★御霊神社「南鳥居」/江戸時代までは、神仏習合の時代でして「神宮寺」という寺社に付属して建てられたお寺がありました。御霊神社も神社とともに「宝城寺」と言われる神宮寺が併設されていました。その当時の境内は、今より広かったようでして、明治時代の神仏分離令により、そのお寺の敷地が切り離され、現在も神社の南側に鳥居だけが残ったと言われています。
・・・北野家住宅前まで来ましたが、次の入場まで時間がかかりそうなので、まずはお参りです。
《御霊神社》
541-0047大阪市中央区淡路町4-4-3/06-6231-5041
当神社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長掘の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。当神社の創立は、太古大阪湾が深く入り込んで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓江と云い円形の入江に創祀された圓神祠に始まり、嘉祥3年(850)の『文徳実録』に八十嶋祭の祭場が圓江で、そこに創祀されたのが圓神祠とされ、800年代後半の創建とされています。御神威高く、上古天皇御即位の大嘗祭に続く八十嶋祭に預かり給い、後に土地が次第に固成して村を形成し、その名も津村と転訛しました。豊臣秀吉公の大坂居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が来集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。中でも石州津和野藩の祖亀井茲矩候が邸地を割いて寄進されたので、文禄3(1594)境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靭)から現在地に鎮座しました。寛文年中御霊神社と改称、元禄9年(1696)御霊大明神と御贈号、宝暦3年(1753)9月正一位の神階を授けられました。また、伏見宮家より神輿修復の御寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治6年(1873)郷社に昇格し、大正2年(1913)府社に列し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭のお旅所への神輿渡御列淀屋橋から大川筋を下博労御旅所へ船渡御神幸)の華麗さは浪速名物の一つに数えられ現在に至っています。又、江戸時代両国三十三か所観音参りの三十三番礼所でもありました。
★「御霊文楽座」/境内には明治17年(1884)から大正15年(1926)まで人形浄瑠璃御霊文楽座があり文楽二百年の歴史のうちでも、もっとも華やかな時代をつくりました。大阪市の建立で「御霊文楽座跡」の石柱が、また大阪北浜船場ライオンズクラブの手で「文楽座の跡」のブロンズ製床本型の記念碑がつくられました。
・・・そろそろ北野家住宅へ。イケフェスのために、わざわざオーナーが出迎えてくださり、絵葉書まで頂戴しました。
《北野家住宅》登録年月日:20060302
大阪市中央区平野町4-2-6
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/118164
生きた建築には、個人邸宅もある。その代表作と言えるのが、御堂筋と平野町通りの交差点を西へ入ったところにある「北野家住宅」。1928年に建てられ、第2次世界大戦で★奇跡的に焼け残った木造3階建ての町家で、もともとは青物商を営む商家だ。「この写真をみてください。周囲は焦土と化し、ここだけがぽつんと焼け残ってるでしょ?『うだつ』(防火用の袖壁)が役立ったと聞いています」と、案内人が古い写真を見せながら説明してくれる。オーナー一家は、もうここに住んでいないが、丁寧に手入れしており、茶の間や仏間が1階に残り、今もここで暮らしているかのようだ。かつて使っていた古いそろばん、阪神・淡路大震災の時に立て付けが悪くなった建具、どれも生きた建築の中に息づいている。近代大阪の中心、御堂筋近くの商業地にある。通りに面して建つ間口3間の木造3階建、切妻造、平入で、各階に庇をつけ、両側にうだつを設ける。正面外壁はタイル張、窓枠や軒の出桁廻りや蛇腹は銅板で覆う。防火性能を高めた近代商家の形式をよく伝えている。
・・・本当に奇跡です。焼野原にポツンと建つ「北野家住宅」、これからも「生き証人」として維持保存されるべき「タテモノ」だと思います。
・・・次は「ガスビル」です。すぐ隣なので、本当に無駄なく回れるのが「イケフェス」のいいところ、多くの建築が参加してくださっているからですね、感謝。