・・・露香さんが17歳で「放蕩がすぎる」、ということで謹慎させられた「天竜寺」を調べましたが、
《臨済宗「天龍寺」》
616-8385京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68/075-881-1235
http://www.tenryuji.com/
臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。
・・・平瀬家は代々「茶道」を愛好しており、禅宗とのつながりも深かったのだろうと思われます。
《参考》「和比×茶美」HPより
https://wabi-sabi.info/
★茶道と禅の思想にはどのような共通点があるの?
https://wabi-sabi.info/archives/448
「茶禅一昧」とは茶道と禅の関係を表す言葉としてよく使われますが、茶道と禅とは何故つながっているのか、その関係はわかっているようで、いざ説明するとなかなか難しいものがあります。茶道と禅のつながり、いったいどこに共通点があるのでしょうか。
※茶禅一昧:茶の湯(茶道)は禅宗を起源としているため、『茶の湯』と『禅』の本質は同一であるべきだとする考え方のことを『茶禅一味』と呼んでいる。茶禅一味は『茶禅一致』ともいうが、茶味と禅味が一体のものであることを悟ることであり、人間形成においては茶の湯と禅宗に差異はないということである。茶の湯の大成者である千利休は、茶禅一味の悟りの境地について、『小座敷の茶の湯は第一仏法をもって修行得道することなり。水を運び薪を取り、湯を沸かし茶を点てて、仏に供へ人にも施し我も飲み、花を立て香を焚きて、みなみな仏祖の行ひの跡を学ぶなり』と述べている。
・・・さて、露香さんは「茶の湯」だけでなく「俳句」も嗜んでおられました。俳号は「蘆(芦)の丸屋貞瑛(貞英)」。「葦の丸」とは、葦で葺 いた粗末な小屋、葦の屋。
・・・枚岡公園「梅林」に、露香さんの「句碑」があります。
《枚岡公園》
579-8032東大阪市東豊浦町12-12/公園管理事務所072-981-2516
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007191.html
http://hiraoka.osaka-park.or.jp/
昭和13年に開設され、額田地区および枚岡地区の2つの尾根からなり、その中央部を豊浦渓谷が流下している自然を生かした公園で、面積が約43.4haです。昭和33年に金剛生駒国定公園が指定されるにあたり枚岡公園の全地域も国定公園地域に含められました。梅林や桜の名所としても有名です。
《枚岡梅林》
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007327.html
平成27年の国・府による調査において、園内の梅でウメ輪紋ウイルスへの感染が確認されたことから、園内すべての梅を伐採し、ウイルスのまん延防止をめざすとともに、根絶が確認されるまでの間に再整備の検討が行われる予定です。このたび、府による伐採工事が完了しましたのでお知らせします。なお、平成29年5月から8月にかけて、国と府が同梅林の周辺地域でウイルスの根絶を確認する調査を行いますので、ご理解、ご協力をお願いします。
河内国一ノ宮「枚岡神社」境内にある枚岡梅林は、生駒山の山すそ約2ヘクタールに「芳流閣(ほうりゅうかく)」「道知辺(みちしるべ)」「月影」など30品種約400本の白梅や紅梅が植えられていました。枚岡梅林は、★明治時代初期に同神社の氏子ら地元有志が梅の木を植えたことが始まりで、平成元年に府民の投票により梅林を含む枚岡公園が「大阪みどりの百選」に、さらに平成13年には梅林と神社の木立が環境省の「かおり風景100選」にそれぞれ選ばれました。
http://hiraoka-jinja.org/grounds-of-a-shrine/index.html
いつの頃からか定かではありませんが、神仏混合の時代に、神護寺・元古庵平岡寺・法連庵・来迎寺・真堂寺といった宮寺が存在しましたが、明治に入り 社寺改革による神仏分離で廃寺となりました。1873年(明治6)の神護寺廃寺ののち、1876年(明治9)枚岡神社の氏子でもあった地元有志らが「枚岡教会講社」と称する頼母子講を組織し、同社の整備に協力するとともに土地を寄付し枚岡神社の社地と合せ4反たらずの地に梅の木を植えたことにはじまります。1881年(明治14)になってさらに近郷の豪農ら60名によって組織された「愛敬社」によって南方の土地9反あまりに新梅園が増設され、梅林の広がりと整備とともに風流人など観梅に訪れる人でにぎわうことになりました。明治16年「換友社」、大正12年には大阪の実業家と大軌の「神苑奨弘会」、昭和2年★「神苑保勝会」といった崇敬団体が、その役割を引継担ってきました。これらの組織は、梅林の維持運営以外にも、献茶式や芸能奉納、境内整備等神社に関わる全般にわたり協力し、枚岡大神の御神徳宣揚にご尽力いただいた組織でありました。 お陰により、現在も春を迎える2月中頃から3月中頃にかけて、紅白の花が咲き競い梅香を漂し、多くの観梅者で賑わいをみせています。また6月初旬には、氏子青年会の協力のもと、梅の実狩が催され賑わっていました。
《NEWS》2016.10.24東大阪経済新聞より
東大阪・枚岡梅林で「梅伐採清祓い」梅輪紋ウイルス感染で全て伐採に
枚岡公園(東大阪市東豊浦町ほか)内・枚岡梅林で10月24日、伐採が決まった梅の御霊を慰める清祓い式が執り行われた。同梅林は1881(明治14)年、氏子ら地元有志が枚岡神社神護寺跡地に梅を植えたのが始まりとされ、現在は約30種類、約320本の梅の木がある。梅林内外の整備により観梅に訪れる人が増え、環境省が選定する「かおり風景100選」に選ばれるなど梅の名所として親しまれてきたが、梅・桃などの植物に感染する梅輪紋ウイルスが確認され、大阪府が2月17日に同園内の梅・スモモ★全322本を伐採すると発表した。同ウイルスは全国に広がりを見せており、人や動物には感染しないが、感染した植物は農薬などで治療することができず、対象区域内に1割以上の感染が確認された場合、全ての木が伐採されることになっている。ウイルスには約3年の潜伏期間があるとされており、複数年にわたり調査し、ウイルスの根絶が確認されるまで★新たに梅の木を植栽することができない。枚岡神社では、「梅の御霊を慰め梅林を築いてきた★先人の功績をたたえるため、清祓いの儀式をすることにした」とし、大阪府や東大阪市の関係者、氏子らが参列。儀式の後、中東弘宮司は「約140年の歴史があり、大勢の人が梅を見にきて梅狩りを楽しんだ。今まで語り継がれてきたように、再生してまた語り継がれる森づくりをしていきたい」などとあいさつした。地元に住む68歳の女性は「植物もあり虫もいるので、子どもや孫たちを連れてしょっちゅう来ていた。娘から清祓式があると聞き、残念に思い参列した」と話す。毎日弁当を持参して梅林に来るという別の女性は「毎年行われていた梅狩りが楽しかった。このまま残してもらいたい」と、梅林を見渡しながら残念そうに話していた。梅の木は11月に入ってから伐採する予定で、今後は八尾土木事務所を中心に、大学教授や同神社、市民の意見を取り入れ、梅だけでない森の計画を3年の間に作成する予定。同神社では梅林を忘れられないよう、梅の季節には催しを開いていくという。
http://www.pref.osaka.lg.jp/yaopwo/yao_news/umesumomo_toshimi.html
《枚岡神社》
579-8032東大阪市出雲井町7-16/072-981-4177
https://www.city.higashiosaka.lg.jp/0000007197.html
延喜式の神名帳にものせられ河内の国一の宮を誇る古社です。毎年初めにその年の豊作、凶作を小豆粥を使って占う粥占神事が行われ、秋祭りには多くの太鼓台や地車が宮入りし、華やかで勇壮です。
●「ハケ・ブラシ顕彰碑」/建立:1981年(昭和56)
ハケ・ブラシの生産は東大阪や八尾の地場産業です。かつて、中河内の代表的な産業である「河内木綿」の衰退後、それによって生じた余剰の労働力が基となり、ブラシの生産が地場産業として定着していきました。国産歯ブラシの創始と言われる、大阪盛産業株式会社が、明治26年(1893)意岐部村にブラシの植毛無料伝授所を設けて、主婦等に植毛技術を教えると共に、それを内職として広めた事もブラシ生産の発展に寄与しました。この碑は元大阪府知事・岸さんの書によるものです。
●「枚岡梅苑記念碑」/建立:1928年(昭和3)
「神苑保勝会」によって建てられたものです。神苑保勝会以前は、大軌(現在の近鉄)の援助で組織された「奨弘会」により維持管理されていたそうです。「萬代の 春をちきりて 咲く梅の 花の可保里波 加支利悪羅袮怒」と刻まれています。
●「御大典記念碑」/建立:1928年(昭和3)
昭和三年に建てられたもので、園内にある石碑で最も大きなものです。
碑文には、梅林創設の歴史と「春の花もみちの?のとりどりに 神や守らむあめつちの無窮」と刻まれています。
・・・さて、露香さんの句碑はどこにあるのでしょうか?