・・・地下鉄谷町線で「千林大宮」へ。
《大宮神社》
535-8585大阪市旭区大宮3-1-37/06-6951-2196
http://www.geocities.jp/omiyajinja_osaka/
当社は大阪では数少ない★源義経にまつわる伝承を持つ神社で、その創建は1185年(文治元年)、義経が平家追討の下向の折、この地に立ち寄り、宇佐八幡神の霊夢を見て目覚めたところ、一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていた。義経は我に神の助けありと勇気百倍になり、その鏡を報じて平家を討ち滅ぼし、このことを後鳥羽天皇に奏上し、神社建立を許され、この地に社を建て「大宮八幡宮」と称したと伝える。時代が下がって、1583年(天正11年)豊臣秀吉が大坂城築城にあたって、当社を「鬼門守護神」と崇め、社殿・末社の建立や神域の整備を手がけたと伝わる。当時の社殿は広壮で境内は3ヘクタール(3万㎡)を有していたという。徳川時代にも大阪城の鬼門守護神としての信仰は厚く、大阪城代の交替時には当社に参拝し、毎年正月には初穂料を、年中行事の折には大幣を献納して祈願したと伝えられるが、社殿等は年を追って衰微していった。江戸後期、天明・寛政の頃(1781~1801)、祠官廣渕肥後守善直が社殿、境内の復旧に務め、明治に入り、1907年(明治40年)に産土神社他6社を合祀、1912年(明治45年)大宮八幡宮を改めて大宮神社と称し、現在に至っている。
・・・お寺や神社を見つけたら、素通りできません。
《錦水湯》
535-8585大阪市旭区大宮3-3-9/06-6952-4017
・・・閉店(閉館)そして解体、最後の雄姿を見送ることができ、なんだかジ~ンときました。
《常翔歴史館》
535-8585大阪市旭区大宮5-16-1/06-6955-7762
片岡安は1876(明9)年6月、石川県に生まれた。旧姓「細野」。第四高等学校で学んだ後、1897(明30)年7月に東京帝国大学工科大建築学科を卒業した。卒業後、日本銀行営繕課技師となった。片岡直温(後に大蔵大臣)の養子となるが、直温の兄は片岡直輝(関西財界の重鎮)、直輝の長男は片岡直方(大阪瓦斯(株)社長)である。1903(明36)年、(株)三十四銀行技師を経て、明治時代の建築界の重鎮であり、日本銀行本店、東京駅などを代表作とする辰野金吾と共に辰野片岡建築事務所を開設した。1919(大8)年5月、都市計画に関する論文で工学博士の学位を受けた。1922(大11)年1月、辰野から独立して片岡建築事務所を開設した。著書には、「現代都市之研究」「都市計画」がある。片岡の建築界における活躍は目覚ましく、その代表的な作品として、「第三十四銀行本店」「奈良ホテル」「大阪中央公会堂(実施設計)」「都ホテル」などがある。片岡は建築界だけでなく社会的活躍も顕著で、大阪工業会理事長に加え、1933(昭8)年大阪商工会議所副会頭に就任してからは、工業に関する諸問題だけでなく、米穀配給統制、物価対策、電力不足対策、貿易問題、税制問題、中小企業問題などに取り組んだ。さらに、1940(昭15)年大阪商工会議所会頭に就任してからは、大阪財界の首脳として活躍した。片岡は教育界でも、官立大阪工業学校講師、京都帝国大工学部講師、大阪工業専修学校理事長などとして活躍した。関西工学専修学校創設当時は、片岡建築事務所主、日本エレベーター製造(株)社長、日本生命保険(株)取締役、大阪工業会理事長、大阪工業専修学校理事長、日本建築協会副会頭、都市計画大阪地方委員会委員、社会事業調査会委員、大阪府衛生会理事、京都帝国大工学部講師、大阪商業会議所特別議員、都市研究会理事および工政会理事兼関西支部長であった。
・・・せっかくなので、これから大学キャンパスへ。