爵溝口直正・宮部鐵雄・嶋豊次郎・渋谷史春・鹿田静七・
進藤重知・七里子濤★平瀬亀之輔・久留弘毅
奥附★日本美術協会大阪支会/一萬堂印刷・明治36年7月31日発行)
・・・この展覧会に★「秀吉所持真珠埋め込み刺繍団扇形軍配」が出品されていました。
《全国南画共進会》
●1900年(明治33)第1回「全国南画共進会」/主催:大阪南宗画会
【村田香谷】(1831~1912)
筑前に南画家村田東圃の子として生まれる。名は叔、別号に蘭雪、適圃など。はじめ父に、のち京都で貫名海屋に師事、南画を学び、梁川星厳に詩を学ぶ。また長崎に遊学、鉄翁祖門に入門、その後、中国に三度渡り、胡公寿に学んだ。明治14年第2回内国勧業博覧会に出品、同15、17年に第1回、2回内国絵画共進会で褒状受賞、同23年、36年に第3回、第5回内国勧業博覧会で受賞した。同30年★「日本南画会」の設立に参加、同年大阪に移住、同33年★第1回全国南画共進会でも受賞した。山水に長じ、関西南画界の重鎮として活躍した。
・・・この機会に「南画(南宗画)」について調べてみましょう。
《日本南画会》
1896年(明治29)東京において児玉果亭、野口小蘋、小室翠雲、松林桂月により「日本南画会」が、京都においては田能村直入、富岡鐵斎によって「日本南画協会」が設立された。その後1921年(大正10)、三井飯山、河野秋邨、小室翠雲、池田桂仙、水田竹圃、矢野橋村らにより最初の「日本南画院」が創立され全国の南画家が結集した。
《日本南画院》
602-0853京都市上京区河原町通荒神口上る西側宮垣町83/075-252-6675
http://nihonnangain.or.jp/aboutus.html
戦中戦後、南画家の作品発表の場は多くありませんでしたが、昭和35年(1960)5月20日京都に於いて、文化勲章を受章した松林桂月、芸術院賞を受賞した矢野橋村、創立理事長となった河野秋邨を中心として社団法人★「日本南画院」が結成されました。
《日本中央南宗画会》
【毛利梅友】(1871~1953)
山本梅逸、中林竹洞に私淑。水谷棲谷・田能村直入に師事。画を業とし多数の門人を擁する。東海美術協会会員。★「日本中央南宗画会」を創立する。
【中根雪窓】(1849~1924)
嘉永2年3月額田郡岡崎町生まれ。名は正貞、字は子寧、通称は甚太郎。別号に松北、拙叟がある。経史を曽我耐軒に学び、画をはじめ谷口靄山につき、のちに山本梅荘に師事した。各地の山川を巡り、山水を得意とした。帝国絵画協会★「中央南宗画会」の会員で、俳画もよしく、茶をたしなんだ。岡崎町長をはじめ公職を歴任した。大正13年10月、76歳で死去した。
【永松春洋】(1850~1931)
山水画を杵築の十市王洋に、花鳥画を木下橘巣について学び、のち大阪に出て田能村直入の門に入る。以来、大阪に住し絵を続け、多くの子弟を育成し、南画の再興に足跡を残した。明治30年第1回全国絵画共進会で3等銅牌を受賞したのをはじめ各地の絵画共進会や内国勧業博覧会、日本美術協会展、日本画会展で受賞を重ね、日本美術協会会員、日本画会会員、★名古屋中央南宗画会会員となる。関西では南画界の泰斗とされ、育てた弟子たちは後日「雲燎会」を組織して活躍した。各種の公共事業に度々私財を投じたことでも有名。
【石川柳城】(1847~1927)
尾張の人で南画家。名は戈足(かそく)、字は子淵(しえん)、通称は金四郎のち孝蔵、号は柳城。本姓は伊東。尾張生まれ、中野水竹・吉田稼雲につき文人画を学ぶ。京都に出て日根野対山・中西耕石らと交わる。明治29年から明治35年ごろまで、台湾から南中国を歴遊して研鑽をつんだ。帰国後「日本南宗画会」を結成、その幹事をつとめる。明治42年に東京から名古屋に居を移した。その後★「中央南宗画会」の再興に当たり、幹事をつとめた。南画の泰斗として、その名を知られ、詩や書も良くした。
【小笠原華文】(1878~1924)
渥美郡赤羽根村生まれ。眞宗光明寺住職・小笠原暉山の二男。幼い頃から鏑木華国に師事、のちに名古屋の三浦石斎、織田杏斎について文晁系南画を修めた。この頃、田原の西光寺に滞在し、多くの作品を残している。大正5年頃に上京し、荒木十畝に師事して「読画会」に入門した。帝国絵画共進会や★「中央南宗画会」などに出品し、将来を嘱望されたが、大正13年豊橋に滞在中に47歳で死去した。
【初代・太田秋亭(湘山)】(1874~1936)
本名:太田贏太郎(カチタロウ)。長崎にて明治7年に生まれる。清国より来たる文人画家、長崎派の祖:沈南蘋(ナンピン)の影響を受け、南宗画を習う。岡田篁所(漢学)、や 崎陽守山湖風(コフウ)に師事した。30代になって名古屋に移り、東海美術協会審査員、★「中央南宗画会」理事及び会長を就任。私塾を開き多くの弟子を養成し、南画家として名を高めた。37歳のとき神戸に移り、野村の黒川様、三菱の三木様を始め、財界や外国人の方々にも指導した。画号を、虚心洞・太田秋亭又は秋亭湘山人などを好んで用いた。東京に移り、昭和11年62歳没。
《大阪南宗画会》
1898年、大阪で南北両派合同の★「日本中央南宗画会」、解散。南画家★平瀬亀之輔、矢野五州、姫島竹外らが「南宗画会」を結成、のち「大阪南宗画会」と改称。1900年★第1回「全国南画共進会」開催(「近代日本美術事典」ほか)。
【姫島竹外】(1840~1928)
福岡藩士。初め村田東圃、のち石丸春牛に師事し、南宗画を学ぶ。福岡侯に仕え、幕末は国事に奔走。維新後大阪に移り、画業によって立つ。「松石佳霊図」を東宮に献上してから画名を上げ、明治31年大阪の南宗画家と「南宗画会」を結成、幹事となる。33年同会を「大阪南宗画会」と改称、同年第1回全国南画共進会を開催、2等賞銀牌を受賞した。また日本美術協会にも会員として参加。晩年は門下も多く、社中で淑心会を組織、大正7年には竹外南画院を設立し後進の育成にあたった。門下に水田竹園、赤松雲嶺らを輩出、大阪南画壇の大家として活躍。山水、花鳥に長じ、ことに竹林を得意とした。
【田能村竹田】(1777~1835)
https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/d3bf5157cb6a8bd87dd53434580677d0
●豊後南画の祖「田能村竹田」/広報おおいた
http://www.pref.oita.jp/site/archive/200601.html
●豊後南画バーチャル会館
http://bungonanga.com/menu2/haikei.html
【田能村直入】(1814~1907)
豊後直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)生まれ。日本最後期の文人画家として知られる。田能村竹田の養継子。幼名は、はじめ松太、のち傳太。諱は、はじめ蓼、のち痴。字は、はじめ虚紅、のち顧絶。号は、はじめ小虎、のち直入。通称は小虎とした。別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。
明治10年(1877年)、63歳のときには京都博覧会開催に尽力。出品し受賞している。天皇の行幸のとき御前にて揮毫する栄誉に浴している。翌11年(1878年)8月「京都府画学校」の設立を幸野楳嶺らと京都府知事槇村正直に建議した。明治13年(1880年)、開校となり直入は摂理(校長)に就任。しかし、各画派の衝突が絶えず明治17年(1884年)に責任をとって辞職する。なお、京都府画学校はのちの京都市立芸術大学の前身である。退職後も私塾「南宗画学校」を設立。明治23年(1896年)には富岡鉄斎、谷口藹山らとともに★日本南画協会を設立。私塾を協会に合併した。
明治32年 全国絵画共進会特別賞、南画展覧会褒状/褒賞貮等
明治34年 第三回★全国南画共進会褒状/褒賞壱等
明治35年 第四回★全国南画共進会褒状/褒賞壱等
【富岡鉄斎】(1837~1924)
近代の巨人的日本画家。京都の法衣商十一屋伝兵衛(富岡維叙(これのぶ))の次男として生まれる。名は初め猷輔のち道節、さらに百練と改める。字は無倦。号は初め裕軒のちに鉄斎、ほかに鉄崖、鉄道人がある。山本園に読み書きを習い、15歳のころ平田篤胤の門人大国隆正に国学を、岩垣月洲に儒学を学ぶ。20歳のころには心性寺に太田垣蓮月の学僕として住み込み、その薫陶を受けて春日潜庵に陽明学を学び、梅田雲浜(うんぴん)の講義を聴く。また頼三樹三郎、板倉槐堂、藤本鉄石、山中信天翁らと交際するなど、幕末動乱のなかで勤皇思想に傾倒し、国事に奔走する青年期を過ごした。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kikaku_tokubetsu/tessai.html
維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮、和泉★大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、1881年(明治14)京都に帰り画業に専念。
http://www.ootoritaisha.jp/2017/05/08/tomiokatessaitenn/
画は19歳のころ大角南耕、窪田雪鷹に南画の手ほどきを受け、長崎旅行(1861)の際、木下逸雲や鉄翁に画法を問うたりもしたが、ほとんど独学である。★南画や明清画、大和絵などの諸派の研究、また写生をその基礎に独自の画風をつくりあげたが、特色とするところは、生新な色彩感覚と気迫に満ちた自由放胆な水墨画風のものにあり、多く晩年に傑作を残している。活発になった明治画壇で、各種の展覧会や博覧会の審査員となるが、自身は★南画協会、後素如雲社展以外は出品せず、自適の生活のうちに在野の学者としての態度を貫いた。「万巻の書を読み、万里の道を行く」文人哲学を指標に、博学多識、稀覯(きこう)の書の収集家としても聞こえています。1917年(大正6)に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員に任ぜられます。大正13年12月31日京都に没。
【浅井柳塘】(1841~1907)
生地は京都あるいは阿波(現徳島県)という。名は龍、字は子祥。別号に小白、白山人、拝竹道人、白雲山客、雲客蘇雲などあり。はじめ百々広年に四条派を学び、次いで谷口藹山に南画を学び、貫名海屋に教えを受けた。のち長崎に遊学し、木下逸雲や日高鉄翁、清人徐雨亭らに画法を学ぶ。元明の古名蹟を学び、明治6年(1873)京都博覧会では席上揮毫に参加した。明治13年(1880)京都府画学校出仕拝命。同33年(1900)大阪南宗画会主催★第1回全国南画共進会では二等銀牌となった。全国を巡遊し、晩年居を京都に定める。山水を得意とし、詩文に長じて書もよくした。
【大西黙堂】(1851~1921)
嘉永4年川之江町井地生まれ。本名は為一(為市とも書いた)、別号に黙仙、黙遷がある。大西家は質屋をし、サトウキビから製糖もしていた。黙堂は生まれつき言葉が不自由で、幼いころから書画に親しみ、明治の初めころに絵の修業のために京都へ出て、浅井柳塘に師事、水墨画を学び、師匠や画友らと全国をまわってスケッチをした。明治19年東洋絵画共進会で三等賞、同34年★全国南画共進会で三等賞、41年関西南画会全国絵画展で二等賞を受賞した。大正10年、71歳で死去した。
【平尾竹霞】(1856~1939)篠山の生んだ近代南画家
https://www.city.sasayama.hyogo.jp/hiro/12hirao.html
平尾竹霞は安政3年(1856)丹波篠山城下河原町の王地山焼陶画士平尾惣左衛門(画号竹郭)の長男として生まれ、名を織之助といい、竹霞はその号です。学問を篠山藩学者渡辺弗措に学び、19歳のとき絵を志して京都に出て円山四条派の日本画を学びました。のち南画家★田能村直入の門に入り、絵の研鑽に努めました。その後、直入とともに京都府画学校の設立に奔走するなど、絵画界の発展のために力を注ぎました。自らの画風を打ち立て、嵐峡12景和歌浦21勝の大作を次々に発表。嵐峡12景にいたっては、京都保津川の保津峡に3年間分け入り、四季に変わりゆくすがたを画帳に収めた労作でした。そしてこのような中、日本南画協会の設立に尽力し、画壇の重鎮として活躍するとともに、京都三条に高風閣(こうふうかく)という茶屋を建て、文人墨客と広く交わりました。多くの作品を残した篠山出身の南画家平尾竹霞も昭和14年(1939)83歳をもって不帰の客となってしまいました。
【田近竹邨】(1864~1922)
元治元年竹田生まれ。国学者・田近陽一郎の二男。名は岩彦。幕末期勤皇の志士だった父から薫陶を受け、学を修めていった。幼いころから画才に優れ、淵野桂僊について学び、のちに京都に出て田能村直入に師事した。直入の世話により入学した京都府画学校で本格的な画学習を開始、のちに直入が創立した南宗画学校の教授となった。明治28年内国勧業博覧会で褒状、明治31年全国絵画共進会で四等銅印、明治38年には再度内国勧業博覧会で褒状を受けた。明治41年文展三等賞受賞、以降大正3年まで毎年同展で入賞を続け、京都南画壇での地位を確固たるものとした。大正10年、小室翠雲らと★日本南画院を京都に創設し、中心的役割を果たしたが、翌大正11年、58歳で死去した。
【真野香邨】(1866~1948)
愛知県海部郡佐屋村須衣の生まれ。本名比佐太郎。明治16年京都に出て、村田香谷・小林卓斎に絵を学ぶ。同30年南画協会正会員となる。同32年名古屋全国絵画共進会で二等褒状、翌年★大阪南画共進会で一等褒状を受ける。生地に住んで帝国南画協会・日本南宗画会の会員として活躍のかたわら骨董・茶道・謡曲などをたしなむ。
《参考》伊予の南画
https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/8489c86313d93905d8299c98230747cd
【矢野橋村】(1890~1965)
明治23年越智郡波止浜町生まれ。本名は一智。別号に知道人、大来山人、古心庵がある。18歳で大阪に出て、砲兵工場で働いていた時に事故で左手首を失った。20歳で南画家・永松春洋の門に入り、大正3年、25歳の時に文展に初入選、褒賞を受けた。以後も文展に出品、院展が再興されると出品して院友となるが、次第に既成団体から離れていった。大正5年に主潮社を設立、同10年には★日本南画院設立に参加し、昭和11年の解散まで出品した。また、大正13年に「大阪美術学校」を設立、校長となり後進の育成に尽力した。昭和2年から再び帝展に出品、翌年特選となり、同8年には帝展審査員となった。36年には日本芸術院賞を受賞した。古川英治「宮本武蔵」など多くの新聞挿絵を担当している。昭和40年、76歳で死去した。
【矢野鉄山】(1894~1975)
明治27年越智郡波止浜町生まれ。本名は民雄。矢野橋村の甥。幼いころから画を好み、18歳の時に上京して小室翠雲に師事した。同13年に叔父の橋村が大阪美術学校を開設したため、それを機に大阪に移り、同校で学んだ。大正9年、第2回帝展に初入選し、以後も文展、日展に出品した。大正10年の日本南画院創設にともない、師の翠雲や橋村とともに参加、昭和11年の日本南画院解散の翌年には、橋村、菅楯彦、小松均、中川一政、津田青楓、八百谷冷泉らと墨人会倶楽部を結成した。昭和14年、橋村を中心とした乾坤社を結成、大阪美術学校を拠点に公募展を5回開催した。昭和18年には新文展の審査員をつとめ、戦後も日展審査員をたびたびつとめた。昭和43年、★全日本水墨画協会を創立、水墨画の振興に尽力した。昭和50年、81歳で死去した。
《参考》大阪の南画/大阪市立美術館
https://www.osaka-art-museum.jp/def_evt/osakananga2014
南画とは、中国の士大夫が余技として描いた南宗画(文人画)に、江戸時代の日本の画家たちが影響を受けて誕生したジャンルです。大阪では、18世紀中頃から池大雅の弟子である福原五岳、文人のサロンを形成した木村蒹葭堂、さらには岡田米山人・半江父子ら、個性豊かな絵師たちが活躍しました。明治になると南画はフェノロサにより排斥されますが、大正期には近代西洋絵画の影響などを受け、南画が再評価されます。大阪でも相次いで設立された美術団体において、矢野橋村や甥の鉄山、水田竹圃などが革新的な南画を発表し活躍しました。近世から現代まで、大阪で花開いた南画の世界をご紹介します。
※南画とは/墨友会HPより
http://www011.upp.so-net.ne.jp/bokuyu-kai/contents2.html
《守口市現代南画美術館》
570-8677大阪府守口市大宮通1-13-29/06-6998-7570
現代南画(現代南宗画)を常設展示する珍しい美術館。守口市名誉市民であり、日本南画院の会長である★直原玉青などの著名な画家から現代南画の作品を収集・展示している。常設展のほかに年4回の企画点や特別展も行っている。また、資料室では、南画(南宗画)や東洋画についてのビデオ放映も行う。南画は、水墨を基調にした絵画。もともと室町時代に中国から伝えられた南宋画が、江戸時代に盛んに描かれ日本独自の絵画世界を作り、やがて南画と呼ばれるようになった。その後、日本画や洋画の写生の手法を取り入れたり、色彩を使うようになったのが現代南画。守口市現代南画美術館では、現代南画の第一人者の直原玉青の作品23点をはじめ、流麗な線と墨の濃淡で山水画や人物、風景など様々な題材が描かれた現代南画205点を所蔵する。
★平成25年12月末、閉館。
現代南画等美術に触れる機会を提供し、市民の文化と教養の向上に寄与するため、平成8年に設置された守口市現代南画美術館は、平成21年には厳しい財政状況のもと休館し、この間、施設のあり方及び運営方法等を見直し、平成23年の再オープンを経て、展覧会の充実などに取り組み、同館の有効活用と利用促進を図ってきたものの、利用状況の改善が見込まれないことなどから、同館を廃止しようとするものであります。また、ただいまの守口市現代南画美術館の廃止後、守口市生涯学習情報センターにおいて、現代南画の展示及び保管を行うため、ギャラリーの一部及び展示準備室を保管庫として整備します。引き続き、守口市生涯学習情報センターのギャラリーを活用し、芸術文化の振興と現代南画の普及・促進に取り組んでいく。(守口市)
【直原玉青】(1904~2005)
岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人-d 日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。2005年9月30日、心不全のため死去した。101歳没。
《参考》松原洋一・UAG美術家研究所
https://blog.goo.ne.jp/ma2bara
近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。
【松原洋一】(1957~)
http://yuagariart.com/index.html
1957年大分県生まれ。1987年~2016年『美術年鑑』編集。2001年~2009年All About[日本画]ガイド。湯上がり美術談義では、20万件の美術家データの中から主な美術家のデータを掲載しております。美術家の経歴を探す場合のインデックス、そして美術家の重要性を探る場合の指標となるように、随時データ収集とメンテナンスを行なっております。また、「湯上がり」には、飾りを捨てて、先入観を持たずに、という意味を込めています。
・・・明快なコンセプトでデータ収集をされていて、本当に参考になります。
《江戸後期の南画家たち》京都国立博物館より
https://www.kyohaku.go.jp/jp/theme/floor2_4/f2_4_koremade/kinse_20170221.html
日本の絵画は、古来つねに大陸文化との密接な結び付きをもってきました。そのなかでも、十八世紀以降にあらわれた南画家たちは、とりわけ強い中国趣味をその活動の共通基盤とし、主に明時代末期の蘇州派と呼ばれる画家たちの様式を軸に、各々独自のスタイルを築き上げました。詩画の世界に心を遊ばせることを楽しんだ南画家たちは、限られたサークルのなかで享受される制作を行うことも少なくありませんでした。そこで制作された作品には、ときに制作の経緯や鑑賞の痕跡が歴史として刻まれ、それらが作品世界をいっそう広がりある豊かなものにしているのです。
・・・「南画」おそるべし。