戦後という時代(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・サクラクレパスに用事があって「森ノ宮」に行きましたので、 

 

《サクラクレパス》 

540-8508大阪市中央区森ノ宮中央1-6-20/06-6910-8800 

https://www.craypas.com/

大正10年(1921)「日本クレイヨン商会」を設立、同年9月、「桜クレイヨン商会」と改称 

大正11年(1922)東京でクレヨン画展を行なう(これが後の全国教育美術展の発祥となる) 

大正13年(1924)油絵具の製造販売開始 

大正14年(1925)クレパスの商標を登録(商標登録第0167993号)クレパスを開発、製造販売開始  

大正15年(1926)「棒状絵具製造機械」特許(クレヨン)「速乾固形絵具」特許(クレパス) 

昭和3年(1928)水彩絵具の製造開始、「クレパス」の夏用・冬用を改め、四季一定品としての製法に成功・販売開始  

昭和 9年(1934)社名を「クレパス本舗株式会社桜商会」に改称(資本金20万円)  

昭和12年(1937)佐々木昌興が引退し、西村齊次郎が社長に就任  

昭和15年(1940)西村俊一が社長に就任  

昭和33年(1958)「サクラクレパスの唄」三木鶏郎作曲が読売テレビで初オンエア、宣伝車のテーマソングとして全国をかけめぐる  

昭和37年(1964)新日本造形株式会社を傍系会社として設立 

昭和39年(1964)テレビCMに初めてタレントを採用(倍賞千恵子 氏)  

昭和45年(1970)社名を「株式会社サクラクレパス」と改称、専門画材関係のヌーベルブランド発足、中央研究所を新築落成 

昭和48年(1973)「クーピーペンシル」を開発、製造販売開始 

昭和49年(1974)東大阪市に大阪工場を新築落成 

平成3年(1991)オランダの画材メーカー、ロイヤル・ターレンスを買収。欧州の生産、販売拠点を強化。本社新社屋竣工式披露、★サクラアートミュージアム開設 

平成29年(2017)ニッカー絵具(株)を子会社化 

 

・・・サクラさんにも、ずいぶんとお世話になっています。

 

 

・・・素敵な建物です。

 

《参考》「チュチュアンナ」 設計:安井建築設計事務所

540-0003大阪市中央区森ノ宮中央1-10-2/0120-576-755 

http://www.tutuanna.co.jp/news/detail/249

モノづくりにおいて、当社が創業時から念頭においてきのは、ミッションに掲げている「良・安・感・楽」です。靴下を原点とする当社のモノづくりで、今も受け継いでいるこだわりがあります。柔らかい「風合い」と程よく「コシ」のある、相反する表情を両立させた「靴下」。これこそお客様が求める理想の靴下づくりです。この精神は当社のDNAとなり、全てのモノづくりのベースになっています。こだわりを貫くモノづくりに日々汗を流しています。また、トレンド変化が早いファッション業界において、当社はMDを強みとするモノづくりをおこなっています。そのなかで、デザイン性・季節感・機能性・品質の良さを兼ね備え、しかもリーズナブルであることにこだわり、お客様ニーズを満たしてきました。チュチュアンナのモノづくりは、これからもお客様の理想に応えていきます。

1973婦人靴下卸業『有文商店』を大阪市天王寺区にて創業。 

1979会社組織に改組.『株式会社チュチュアンナ』を設立。上田利昭が代表取締役に就任。 

2015年 5月創業42年目を迎え、グループ本社を★大阪市中央区森ノ宮へ移転。

https://www.yasui-archi.co.jp/works/detail/wk-awards/2015_tutuannahonsha/index.html

 

 

《鵲森宮》通称:森之宮神社 

540-0003大阪市中央区森之宮中央1-14-4/06-6941-9294 

http://www.morinomiya.net/

聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願し、勝った暁には四天王を祀ることを誓った。戦勝後の崇峻天皇2年(589年)7月、まず両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺(元四天王寺)を創建した。四天王寺はその25年後に現在の荒陵山に移転したが、当社はそのままとされた。『日本書紀』の推古天皇6年夏4月に、聖徳太子の命により新羅へ渡った吉士盤金(きしのいわかね)が2羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったという記述がある。その「難波の杜」は当社の森であるとされることから「鵲の森」と呼ばれるようになり、ついには当社の社名となったと伝える(「難波の杜」は、他に生國魂神社なども比定地となっている)。  

https://jinken-kyoiku.org/heiwa/ch-morinomiya.html

神社の建物は空襲で燃えてしまったが、現存する社は奇跡的に残ったものという。元はもう少し北のほうにあったが、道路の拡張で今の場所に移された。社中きれいに洗われた。柱などに傷がはいっているのは、★焼夷弾などの破片と言われる。また、狛犬さん、最初は青銅製であったが、戦争で★供出させられ、石に作り替えたところ、次は空襲にあい台座などに破片で削られた跡が残っている。二度も被害に会うているのに、この狛犬さん、愉快な顔で「人間って、戦争するって、アホやなあ」と言っているよう。私の好きな狛犬さんの一つです。皆さんはどうですか。(佐藤泰正/元今津中学校教員)狛犬にははっきりと弾痕が残っている。鳥居は元禄時代のものというが爆撃で倒れたという。そこにも★弾痕がある。狛犬台座の裏に次のように刻まれている。「大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ献納シテ之ヲ再建ス 昭和十九年七月」 

 

《森之宮ピロティホール》 

540-0003大阪市中央区森ノ宮中央1-17-5/06-6944-1151 

http://www.piloti-hall.jp/

敷地内に出土する★「森ノ宮遺跡」。縄文・弥生時代から江戸時代初期の遺構や遺物を保存するために、特殊梁による★ピロティ方式(高床式)を採用した全国でも珍しい劇場です。1979年に建設され、長くみなさまに愛された劇場が2010年、最新の設備を整えて、新たに蘇りました。

 

 

《ピースおおさか》 

540-0002大阪市中央区大阪城2番1号/06-6947-7208 

http://www.peace-osaka.or.jp/

戦前の大阪には軍事施設が数多くあり、★砲兵工廠では大砲などの兵器が製造されていました。1944(昭和19)年12月から終戦直前の1945(昭和20)年8月14日までに大阪府内では50数回におよぶ空襲を受けました。私たちが住むこの大阪で、戦争の記憶を風化させず後世に語り継いでいくため、軍事施設跡や空襲で被害のあった地域を訪ね歩く、モデルコースをご紹介します。 

http://www.peace-osaka.or.jp/model_course/

★大阪砲兵工廠跡の石碑/城東区森之宮1丁目 

http://www.city.osaka.lg.jp/joto/page/0000000735.html

現在の大阪城公園、大阪ビジネスパーク、UR森之宮団地一帯は、戦時中まで★大阪陸軍造兵廠でした。このあたりには巨大な兵器工場が建ち並び、大勢の人が働いていましたが、終戦前日の昭和20年(1945年)8月14日の空襲で、完全に破壊されてしまいました。その後、この一帯には多くの住宅や施設が建ち、当時の面影を知るよしもありませんが、この石碑はUR森之宮団地内に建立されています。 

http://www.ndl.go.jp/scenery/column/kansai/osaka_army_arsenal.html

 

 

《Gravitecture 大阪城》★遠藤秀平建築研究所 

大阪市中央区大阪城3丁目公園内 

http://www.g-mark.org/award/describe/33731

大阪市中心部の大阪城公園内に建つ、観光客のために設けられた小さな3つの公共施設。大手前と城南は開放された外部環境としてのトイレであり、レストハウスは休息スペースとして設けられたカフェとトイレを併設した建築である。屋根にはいずれも16mm?19mmの耐候性鋼板を用い、自重によってたわむことを許容している。開かれた公共建築である。 

 

《教育塔》 

http://www.kyouikutou-jtu.jp/

第83回教育祭は、2018年10月28日(日)午前10時から開催します。 

1934年9月21日朝、★室戸台風が関西地方を襲いました。秒速60mという強風及び大高潮はあらゆる方面に大惨事を及ぼしました。学校においては始業の前後でもあり多数の木造校舎が倒壊し、教職員25人をはじめ600人を超す子どもたちが亡くなるなどの甚大な被害がありました。災害直後、大阪の教育界は二度とこのような惨事が起こらないことを願って、子ども、教職員を追悼し、その名を永くとどめるため、記念碑の建設を発議し、帝国教育会が臨時総会において記念塔を建設することを決定しました。全国の教育関係者はこの呼びかけにこたえ、児童、生徒、教職員、一般有志の方から32万円を超える寄付が寄せられ、大阪城公園に教育塔ができました。1935年(昭和10年)9月地鎮祭、1936年(昭和11年)8月定礎式、1936年(昭和11年)10月30日に竣工の運びとなり、この日に第1回教育祭が行われました。以来、教育祭は例年10月末に挙行されてきました。塔の建築には教育塔建設費に17万5千円、式典費、準備費等で合計32万円ほどがかかりました。公募により、塔の設計は★島川精さん、塔の正面のレリーフは★長谷川義起さんが選ばれました。祭典は建設当時から神式あるいは仏式で行われていましたが、1948年、日本教育会(「帝国教育会」改称)が解散、★日本教職員組合が塔の維持・管理と教育祭の主催を受け継いでからは、宗教色をなくすよう努め、現在は無宗教形式で行われています。1981年には、教育塔内正面の塔芯文「咸一其徳」(咸其の徳を一にす)から「やすらかに」に改め、塔芯裏の「説明文」を戦前調のものから現代風に改めました。1986年には「合祀」を「合葬」に、「祭主」を「主催者」に「奉納音楽」を「追悼音楽」に、献花中の音楽を「越天楽」から「葬送曲」に変更しました。第50回(1985年)教育祭では180人が合葬され、特別合葬者の中には御巣鷹山★日航機墜落事故(1985年)の犠牲者41人が含まれています。第60回(1995年)教育祭では、★阪神・淡路大震災で自宅の倒壊や火災により亡くなった121人の特別合葬者を含む154人が合葬され、「教育塔説明掲示板」も全面的に書き改めました。第70回(2005年)教育祭では、★新潟県中越地震により亡くなった4人の特別合葬者を、第77回(2012年)、78回(2013年)、79回(2014年)の教育祭では★東日本大震災の犠牲となられた51人の特別合葬者を含む方々を合葬しています。

 

 

・・・ようやく「大手門」まで来ました。いやはや広いし暑いし、目的地まであと少しです。