・・・前ブロクテーマ「建築探遊」が100回に達しましたので、後継として「タテモノ」をスタートします。造形作家として名前表記を「カタカナ」にしていますが、そもそもは、認知症がすすむ母親の衣類に名前を記入するにあたり、「漢字」「ひらかな」よりも「カタカナ」が便利でわかりやすいということに端を発しています。
《NEWS1》2009.6.12読売新聞より
奈良・東大寺所蔵の経典に、新羅語の文字や抑揚を表す符号「梵唄譜(ぽんばいふ)」(節博士)が★角筆(かくひつ)で多数書かれているのが見つかり、最古級の8世紀の新羅写経とわかった。小林芳規・広島大学名誉教授(国語学)が障寺図書館発行の「南都仏教」第91号に発表した。奈良時代に朝鮮半島の仏教文化が色濃く影響していたことを示す貴重な発見だ。角筆は、木や竹などの先をとがらせた筆記具。墨を付けずに紙をへこませて書く。判読が難しく、1961年に小林氏が世界で初めて古文書にその痕跡を発見。今では全国で約3500点、中国や韓国などでも見つかっている。今回、「新訳華厳経」80巻のうち、巻12~20を1巻にした★「大方広仏華厳経」(8世紀)を、斜光を当てて調査。角筆で書かれた文字や梵唄譜を多数確認した。たとえば、「定法」の間に書かれた「叱」は「叱」の草書で日本語の「ノ」に、「婦時」の右下の「弓」は「良」の草書で「ニ」に、それぞれ相当する新羅語の助詞で、漢文を新羅語で訓読するための仮名だった。また、「利」を略したとみられる角筆独特の新羅語の文字「リ」もあった。日本の片仮名「リ」に似ており、平安時代初期(9世紀)に漢字を略して生まれたとされる★片仮名が、実は新羅語の影響で出来た可能性も指摘されている。角筆や紙質、合巻経の様式などから、この華厳経は同寺では初の新羅写経と判断された。新羅写経の使用目的について、小林氏は「勘経(かんぎょう)」を挙げる。勘経は写経を確かなものにする照合作業で、その際に原本に近く信頼性の高い新羅写経が使われたとみる。新羅写経の存在は、東大寺に新羅語のわかる僧侶がいたことを示し、その国際性を物語る。現に、752年の大仏開眼会ではインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)が開眼導師を勤めた。小林氏や韓国の学者は今年8月から共同研究を行い、全容を解明する。近年、京都・大谷大所蔵の経典★「判比量論(はんひりょうろん)」(8世紀、国重文)でも同様の書き入れが見つかり、新羅写経と判明した。しかし、110行の経典で書き入れはわずか。今回の経典は1141行もあり、多数の書き入れの発見が見込まれることから、新羅語研究の進展に大きく寄与することは確かだ。今回の華厳経と同一セットとされる正倉院宝物の華厳経を、紙質や書式などから新羅写経と指摘する山本信吉・元奈良国立博物館長(文献史学)は、こう指摘する。「中国・唐との交流が主流の奈良時代に、朝鮮半島の仏教文化の影響が底流にあったことを確かな証拠で示した。朝鮮半島の影響をもっと考えるべきだ」東大寺は奈良仏教の中心をなしていた。それだけに今回の発見は古代仏教史はもちろん、国語学や朝鮮古代史をも解明する重要な手がかりになりそうだ。
《NEWS2》2017.6.26朝鮮日報より
韓国に伝わる最古の著述は、新羅時代の僧侶、元暁(617~686)が著した★「判比量論」だが、そのうちこれまで知られていなかった部分が日本で新たに発見された。東国大仏教文化研究院HK研究団は24日、元暁のの生誕1400年を記念し、神奈川県の金沢文庫と共同で開催した「元暁と新羅仏教写本」と題する学術会議を開いた。席上、慶応大の岡本一平講師は、京都の東寺から流出し、現在は個人が所蔵している古書の写本の断片が判比量論の一部だと確認されたと発表した。写本が入っていた箱には「昭和44年秋、西郷山荘で梅渓が記す」と書かれており、「梅渓旧蔵本」という名前が付いた写本は縦25.7センチメートル、横7.7センチメートルの紙1枚に1行20文字で5行、計100文字が草書体の漢字で書かれている。岡本講師は「写本の破片は製作方法や書体がこれまで確認されている判比量論の写本の断片と同一であり、同じ本の一部と推定される」と指摘した。漢字100文字の前半29字は日本の僧侶、善珠(723~797)の著述に引用された判比量論と一致し、残りはこれまで知られていない部分だ。元暁の仏教写本を代表する判比量論は、完全な形では残っておらず、写本の断片のほか、韓国、中国、日本の仏教文献に引用された部分から復元が試みられている。判比量論の写本の断片で代表的なのは、1967年に日本の学者、神田喜一郎が家に伝わってきたものを公開し、その後大谷大博物館に所蔵されている「大谷本」だ
http://www.otani.ac.jp/kyo_kikan/museum/2003/nab3mq0000001b4g.html
。1行20文字、105行、計2100字に及ぶ内容で、全体の約5分の1と推定される。また、昨年には落合博志・総合研究大学院大学教授が所蔵する1行20字、9行、計180字の「落合本」が公開された。岡本講師は今回の発表で、三井記念館(1行20字、15行、計300字)、五島美術館(1行20字、7行、計140字)が判比量論の断片をそれぞれ所蔵しており、東京国立博物館にも存在が確認されたと説明した。判比量論のこれら写本はいずれも1冊の本だったが、江戸時代末期に分散したとみられる。写本は長年日本の僧侶が新羅で筆写したものだと考えられてきたが、2002年に小林芳規・広島大名誉教授が大谷本に新羅の口訣(こうけつ、漢文を読む際に使われる表記体)を記録した★角筆(尖った先端を紙などに押し当てて、文字や符合などを書く用具)の形跡が発見され、新羅人の手によるものだったことが分かった。落合本でも新羅の口訣の角筆の形跡が確認された。小林教授は★「新羅の角筆が日本の仮名の起源だ」と主張しており、判比量論の写本はその有力な証拠として見なされている。東国大仏教文化研究院のキム・チョンハク教授は「今回発見された判比量論の写本の断片も精密調査すれば角筆の痕跡が見つかると予想される。他の写本の写真も入手し、研究を始めたい。その結果を示すことで判比量論の理解に大きく役立つことになる」と話した。
《参考》新発見!なにわの考古学2012/大阪歴史博物館
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2012/naniwakoko2012.html
「江戸時代の高松藩蔵屋敷より出土した象牙製角筆(かくひつ)は細くて目立たないのですが、全国で40例しかわかっていない珍しいものです」。毛筆は墨で書くが、角筆は筆圧で記録する筆記具。「書物を汚さないように書き込みをする場合に使われました。秘密の手紙にも使われたことがあったようです」。
《片仮名》
日本語の表記に用いられる音節文字のこと。仮名の一種で、借字を起源として成立した。 「片仮名」という単語を「カタカナ」と表記することがある。日本語では主に次のような場面で用いられる。日本語以外では、アイヌ語表記にも使われる。また、日本統治時代の台湾で台湾語の表記に使われた事もある。
●漢文訓読・注釈等にかかわる場合/漢文訓読における添え仮名
●音を示すことを目的とする場合/外来語、漢字文化圏の国を除く外国の人名・地名などの固有名詞なお、中国や韓国など漢字文化圏の国の固有名詞を表す場合でも、地名や人名を片仮名で表記する場合もある。擬音語・擬態語(ただし、平仮名でも表記できる(特に擬態語))
●「平仮名」という呼称/「仮名」「仮字(かな)」、「女手」とも。「か(仮)
りな(名)」→「かんな」→「かな」となる。平安時代には、「しん(真)の手」、「そう(草)」、「かたかな(片仮名)」、「あしで(葦手)」などの書体
があり、これらと区別して「かな(仮名)」と呼ばれた(『宇津保物語』)。「真名」(=漢字)を公式の文字と認めるのに対して、「仮名」は私的、臨時的な文字とする呼称。「平易で一般的な仮名」の意の「平仮名」の呼称は、室町時代の桃源瑞仙『千字文 序』 (15世紀後半)に「倭字有三、曰片仮名者焉、曰平仮名者焉、曰伊路半者焉」と見えるのが最も古く、16世紀末以降のキリシタン文献にも「Firagana」(『日葡辞書』、ロドリゲス『日本小文典』等)と見える。
●平仮名の生成原理/万葉仮名を楷書様に書くことは労力がかかるので、より《楽に速く》書けるようにと、万葉仮名を崩し(=草仮名)、さらにこれを簡略な形にして、整えていった。つまり、〈草体化〉の原理を軸として、さらに〈簡略化〉を加えることによって、平仮名がつくられたのである。
●作者/弘法大師空海がつくったという説は13世紀末から見え(卜部兼方『続日本紀』)、以後広く行われるが、現存の平仮名文献は、その字体もまちまちであって、一通りでないことなどから、一個人の作ではなく、多くの人の手を経て徐々に整備されていった、社会的産物と考えられている。
●成立時期/現物の平仮名資料は、9世紀末から見え始め、これを遡るものが見えないことから、おおよそこの時期に平仮名が生まれたと見られる。
《参考》堤中納言物語「蟲愛づる姫君」
https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200020217
一説には「蜂飼大臣」と称された太政大臣・藤原宗輔とその娘がモデルであるとも言われている。アニメーション作家★宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のヒロイン・ナウシカはこの姫君から着想を得ている。
●あらすじ/按察使大納言の姫は美しく気高いが、裳着(元服に相当)を済ませたにもかかわらず、化粧せず、お歯黒を付けず、ゲジゲジ眉毛のまま、引眉せず、平仮名を書かず、可憐なものを愛さず毛虫を愛する風変わりな姫君だった。その様子を屋敷に入り込んだ風流な貴公子が覗き、歌を詠みかける。「かは虫の毛ぶかきさまをみつるよりとももちてのみまもるべきかな」。返事をしないので女房が返歌「人に似ぬ心のうちはかは虫のなをとひてこそいはまほしけれ」。これを見ていた貴公子は「かは虫にまぎるるまゆの毛の末にあたるばかりの人はなきかな」と詠う。突然話が終わり、<二の巻にあるべし>となり、第二巻はない。
平安時代中期に成立した『うつほ物語』の「国譲上」の巻において「書の手本」の中に★片仮名があげられており、これにより平安時代中期には、片仮名がひとつの文字体系であると認識されていたことがわかる。なお江戸時代の学者伴信友は、平安時代後期に成立したと見られる『堤中納言物語』★「虫めづる姫君」に、虫愛づる姫君が男から送られた恋文に対して「仮名(平仮名)はまだ書き給はざりければ、かたかんな(片仮名)に」返事を書いたという記述があることから、当時の文字の習得が片仮名から始めて平仮名に進んでいったとしている。しかし小松英雄はこの説明について、「虫めづる姫君」に見られる記述は虚構である物語における特殊な例であり、実際には初めから仮名(平仮名)を美しく書けるように習得するのが、当時の女性にとっては一般的であったとして退けている。
★「蟲愛づる姫君」との出会い(中村桂子/JT生命誌研究館館長)
http://www.brh.co.jp/exhibition/hall/022/
ある時、ある物語に出会いました。11世紀、『源氏物語』とほぼ同じ時期に書かれたとされている『堤中納言物語』の中の「蟲愛づる姫君」です。平安の都に住む大納言の姫君は、小さな虫を小箱に入れ、「これが成らむさまを見む」「鳥毛虫の心深きさましたるこそ、心にくけれ」と言ってかわいがります。「人びとの、花、蝶やと愛づるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」。「本地尋ねたる」は、仏教用語で「本質を問う」という意味だそうです。日本の物語のなかでこの言葉が用いられたのは、これが初めてとか。侍女など周囲の人は、「そんな汚いものを」と逃げまわりますし、両親は、「これではお嫁に行けないのではないか」と心配します。けれどもこのお姫さまは動じません。先にあげた言葉で、みなに問いかけます。「毛虫をじっと見ていると、あなた方が美しいという蝶になるのです。あなた方は、花や蝶を美しいというけれど、これらははかないものでしょう。生きる本質は毛虫のほうにあり、時間をかけて見ているととても愛しくなる。これがわからないの」と。卵から幼虫へ、さらに成虫へという変化を追うのは、発生生物学であり、しかも見かけにとらわれず本質を知ろうとするのが、本来の科学のありようです。ヨーロッパで近代科学が誕生したのは17世紀ですから、それより600年も前に、科学の精神をもったお姫さまが日本にいらしたというのは、なんともうれしいことです。それにもう一つ、このお姫さま、「人は、すべて、つくろう所あるはわろし」と言って、当時上流階級の子女には当然とされていた、眉を抜いたり、お歯黒をつけたりということをしないのです。現代の言葉を使うなら、自然志向です。あるがままをよしとし、小さな生きものが懸命に生きる姿を見つめ、それを「愛づる」ことは、生きものを知る基本でしょう。現代科学は、ガリレオ、デカルト以来、生きものも含めて、自然を数式で書かれているととらえ、機械として解明していくことによって進歩してきました。生命科学は生きものを機械をみなし、その構造と機能を解明すれば生きものがわかる、としています。しかし、38億年前に生まれ、これまで続いてきた生きものは、歴史の産物、つまり時間をつむぎ、物語を語り継いできたものなのです。生きものの中にある歴史を読みとり、生きていることを全体として、過程として捉えていかなければ、「生きている」ことを知ることはできません。このように考えている「生命誌」の原点は、まさにこのお姫さまにあります。
・・・たかが「カタカナ」されど「片仮名」ですね。さて「タテモノ」について、
【立物】
1兜(かぶと)の鉢につける飾り金物。前立・後立(うしろだて)・脇立(わきだて)・頭立(ずだて)などがある。
2能楽で、女神・天人などの役が用いる天冠(てんかん)に立てる飾り物。
3埴輪(はにわ)の異称。
4弓の的の異称。
5★大切なもの。
【立者】
1一座の中ですぐれた役者、また人気役者。立役者。
2仲間の中でおもだった者。あたまかぶ。
【建物】
人が住んだり、物を入れたり、仕事をしたりするために建てたもの。建築物。土地に定着した建造物であって、屋根、周壁を有するものをいう。
・・・「カタカナ」で表記すると、こんなにも世界が広がって(脱線して)いきます。それでは「雨ニモ風ニモ」負けない、そして「地震」にも負けない「タテモノ」を祈りつつ、次回は「イケフェス」報告です。