・・・ようやく見つけました。
●「平瀬露香句碑」/建立★1889年(明治22)3月
「皆我物そ 野も山も 氣ふ乃 月」と刻まれています。句としては「野も山も 皆我が物ぞ 今日の月」ですが、碑としてはその方がカッコイイ?俳号は蘆の丸屋貞瑛(貞英)。
・・・露香さん(1839~1908)50歳の頃です。「皆我物ぞ」という感じで、もっとも脂の乗り切った時期ではないかと思います。さて、露香さんの句碑ではありませんが近くに「芭蕉」の句碑が建立されており、なんとその句は露香さんの筆によるものだということです。「暗越奈良街道」へ。
《暗峠》
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007186.html
暗越奈良街道の生駒山地における難所で、つづら折りの少ない直線的な急勾配が続く。特に大阪府側は、麓から峠まで約2.5kmにわたる勾配である。峠道の沿道や道端に、古寺や地蔵、石仏も多くあり、ハイキングコースとしても有名である。峠の頂上には小さな集落があり、茶店もある。この付近の路面は江戸時代に郡山藩により敷設された石畳となっている。この50mほどあるコンクリート舗装の石畳は、暗峠が急坂であることから、参勤交代で殿様が乗った籠が滑らないようにするために敷かれたものである。なお、国道に指定されている道で石畳状の路面を呈するものは、国内で唯一この暗峠のみである。「暗がり」の名称の起源は、樹木が鬱蒼と覆い繁り、昼間も暗い山越えの道であった説や、「椋嶺峠」が転じた説、「鞍借り」、「鞍換へ」が訛って「暗がり」となったとする異説もある。上方落語 伊勢参宮神乃賑の枕では、「あまりに険しいので馬の鞍がひっくり返りそうになることから、鞍返り峠と言われるようになった」と語られている。暗峠を通る暗越奈良街道は「日本の道100選」に選定されており、峠頂部の石畳の道端には、日本の道100選の顕彰碑が置かれている。今西祐行作の絵本『とうげのおおかみ』の舞台。
http://www.city.ikoma.lg.jp/cp/0000007036.html
http://www.city.ikoma.lg.jp/cp/0000007037.html
【松尾芭蕉】(1644~1694)
江戸時代の俳人であり、紀行本『奥の細道』の著者として有名な芭蕉は、伊賀国で生まれ、生涯を旅に過ごしました。1694年(元禄7)病をおして伊賀を発った芭蕉は、旧暦9月9日の重陽の節句(菊の節句)に奈良から大坂に向かって★「暗峠」を越えました。その時詠まれたのが★「菊の香に くらがり登る 節句かな」の句です。この暗峠越えが芭蕉最後の旅となり、大坂に入って間もなく、10月12日に亡くなりました。その後、芭蕉の百年遠忌を契機に、蕉風復古の気運が高まり、1799年(寛政11)地元豊浦村の中村耒耜(らいし)によって、暗峠の街道筋に「菊の香に ……」の句碑が建てられましたが、山津波により倒され、いつしか行方がわからなくなっていました。このままでは芭蕉の旧跡が忘れ去られるとの想いから、1890年(明治23)俳句同人★六郷社の有志によって、自然石の表面に大坂の豪商★平瀬露香の筆により再建したのが、この句碑です。いっぽう、行方不明になっていた元の句碑はその後村人らによって発見され、3つに折れていた細長い石材を接合して1913年(大正2)に西方の日蓮宗★勧成院境内に移設されました。これが現在市の文化財として指定されている松尾芭蕉句碑です。このような経緯により、暗峠奈良街道の近接する場所に芭蕉の同じ句を刻んだ石碑が残されることになりました。
山口誓子は暗峠に芭蕉の句碑を訪ねた。★「河内名所図会」には、峠道のかたわらに芭蕉の句碑が立っていたと記されている。いま地蔵堂のあるあたりに、句碑らしき石が立っている。菊の香にくらがりのぼる節句かなの句碑だ。建立は寛政十一年。しかしいまはない。その後、建てられたその句碑は、暗がり峠から下りて来た枚岡市にある。古いのが★勧成院に、新しいのが★法照寺に。橋を渡って坂道を朱塗りの寺塔へ下りて行く。それが法照寺だった。なおも坂道を下りて行くと、境内の外れに句碑が立っている。自然石。菊の香にくらがりのぼる節句かな「菊の香に」を真中に、「くらがりのぼる」を右に、「節句かな」を左に。あっちこっちに書いてある。句の最後の「はせお」とは芭蕉のことです。彫りは深い。芭蕉が奈良側から七曲りの道を暗がり峠へ登って来たのは、重陽の節句の日で、山畑に菊の香が匂っていた。山道は木が繁って暗かった。
・・・この芭蕉句碑を建立したのが1890年(明治23)ですから、露香さんの句碑とほぼ同時期です。句の並べ方(順序)も似ています。