平瀬露香(26) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・露香さんについて調べるにあたり、どうしても郷土研究「上方」を入手したくて、それこそ「四方八方」探しておりました。 

 

《「郷土研究 上方」(復刻版)》 

この本は、1931年(昭和6)1月から1944年(昭和19)4月までの、およそ13年間にわたって発行された、上方(奈良・京都・大阪)を研究するための雑誌です。入手したのは、1969年(昭和44)に復刻版として新和出版(株)から発行されたものです。”上方文化”は、歴史的な観点からは日本文化の中心点として位置付けることが出来ます。

 

 

●編輯発行者の★南木芳太郎氏は、創刊号の”あいさつ”のなかで、”上方は文化の発祥地である”と言っているように、”上方文化”ではなく”日本文化”と位置付けておられます。また、商業都市としての”上方”は、”商い”という独特の商業文化が極めて強く発達した姿です。現在でいう、販売管理、在庫管理、品質管理、人事管理、財務管理、金融、流通、交通など、経営管理の全てのノウハウを蓄積しているのが上方です。これらのノウハウは、当時のヨーロッパ諸国の商いの制度と比較しても遜色のないほど整ったものであり、高度な文化であったと言えます。”上方”のもう一つ強調できる点は、文学・文芸です。江戸時代が生んだ井原西鶴、近松門左衛門の2人は、上方を代表する作家・文芸家です。この雑誌の”創刊号”の目次を見ると、非常に文芸色の濃い項目がほとんどです。”大阪に遺れる名木老樹”では、大阪の都会化により無くなりつつある名木老樹について、その所在を明らかにしています。高さが最も高い木は、北区中野町の銀杏が47間、1間=1.8メートルとして、およそ85メートルであるという。現在はどうなっているのでしょうか。”彌次喜太と大阪鮨”では、江戸のにぎり鮨と大阪の筥鮨、京の鯖鮨について、当時の小説に現れた鮨が存在したかどうかを検証しています。慶応3年に起きた”大阪に於ける御蔭騒動”について記録と故老の実見談として詳しく紹介しています。この件については、最近の書物でも「ええじゃないか 民衆運動の系譜」(西垣晴次著、新人物往来社)に詳しく説明されています。

 

 

●第2号もこの傾向は全く変わっていません。この号では”京都の節分”が面白い。ここでは、この記事が書かれた昭和初期に、古くから残っている伝統を紹介しています。”結婚と移転”(厄年や吉日を得られない人が、結婚や引越しを節分の日にする慣わし)、”吉田神社詣り”、”四方詣り”(四方とは、吉田神社、北野神社、稲荷神社、壬生寺)、”花柳界とお化”、”壬生寺”、”宝船”、”五條天使社”、”六地蔵詣り”、”厄払ひ”の項目があげられています。”明治の大阪風俗史”の”漫談大阪が生んだ東西屋”(花月亭九里丸著)で”チンドンヤ”が”東西屋”又は”廣目屋”と言われていた明治時代の図が紹介されています。”東西屋”の元祖が花月亭九里丸の父であること、この初代九里丸がいわゆる”チンドンヤ”を新しい試みで色々工夫して全国へ名を馳せたこと、”東西屋”の商売のやり方が全国へ広がった事、など、”チンドンヤ”が、どの様に広まっていったかが判りやすく書かれています。 

●第3号で早速”天王寺研究号”を特集している。大阪と天王寺は切っても切れない関係です。ここでは、天王寺に関するあらゆる事柄が記述されており、”天王寺一色”の感があります。”四天王寺縁起考”(四天王寺教学部長 出口常順)による建立の由来は、”四天王寺御手印縁起”に記述されているところによる。全文を原文で読みたい方は「四天王寺古文書(第一巻)」(清文堂史料叢書第78刊)の始めに書かれています。この他にも、第一巻には”天王寺秘決”、”秋野家伝証文留”、”御條目御達書写”、など四天王寺に関する古文書各種が紹介されています。また、天王寺に関しては「塩尻」(天野信景著)、「卯花園漫録」(石上宣続著)、「一話一言」(大田南畝著)、など江戸時代に書かれた随筆等の書物にも多く記述されています。大阪四天王寺といえば”庚申堂”が知られています。上方言葉では”コオシンサン(庚申様)”と言うようです。(「大阪ことば事典」より)日本三庚申の一つです。江戸時代の随筆「京童跡追」、「守貞漫稿」、「難波鏡」、など多くに紹介されています。 

●第4号では附録として明治9年発行”御布令之譯(おふれのわけ)”というのが付いています。これは”各地方違式けい違條例”というのが明治6年7月に布告されましたが、これを図解解説したものを附録としたものです。條令90ヶ条のうち抜粋して45ヶ条分を一表にしています。この後半部分が発行された形跡はありません。江戸時代には当然行われていた事が、明治文明開化により日本国民として相応しくない行為(現在では一般人から見て非常識な行為)について解説しています。現在でも通用するものがいくつかあるのが面白い。 

●第5号では、”上方への注文書”という一項目があります。主として東京方面の29名の学者、作家などの著名人によるご意見です。自分の専門家としての意見が多く見られます。 

●第6号は”橋と川”を小特集している。このなかで大阪は”水の都”で橋が多い事を紹介している。”高津の川と橋”では、”高麗橋”、”四ツ橋”、”安治川橋”、”八軒家”の浜について、江戸時代から昭和初期までの変遷を図入りで紹介している。明治45年に発行された「日本写真帖」(ともゑ商会)の大阪湾の写真を見ると、水際に建つ明治の西洋風建築物が多く見られる。 

●第7号は”夏祭号”の特集です。目次の上段には、各町の提灯の絵が描かれています。この号では、大阪以外の京都、堺のお祭も紹介しています。また、”大阪神社夏祭便覧”に各神社毎の行事の日と内容を詳細に紹介しています。”住吉神社”が9社、”八阪神社”が6社、”天満宮”が6社、のように同じ名前の神社が見うけられます。この号では”天神祭之諸相”として、”沿革”、”前儀「鉾流神事」”、”地車の宮入”、”渡御路線の変遷”、”催太鼓”、”天神祭と橋梁”、”渡御船列”、”別火船と献茶船”、”水上の諸祭儀”、”御迎人形”、”篝”、”天神祭と消費経済”というように、江戸時代からの祭の様子を紹介しています。 

●第8号は”西鶴記念号”を特集。井原西鶴は江戸前期の浮世絵草紙作家・俳人で大阪の富裕な町人の家に生まれ、西山宗因に師事し談林派俳諧の最前衛で活躍した人です。(「角川日本史辞典」より)この号にある宇和島市久保貢氏の所有する芳賀一晶筆の西鶴の肖像画は、「戯曲小説近世作家大観」(中文館書店、昭和8年)の井原西鶴の項目においても、最も信頼できる肖像画であると記しています。 

●第9号の中に”江戸の百鬼夜狂と上方の百鬼夜興”と言う項目があります。ここに出てくる題名百首を見てみると、いわゆる”怪談話”に現れるテーマが多く見うけられ非常に面白い。勿論現在では理解できないものもあります。 

●第10号は”千日前今昔号”を特集。特集写真の中に明治時代に建築された千日前楽天地の建物が見えます。”千日前覚え帳”(高橋好劇手記、上田長太郎補綴)は、前篇 歓楽境以前①旧幕時代の千日前、②刑場としての千日前、③獄門と引廻しの作法、④墓地としての千日前、⑤葬儀の格式、中篇 歌舞伎と千日前①梅野由兵衛と三勝半七、②文七、かしく、団十郎 後編 歓楽地草創時代①草分けの人々、②見世物の出現、③当時の人気者、④文明開化の見世物、⑤火事又火事、⑥ヘラヘラと二十加”五十年前の千日前”、”三十年前の千日前”、”二十年前の千日前活動写真”(船木茂兵衛)などは、勿論昭和6年から数えての事です。 

●第11号は”大阪城研究号”を特集。豊臣秀吉の築城した大阪城は全城完成までに3年半を要した。大阪城に関する書籍は数多く出されているので、ここでは一般的な記事の紹介は省略します。この号の大阪城の写真2枚(1枚は”大阪陣屏風下畫”、1枚は”新天守閣”)を較べてみると相当異なっていることがわかります。 

●第12号では12月という事で”赤穂義士”関係の記事を掲載。 

●第13号は”上方歌舞伎号”。

 

★そして第14号は”大阪町人号”です。

 

 

・・・やっと辿り着きました。この第14号”大阪町人号”に、露香さんが登場するのです。「単本」でゲットすることができませんでしたので復刻版「合本」2を入手しました。 

 

【出生地】/城北篠葉村別墅(中津町の下3番) 

洫川に掛かった★「萩の橋」という小さな橋の手前を奥へ引き込んだ荒れに荒れた家がそれで、以前は野遊の場所で、向い側に萩の寺★「東光院」や「朝妻楼」があった。翁は庶出の為めにひそかに此別荘で生ませたので生母★高井れい女は翁を生み落すと、直に播州阿弥陀辺に帰って、80~90迄長命されたとの事である。此別荘には維新後、紀州の狂画家・酒井梅斎が楽焼窯を築いて住んでいた事もあった。今は此家に附属した畑地に★警察署や税務署が建って繁華な地になっているが、別荘だけは昔の形を残している。翁は毎年誕生日に此所の産土神★「利島神社」へ参詣された。

 

 

《東光院》 

561-0882豊中市南桜塚1-12-7/06-6852-3002 

http://www.haginotera.or.jp/outline/history.php

東光院萩の寺は、天平7年(735)行基開創による曹洞宗別格地寺院です。もとは大坂豊崎の里(摂津国西成郡豊崎村下三番★現在の北区中津)にあって、境内に萩多く、通称「萩の寺」として親しまれ、「南の四天王寺、北の東光院」と並び称された格式ある古刹でした。 

東光院の歴史は古く行基菩薩がこの地を訪れたとき、浜に風葬されている光景を見て、民衆に我国で初めて火葬の方法を伝授しました。天平7年(735)、行基68歳の秋のことといいます。行基菩薩は荼毘に付した死者の霊をなぐさめるため、自ら一体の薬師如来像を造り、その仏前に淀川水系に群生する萩を手折り供えました。それを縁に人々の浄財で薬師堂を建立したのが東光院の始まりです。 

大正3年(1914)、阪急電車敷設により現在地に移転しました。永い歴史の中には様々の変遷を経ておりますが、なかでも戦争にはばまれ、移転復興も中途の仮住まいを余儀なくされ、かつての名刹の偉容を知る人も少なくなって久しい時代もありました。近年境内整備・堂宇再建も徐々に進み、その中で判明した史実も少なからずあります。 

 

《萩の橋跡》 

https://hime8kin.net/2018sankokiroku/0313umeda.html

このあたりは昔は「能勢街道」がありました。能勢街道は大坂と能勢地方を結ぶ街道で、能勢からは炭・薪・栗・柿・木材・ 銅・銀、池田からは酒・植木などが運ばれました。また大坂からは衣類・干物・魚・塩などが池田を経由して運ばれたようで、物流の街道として発達しました。「萩之橋」は能勢街道を横切るように流れていた水路(洫川)に架かっていたもので、近くに萩の名所で有名な東光院(萩の寺)があったので、それにちなんで名付けられたといいます。

 

 

《参考》「茶屋町」 

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009924.html

http://www.hankyu.co.jp/area_info/spot/211

茶屋町は大阪市北区にある阪急電車・梅田駅ホームの高架の東側に広がる町の名前である。茶屋町の名称は1900年(明治33)から使われており、1924年(大正13)までは北野の名が上についていた。近年再開発が進み、茶屋という名から来るイメージとは裏腹に若者の街と化した感があるが、明治の初め頃、梅田の東側は、春には菜種の花が一面に咲く美しい野原であったといわれ、大阪三郷の人々の★憩いの場所となっていた。このあたりを茶屋町と呼ぶのは、同町を縦断する池田街道筋に、「鶴乃茶屋」・「車乃茶屋」・「萩乃茶屋」と呼ばれる3軒の料理茶屋が賑わっていたのに由来するという。また、明治中期までは料理茶屋だけでなくボート・温泉場、大弓場、料理屋が集まった大行楽地であったとのことで、1889年(明治22)には「凌雲閣」という当時としては画期的な、天にそびえる9階建ての遊楽場が、現東梅田学習ルーム(旧東梅田小学校)付近に建てられており、現在でいうところの一大レジャーランドであった。 

 

《富島神社》 

531-0071大阪市北区中津2-5-10/06-6372-2574 

http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=7618

具体的な創建時期は不明となるが、かつては、祇園牛頭天王社と称しており、その後、明治以降★「利島神社」と改称し、明治40年(1907年)には、南浜の春日神社、宮本の天満宮を、明治42年(1909年)には、十三の鷺島神社、塚本の八坂神社を合祀している。そして、明治43年(1910年)に現在の社名へと改称したとされる。ただし、昭和30年(1964年)には八坂神社は分離している(現在の塚本神社)。

 

 

・・・大阪市パノラマ地図に、「萩の寺」「下三番」が載っていました。「上方」にはとても興味深い内容が書かれており、その一つ一つを調べていると本当におもしろいのですが、この調子ではいつ終わる事やら、ほどほどにしないとね。ハハハ