戦後という時代(8) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《城北公園》 

535-0004大阪市旭区生江3‐29‐1/06-6912-0650(鶴見緑地公園事務所) 

http://www.osakapark.osgf.or.jp/shirokita/

淀川の河川敷を利用して昭和9年(1934)に開園した、古くからある公園。面積9.5haの園内は、4月の桜、そして毎年11月ごろに開催される「城北菊花展」などが、大阪の風物詩として親しまれている。とくに江戸系、伊勢系、肥後系三系統の花菖蒲が約250種/13,000株が栽培されている「菖蒲園」では、見頃を迎える5~6月に青紫、白、黄色と色とりどりに咲く様子が「大阪みどりの百選」のひとつにも選ばれている。また、淀川の堤防のすぐ下には、湾処(わんど:河川沿いで水制などに囲まれ池のようになっているところ)が広がり、珍しい植動物たちが集まっている。

 

 

《NEWS》2015.5.9産経WESTより 

淀川河川敷に女学生ら千人以上の遺体/大阪市旭区「千人塚」法要、今年が最後 

大阪市の北東部を狙って昭和20年6月7日に米軍が行った大空襲から間もなく70年。千数百人もの犠牲者が埋葬された淀川河川敷で営まれる慰霊法要も今年で70回目の節目を迎える。空襲を生き延びた人や遺族らの高齢化が進み、これまで通りの法要を行うのは今回で最後。長年にわたり慰霊を続けてきた関係者は「今後も何らかの形で弔いを続け、戦争は繰り返してはならないという思いを伝えていきたい」と話す。大阪市旭区の城北公園。その北側を走る淀川堤防に、石碑と小さな社がある。通称「千人塚」。石碑は、千人塚慰霊法要協賛会の東浦栄一会長(86)の父が終戦の翌年、自宅の庭にあった岩に「千人つか」と彫りつけたものだ。昭和20年に大阪を狙った空襲は8回を数えるが、6月7日、城北公園付近に避難した人々を狙った銃撃は、最も凄惨な無差別攻撃の一つだったといわれる。朝からの焼夷弾の大量投下で工場や民家が炎上するなか、公園には、四国から集められ、近くの繊維工場で働いていた女学生も集団で避難していた。米軍機はそこをめがけて低空から機銃掃射を執拗に繰り返し、木に隠れた女学生まで撃ち殺したという。当時16歳だった東浦さんは機銃掃射は免れたものの、公園に横たわるおびただしい数の遺体を目にした。園内の池にも焼夷弾が落ち、淀川をめざして遺体をまたぎながら逃げた。後にそこだけで千人以上が亡くなったと聞いた。その後、遺体の多くは河川敷で荼毘に付され、そのまま埋められた。昭和25年ごろの★台風による増水で流された遺骨も少なくなかったという。慰霊法要は、父が21年に始め、空襲体験者ら150人ほどが毎年参列してきた。父の死後はその遺志を東浦さんが引き継いだ。「今でも遺族ら20人くらいが喪服姿で参列する。こういう方たちのために続けてこられた」ただ、かつては四国からも遺族や学校関係者が参列していたが、いずれも高齢になり、ここ数年は姿をみせなくなった。来年からはこれまでのような法要の形は取らないが、ここで起きた戦争の悲劇を後世に伝えるためにも、何らかの形で弔いを続けたいと考えている。70回目という大きな節目となる今回は、例年よりも多く招待状を出すほか、冊子も作成し、日よけのテントも増やすつもりだ。東浦さんは「空襲を生き延びた人たちも高齢になった。戦没者も納得してくれると思う」と話した。 

 

《参考》「大阪市内で戦争と平和を考える」HPより 

https://jinken-kyoiku.org/heiwa/as-senninduka.html

★千人塚由来記 

日本未曽有の大敗戦の昭和20年6月7日残存せる大阪を壊滅せる大空襲により戦災死者数万人中身元不詳の千数百の遺体を此処に集め疎開家屋の廃材を以って茶毘に付す 

 鬼哭啾々たる黒煙天に柱し、3日3晩に及ぶ 悉く市民の奉仕協力による 

 遺骨はその侭土中にして此処に葬る 

訴うるに声無き無辜の国民の痛恨の空しく土に埋れ草に掩われて世に忘れ去られんを憂いて巷間の義人東浦栄二郎氏庭石に唯千人つかと刻して此処に置く 

 進駐軍治下と近畿地建の管理地なるを以てなり 

 爾来30有星霜香華絶ゆる事なきも世人この塚の謂われを知らず 茲に其の由来を刻しこの地下に眠る無事無縁の霊位の冥福を祈り国家安泰と軍官専横苛政による国民塗炭の痛恨と犠牲の再現を永く阻止し世界人類の和平を祈願する日本国民の総意を世に問うものなり1980年5月5日 後世正亮記 

 

《NEWS》2018.7.5アジアプレスネットワークより 

「大阪大空襲慰霊法要」空襲の悲劇を後世に伝える 

太平洋戦争末期、大阪への空襲の中で最も凄惨な無差別攻撃の一つと言われる第3次大空襲から73年となる6月7日、大阪市旭区の城北公園の北側にある「千人塚」前で慰霊法要があり、参列した遺族や地元住民ら80人が犠牲者を追悼した。 

https://jinken-kyoiku.org/heiwa/o-kuusyuu3.html

大阪は1945年6月に入って1日、7日、15日、26日と、ほぼ1週間ごとに計4回の大空襲に見舞われた。大空襲とは、B29爆撃機が100機以上来襲した空爆のこと。7日の空襲ではB29が409機を数え、午前11時過ぎから1時間半にわたり、旭区や都島区、淀川区など市の北東部に焼夷弾と爆弾など2594トンを投下した。さらに、当時世界最強の戦闘機と言われたP51ムスタング138機が来襲。城北公園に逃げ込んだ市民らを機銃掃射で狙い撃ちした。死者2759人、重傷者は6682人に上る。犠牲者の中には、徳島県から軍需工場に学徒動員された女学生もいた。「米軍機は低空飛行で木の下に隠れている人を機銃掃射するので頭を打ち抜かれたり、手足を飛ばされたりした人など、地獄絵図でした」と、主催者「千人塚慰霊法要協賛会」の東浦栄一会長(89)は振り返る。放置された身元不明の遺体千数百体あまりが淀川堤防に運ばれて荼毘に付された。東浦さんの父が自宅の庭岩に「千人つか」と刻み、敗戦の翌年から慰霊法要を営んできた。父親の死後、遺志を受け継いだ東浦さんが私財を投じて続けている。「私もいつまで慰霊法要を行えるかわかりませんが、命ある限り大阪で起きた空襲の悲劇を後世に伝えていきます」と話した。

 

 

★2018.9.12常翔学園中学校・高等学校「学校長」ブログより 

台風21号の被害台風21号が過ぎ去って、すでに1週間以上が経ちましたが、いまだ停電のところもあったり、関西空港にいたっては連絡橋がご存知の通りで、完全復旧までにはまだまだ時間がかかりそうです。学校においても、大きな被害はないものの、翌日には気が付かなったところや物が被害を受けていたことが判明したりして、学園全体としてはかなりのものとなりました。ショックだったのは、正門を入ったところに植えてある★ニュートンのリンゴの木の主幹が根本から折れてしまったことです。細い枝がかろうじて残っていたことがせめてもの救いでした。その枝にリンゴの花が季節外れの狂い咲きをしています。7月の豪雨や日照りで葉が落ちていたのが原因かもしれません。午前中に本部棟へ行く用があり、その際隣接の★城北公園を覗いてみると、あちこちに倒木が横たわっていて、立ち入り禁止となっていました。 

 

 

《日吉神社》 

535-0005大阪市旭区赤川4-19-13/06-6925-6236 

http://www.geocities.jp/hiyosijinnjya/

創建年代は不明であるが、平安時代にこの付近で多数の荘園が開発・経営されていた。すぐ北を流れる淀川が頻繁に氾濫したため、災害を鎮め、荘園経営を安定させるために神社仏閣を建立して祈願した。その一つが現在の日吉神社と考えられる。文安年間(1444~1448)当時の名前を山王社または、山王権現といい、赤川寺(現在は廃寺)の境内に存在した。明治元年、日吉神社に改名。明治32年、淀川拡張工事のため、本殿を約200m南の現在地へ遷座。黒い石神(宮司がみそぎ中に拾ったところ、龍神が夢枕に立ち、この石を油を塗って祀れば病を退散させると告げ、以来諸病に霊験を示す。)、白い石神(子宝・商売繁盛)がある。また、末社に稲荷神社(芝守稲荷)をもつ。

 

 

《赤川廃寺跡》旭区赤川4丁目・淀川堤防上 

http://www.city.osaka.lg.jp/asahi/page/0000000572.html

赤川寺(別名:大金剛寺)というお寺がありましたが、いつのころからか廃寺になってしまい、伽藍の正確な位置がわからなくなってしまいました。しかしお寺の僧であった覚賢が写した大般若経が残っています。 

 

《常宣寺》 

535-0004大阪市旭区生江3-27-18/06-6921-1189 

http://osaka-jyousenji.net/

天台教学の学僧、智正法師により応永4年(1397年)に創建された。室町時代中期には本願寺法主第8代蓮如上人が、京都から淀川を経由して、当寺に寄り、周辺地域に教化伝道したという言い伝えがある。石山合戦の際は砦が周囲にあり、石山本願寺の支城の一つとして織田軍と対峙したとされる。境内には樹齢約370年の銀杏の木がある。これは正保元年(1644年)に、本堂を再建し、山門を拡充した際に植樹された。土蔵は文政2年(1820年)、太鼓楼は安政3年(1857年)に建造、客殿等も建築された。平成にも、平成の大改修として本堂の修復や、山門を整備した。

 

 

【葱生城跡(なぎじょうああと)】 

★大阪市顕彰史跡第209号/2014.3大阪市教育委員会 

かつて大字「荒生(なぎ)」の東方に古城があったと伝承され、荒生城とも書く。同地に建つ常宣寺門前に史跡パネルが設置されている。本願寺法主の顕如(けんにょ)が、石山合戦にて対織田信長防衛戦として51箇所設けた出城のひとつが、葱生(なぎ)城です。葱生は「薙生」「荒生」とも書き、「東成郡誌」の中に「大字荒生の東方に古城址ありと云ふ。淀川南岸、城北公園の東側にあったとされるが、淀川の氾濫による度重なる洪水や宅地化により現在はその遺構を確認することはできない。『信長公記』によると、元亀元年(1570)から天正8年(1580)までおよそ10年間をかけて行われた石山本願寺と織田信長との「石山合戦」で、本願寺方が石山本願寺を中心に51に及ぶ出城を構築したとされ、葱生城もその中の1つであるという。推定地とされる常宣寺の創建は応永4年(1397)に遡り、室町時代中期には蓮如(本願寺第8世)が立ち寄り近郷に教化伝道したと伝えられる(『常公』)ことから、同地が石山合戦以前から本願寺と強い結びつきを持っていたことが窺われる。 

 

《平和観音》特別養護老人ホーム 白寿荘敷地内(常宣寺 横) 

535-0004大阪市旭区生江3-27-1 

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city013/index.html

★碑文/昭和十六年十二月八日(一九四一年)未明日本国政府はあのいまわしい恐怖と破壊に充ちた無謀な太平洋戦争を引き起こし数百万人いや数千万人の善良な人民の生命を奪い去ったのである。そして昭和二十年八月六日(一九四五年)に人類がもっとも恐れた核爆弾が広島に投下され一瞬にして生きる物を全て焼きつくした。二日後長崎に投下、長かった第二次世界大戦に終りを告げたのである。我々に残されたのは、赤肌な瓦礫の山、飢えと寒さ、住む家もない焼け野原、おびただしい数と量の血と死、墓と涙の爪跡をもたらしただけのいかに無意味な戦争であったかを、★目撃者である我々が語り伝えるために。そして、永久平和の為に・・・。 

 

・・・その目撃者としての体験者がご高齢となり、「戦争を知らない」世代がどう伝えていけるのか?が問われています。