《大手門》重文指定:19530613
大阪城は豊臣秀吉の築いた城であるが、大阪冬の陣と夏の陣に破壊された。今回指定されたものはすべてその後★德川氏により築造されたものである。
乾櫓/元和六年(一六二〇)の建築であるが、桃山時代の手法が見られ大阪城遺構中で最も古い。千貫櫓/元和六年、金藏/寬永元年(一六二四)、金明水井戸屋形/寬永三年(一六二六)、一番櫓、六番櫓/共に寬永六年(一六二九)、焔硝櫓/寬文元年(一六六一)石壁に石屋根を造った珍らしいもの。大手門、塀(三棟)、夛聞櫓/共に嘉永元年(一八四八)、櫻門/江戸末期。なお大阪城は★旧陸軍所有であったため重要文化財に指定されなかったもので現在破壊がいちじるしいが、地元大阪市ではすでに修復委員会(委員長大阪市長中井光次氏)を結成し修復運動を起すとともに文化財保護委員会の指導のもとに最も破壊の甚しい六番櫓、一番櫓から始めて漸次全体に及ぶ応急修理に着手しようとしているが今回指定を見たので委員会としては更めて修理の根本的対策を立てる。
★田中建設株式会社HPより
https://www.yokattanaka.net/craftsmanship/
大阪城大手門の控え柱には、柱の根元を継いだ補修の跡が残ります。東西両面(写真参照)は下の柱が凸型の「蟻継ぎ」、南北両面(写真参照)は山型の「殺ぎ継ぎ」になっています。外から見ると、どの方向からもはめ込むことができないような不思議な形の継手になっています。長年大阪城の★謎のひとつとされてきましたが、1983年にX線撮影により内部構造が明らかになり、継手の謎が解明されました。この時、施工した大工の社名と氏名が残されていることも判明し、弊社の前身である石濱組の請け負った工事であることが解ったのです。石濱組の創業者、★石濱太郎平は、鳴門海峡の潮流を利用した発電システムを考案したり、コンクリート製枕木を考案して鉄道省(後の運輸省、日本国有鉄道、国土交通省)にも採用されるなど、非常に進取の精神に富んだ創造力あふれる人物でした。この柱継手は、そんな匠の技の一つなのです。
《参考》1931大手前配水場「高地区配水喞筒場」/大阪市中央区大阪城3-24
https://gipsypapa.exblog.jp/12672382/
設計は、関西を中心に多くの建築物の設計を手がけた★宗兵蔵(宗建築事務所)。現存する主な作品は旧帝国奈良博物館(1894奈良国立博物館)、旧柴島浄水場第一排水ポンプ場(1914水道記念館)、難波橋(1915)、旧制灘中学校校舎(1929灘中学校・高等学校本館)、莫大小会館(1929メリヤス会館)、生駒時計店(1930生駒ビルジング)などがあり、いずれも濃密な装飾を施したのが特徴です。この建物はさすがに公共設備のためか、やや控えめですが、細かなところに、彼らしさを出しています。鉄筋コンクリート造り、平屋建て、地下1階。
・・・「公衆トイレ」や「ポンプ場」そして大手門「継手」、もちろん城内にもマニア必見のポイント満載。しかし、今回の目的地は「ミライザ」です。
《参考1》「織田信長は、なぜ石山本願寺を攻め続けたのか?」
https://shuchi.php.co.jp/article/1816
信長は一向宗にこだわったのではない。「石山」という土地にこだわったのだ。石山とは大阪市中央区の上町台地を指す。縄文時代この上町台地は大阪湾の海に突出した半島であった。戦国時代の海面はすでに下がっていたが、満潮には海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地帯であった。浪速(なにわ・なみはや)、難波は名前のとおり海の波にさらされていて、大坂の河内もまさに「河の内」であった。当時の大坂、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台であった。さらに、当時の物流を担っていたのは船運であった。その船の行き交う要所がこの上町台地であった。この上町台地は淀川の河口に位置していて、京都の朝廷を牽制できた。さらにここは貿易港・堺への通過点であり、西国大名を討伐する最前線基地でもあった。「石山」つまり上町台地は戦国の世を平定するため絶対的に重要な地であった。信長はこの土地を何が何でも手に入れたかった。信長の武将たちもこの上町台地の重要性を十分知っていたからこそ、11年間も辛い戦いを継続できたのだ。戦国の天下を制するのが上町台地であり、信長の石山本願寺戦争はこの地を得るためのものであった。
《参考2》「石山本願寺★墓地跡」城東区森之宮1・2丁目付近
http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000752.html
平野川に架かる衛門橋の西2町(約200メートル)あたりは、石山本願寺の墓地跡と伝えられていました。この地に城東練兵場(明治23年(1890年)開設)を設けるため地ならしをしたところ、石像2体と多数の石碑が掘り出されました。惜しいことにこれらの発掘物は建設に従事した人たちにより持ち去られ、現在はなにも残っていません。
《大阪市立「修道館}》
540-0002大阪市中央区大阪城2-1/06-6941-1523
http://www.osaka-sp.jp/syudoukan/
柔道、剣道、なぎなた、弓道その他武道の普及振興を図り、青少年の健全な育成及び市民の健全な心身の発達に寄与する。修道館は、各学校や各道場の練習生が、より高度な技術を求めたときの受け皿として、誰でもが練習したいと思ったときに★予約無しで利用出来る、当時の中井市長(故人)は「よく道を修め、身体を練り、魂を鍛えよ」と若人への期待と祈りを込めて、この武道館に『修道館』の名を贈った。大阪城二の丸および西の丸にあった「近畿管区警察学校」が堺市へ移転するに際し、大阪中学校体育連合が、西の丸にあった警察学校道場を青少年の錬成道場として残すよう、大阪市や柔道・剣道関係者、財界の人々に協力を呼びかけた。大阪市では関係者と協議を重ねた結果、現存道場を残すのではなく、武道館を新しく建設する方針を決定。それを受けて、財界は「大阪市立武道会館建設協力委員会」を結成し、寄付金の募集を開始。その結果、「大阪市」と「大阪市立武道会館建設協力委員会」は、それぞれ6千万円を分担し、合計1億2千万円で建設する事を決定した。昭和37年2月1日起工、12月8日完成、翌年1月4日開館。
《NEWS》2015.10.3日本経済新聞より
「大阪環状線」大阪城公園周辺、高架化されず(謎解きクルーズ)
大阪市内の中心部を走るJR大阪環状線は駅の改装や新型車両の投入などのプロジェクトが進行中だ。路線の大半は高架化されているのに、大阪城公園駅周辺はなぜか地上を走っている。調べてみると、すぐそばにある大阪城の歴史と深い関係があった。大阪駅から環状線の外回りに乗ると、京橋駅を出てすぐに高架から地上に降りる。次の大阪城公園駅は1983年に開業した同線唯一の地上駅。近くの大阪ビジネスパーク(OBP)のビル群に見下ろされるようだ。電車は森ノ宮駅に近づくと再び高架に戻る。周辺は高架なのになぜ京橋―森ノ宮間は地上なのか。大阪電気通信大学名誉教授で、大阪に残る軍事施設の跡などを研究する小田康徳さんは「すぐそばの大阪城の敷地内に大阪砲兵工廠があったため」と指摘する。大阪砲兵工廠は大阪城の東側に広がっていた国内最大規模の軍需工場で、1870年に開設された。現在の大阪城ホールやOBPの場所には大砲を造る工場や化学兵器を開発するための化学分析場など多数の軍事施設が集積。線路を挟んで反対側の現在、JRの操車場と市営地下鉄車両基地などがある場所には、兵隊を養成する★城東練兵場があった。環状線はこの間を縫うように走っていた。環状線は89年5月、旧大阪鉄道の湊町―柏原間が開業したのが始まり。東側の城東線、北西側の西成線などがつながり、1964年に環状運転がスタートした。高架化・複線化は昭和初期に本格的に始まったが、JR西日本広報部によると「当時の鉄道省が城東線の高架化を計画したが、京橋―森ノ宮間は軍が高架化を認めなかった。大阪砲兵工廠の内部機密の保持と漏洩を防止するためと考えられている」。高架にすると列車から砲兵工廠の内部をのぞかれる恐れがあるというわけだ。小田さんは「砲兵工廠は高さ2~3メートルの塀で囲われていたため、近くを歩いても中は見えないようになっていた」と指摘する。また、戦時下は列車が砲兵工廠の横を通るとき、カーテンや窓を閉めるように強制されたという。軍部は軍事機密の保持に神経をとがらせていた。大阪のど真ん中になぜ巨大な軍事施設があったのか。小田さんは「明治初期★大村益次郎が大阪を陸軍の拠点にしようとした」という。大村は適塾で緒方洪庵から蘭学を学んだ維新の志士で、陸軍の父ともいわれる。「大村は大阪城に目を付けた」と小田さん。豊臣秀吉の権力の象徴である大阪城は広大な敷地を持ち、幾重もの堀に囲われている。軍需工場にはうってつけというわけだ。また、外国が攻撃する場合、東京が集中的に狙われると考えられ、軍の拠点は東京から離れた大阪の方が好ましいと考えたという。ところで、近くには環状線と同様大半が高架なのに一部だけ地上を走る交通網がほかにもある。大阪城公園の南側を東西に走る阪神高速道路東大阪線だ。阪神高速道路広報グループによると、道路南側に古代宮殿の難波宮跡公園があり、遺構の保護や大阪城方面への景観に配慮して、このような構造になった。環状線は2017年度末までの計画で、全19駅の改装・改良や商業施設の併設、新型車両の投入などの「大阪環状線改造プロジェクト」が進む。しかし、京橋―森ノ宮間の高架化については「計画にない」(JR西日本広報部)という。今年は戦後70年、大坂の陣から400年にあたる節目の年。環状線の車窓から高層ビルを眺めながら、地域の奥深い歴史に思いをはせるのもいいかもしれない。
《豊國神社》
540-0002大阪市中央区大阪城2−1/06-6941-0229
http://www.osaka-hokokujinja.org/
当社は「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を御祭神とする神社です。明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際、国家のために多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の清らかな地に奉祀するよう仰せになったことから、明治6年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には明治13年に別格官幣社豊國神社の別社として★中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に創立されました。大正元年に府立図書館の西方の公園内に移転。昭和20年より宗教法人として神社本庁所属の神社となり、その後、大阪市の発展に伴う市庁舎増築にあたって、昭和36年1月に現在の地へ奉遷しました。ここ大阪城跡は、かの有名な石山合戦にて★石山本願寺の宗徒が11年にも渡り、織田信長の猛攻に対抗し続けた場所です。さすがの信長も攻略をあきらめ、和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な土地であったことから、秀吉公は天下を平定し居城を築くにあたってこの地を選んだという、御祭神に最も縁が深く奉祀するのに最適な神域とされています。
《ミライザ大阪城》
540-0002大阪市中央区大阪城1-1/06-6755-4320
本館は、1931年★陸軍第四師団司令部庁舎として、大阪城天守閣と同時期に建てられたもので、その後長らく「大阪市立博物館」として親しまれてきました。博物館閉館後16年の時を経てこの度リニューアルされ、ショップやカフェ、レストランとして生まれ変わりました。天守閣が目の前という絶好のロケーションの中で、ゆったりとお食事やお買い物をお楽しみいただける施設となっております。
・・・昔の廃墟のような状態を知っている者としては、この変化に正直驚いています。
・・・観光地「大阪」としては大満足なんですが、そこにちょっと「反戦平和」の味付けというか展示を盛り込んでほしいと思いました。(どこかにあるのかな?)