《参考》「コミュニティシネマ大阪」
530-0014大阪市北区鶴野町4番 B-801/Fax06-6373-1213
http://www.ccosaka.org/index.html
●大阪は、日本の映画興行★発祥の地であり、大阪を舞台とした映画が数多く制作されるなど、映画との結びつきが非常に強い街です。また、民間の活力にあふれた街でもあります。
●私たち「コミュニティシネマ大阪」は、大阪を根拠地に、多様な映画・映像作品の上映、「おおさかシネマフェスティバル」の開催、ワークショップや講座の実施、映像作品や文献の収集・保存、および映像作品の制作・配給、さらに文化芸術全般のアートセンター活動に関する事業を行い、広く市民の皆様に多様な映画・映像その他文化芸術作品の鑑賞機会を提供し、また映画・映像その他文化芸術活動に携わる人材を育成するなど、文化的に豊かな社会の実現に寄与することを目的とします。
●2001年に公布された文化芸術振興基本法において、映画はメディア芸術のひとつとして位置付けられ、国民文化の一翼を担うものとして、その振興がなされるべきものであることが明言されました。そして、2003年9月、大阪に全国の映画祭関係者、自治体・公共上映、さらにミニシアターの映画関係者らが一堂に会して「映画上映ネットワーク会議イン大阪」が開催され、「コミュニティシネマ」について討議されました。
●「コミュニティシネマ」とは、豊かな映画・映像環境を育むため、官民が一体となって取り組む非営利の上映活動のことで、その名称は新しい映像概念として生まれてきたものです。この大阪会議では「コミュニティシネマ」の全国への普及と、より豊かな映像環境に向けて積極的に取り組むことを目指した宣言が発せられました。その後、コミュニティシネマ活動が模索され、2004年から(財)大阪都市協会内に「コミュニティシネマ大阪」事業事務局が発足し、官民が協力して「おおさかシネマフェスティバル」「映画連続講座」「文化庁優秀映画鑑賞会」など様々な事業を行ってきました。しかし、同協会が、2007年3月末で解散し、「コミュニティシネマ大阪」は、特定非営利活動法人(NPO法人)として、再出発することにいたしました。
●大阪には、民間の活力による町作りというかけがえのない文化的伝統があります。「町民文化」が築いた街、それこそ大阪なのです。また、大阪は日本で初めて映画(リュミエールの作品)が興行上映された映画文化発祥の地でもあります。この伝統を背景に、民間の活力と行政がともに協力し合い、また知恵と情熱を出し合うことで、これまでには考えられなかった自由で手軽で魅力的な文化創造を進めてゆきたいと考えます。
【景山理】(1955~)
http://www.artcomplex.net/art-space/migohsha_archives/feature/#!A016
1955年、島根県生まれ。74年より、自主上映グループ「シネマ・ダール」を主宰し、大阪・京都でさまざまな映画を上映。76年より全国自主上映組織体「シネマテーク・ジャポネーズ」の発足にあたって大阪代表として参加。84年に月刊・映画専門紙「映画新聞」を創刊(毎月1日発行)。映画新聞は、91年度日本映画ペンクラブ奨励賞、大阪府文化助成などを受け、99年11月の休刊まで156号を発行。97年1月、市民から2100万円の出資金を得て「シネ・ヌーヴォ」を設立、ロードショーを開始。99年10月には、宝塚市売布神社駅前「ピピアめふ」内の日本初の公設民営映画館「シネ・ピピア」の支配人に就任。現在、シネ・ピピアとシネ・ヌーヴォの支配人。
《劇団「維新派」》株式会社カンカラ社
542-0012大阪市中央区谷町6丁目4-16-302/06-6763-2634
維新派は、2017年10月から11月、台湾・高雄の野外劇場にて『アマハラ』を上演いたしました。本公演が最終公演となり、これをもちまして維新派の活動は★終了いたしました。活動の継続をご支持くださる声も多くいただきましたが、毎年、新しい風景の中で作品をつくり続けてきた私たちにとっては、主宰★松本雄吉がいない今、新作を上演することが叶わず、解散の決断にいたりました。維新派、ならびに松本雄吉に関する著作権等は、維新派の製作業務を行ってきた株式会社カンカラ社で管理する予定です。また、松本の演出ノートや台本、小道具、衣装など、維新派と松本に関する資料は、公的機関等へ預けることで準備を進めています。お手元にご提供いただける資料をお持ちの方は、お知らせください。なお、2018年10月には、松本雄吉がこれまでに書いた台本、エッセイ、書簡、デッサンなどを網羅した書籍★「維新派大全」を発刊します。1970年に設立してから、約半世紀にわたり活動を続けてこられたことは、ひとえに、皆さまからのご支援があったからこそと感じております。維新派のつくる風景を共に支え、共に旅してくださった皆さまに心より感謝いたします。ありがとうございました。2017年12月
【松本雄吉】(1946~2016)
http://www.performingarts.jp/J/art_interview/0511/5.html
熊本県天草生まれ。大阪教育大学で美術を専攻。1970年維新派を結成。1991年、東京・汐留コンテナヤードでの巨大野外公演「少年街」より、独自のスタイル「ヂャンヂャン☆オペラ」を確立。野外にこだわり、観客とともに旅をする「漂流」シリーズを企画。奈良・室生、岡山の離島・犬島などで公演を行う。代表作に、離島の銅精錬所跡地内に劇場を建てた「カンカラ」、びわ湖上に作った<びわ湖水上舞台>が大きな話題となった「呼吸機械」、野球グラウンドで上演した「トワイライト」など。2000年に初の海外公演をオーストラリア・アデレードフェスティバルで上演する。これ以降も、ヨーロッパや南米でのツアーに加え、2009年オセアニアツアー、2011年シンガポールなど海外からの招聘も多数。
・・・さて、映画だけでなく絵画(美術)においても、喧々諤々です。とりわけ「戦争画」については、未だに引きずっている現状です。★「日本の原爆文学」は、中学校図書館に寄付してしまいましたが、まだまだ書棚には戦争や原爆に関する本が多く眠っています。
《参考》元編集者が残す『日本の原爆文学』全一五巻の記録/文:近藤ベネディクト(本名:近藤亙志)/【解題】★川口隆行(広島大学大学院教育学研究科)
https://home.hiroshima-u.ac.jp/kkgbunka/staff/kawaguchi.html
www.genbunken.net/kenkyu/11pdf/11kondou_kawaguchi.pdf
(前略)グループ代表で『日本の原爆文学』刊行当時ほるぷ出版社長でもあった中森蒔人の経歴について、彼自身の著作『ほるぷの意義』(ほるぷ総連合、一九七二年二月)などを参考に補足しておこう。中森は、中森書店の創業者の息子として東京に生れた。戦争中に旧制二高から東京工業大学の航空機工学科に進むが、敗戦後は東京大学法学部に再入学。南原繁に師事し政治学を学び、一九四九年に第一回上級国家公務員試験に合格している。一方、一九四八年には民青(日本民主主義青年同盟)の前身、民主主義学生同盟結成に関わって委員長に就任(副委員長は網野善彦)、一九五〇年にはレッドパージと単独講和に反対する学生集会を無届けで強行し、停学処分を受ける。その後、徳島県立小松島高等学校に赴任。一九六一年、義兄の急逝にともない家業を継ぐため帰京した。近藤さんによれば労使間の緊張もあったようだ。だが、大手出版社がことごとく断った原爆文学集成の企画を決断、困難な事業を全社一丸となって進め、経営的にも成功させたのは、中森の存在が大きかったのだろう。経営的な成功という点でいえば、『日本の原爆文学』が一万一千セット印刷され、半年ほどでそのほとんどを売り上げたというのは、おそらく当時の常識からしても驚異的記録に違いない。売れたほど読まれたのかはともかくとして、このような販売部数を可能にした大きな要因が、ほるぷグループの直販制度であり、それを支えた販売プロモーターであったという点も、近藤さんの文章からうかがうことができる。従業員約五十名のうち四十名ほどが編集スタッフという中堅出版社としてはかなり贅沢な人員配置は、独自の販売網をもっていたがためであろう(直販制度がうまく機能しなくなったとき、人件費の面から考えても★急速に経営困難に陥るのは必然でもあろう)。また、ほるぷの得意先の一つが学校であったということは、教員個人とのつながり以上に、日教組など教職員組合との関係も密接であったと想像される。現在多くの公共図書館、学校図書館に『日本の原爆文学』が所蔵されているが、それは八〇年代代前半の反核運動の盛り上がりという一般的説明だけでは十分ではなさそうだ。
・・・出版の舞台裏にすごいドラマがあったことを、今になって知りました。
《NEWS》2015.8.9朝日新聞デジタルより
原爆文学、被害伝え続け/★吉永小百合さん「初心忘れず」
広島、長崎に原爆が投下されて70年。犠牲者や被爆者の苦しみ、生き方を描いた小説や詩などの原爆文学はこの間、数多く出版され、その思いや被害の実態を伝え続けてきました。「ちちをかえせははをかえせ」の「序」で始まる広島の詩人、峠三吉の「原爆詩集」。1951年の初版を模した復刻本を今年6月、市民団体「広島文学資料保全の会」が出版した。峠は爆心地から約3キロで被爆。傷ついた被爆者の肉体の描写や、直情的な言葉で怒りや悲しみを表現した。同会の池田正彦さんは「峠ほど、原爆被害を受けた理不尽さを真っすぐに表現した作家はいない。今を生きる人々にも改めて読んでもらいたい」と話す。長崎の俳人、松尾あつゆきの「原爆句抄」(72年)も今年、復刊。1発の原子爆弾によって妻と3人の子を殺された松尾は、視界に入ったものを淡々と句にすることで強く訴えかける。出版した書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)の田島安江さんは「素晴らしい本なのに絶版で入手できなかった。70年を機に復刊しようと以前から考えていた」。広島で被爆した小説家、大田洋子は45年8月30日付の朝日新聞に原爆の体験記を寄稿し、48年に「屍の街」を出版した。峠や松尾、大田のほか小説家の原民喜、医学博士で随筆家の永井隆、詩人の栗原貞子らは自身が被爆している。「黒い雨」の井伏鱒二、「ヒロシマ・ノート」の大江健三郎、戯曲「父と暮せば」の井上ひさしら、被爆体験のない著名な作家も関連作品を発表している。前衛俳人の金子兜太も日本銀行に勤務していた時代、赴任先の長崎で被爆者に向き合った句を作った。青来有一のペンネームで活動する芥川賞作家で、原爆を題材に「爆心」などの作品を書き続ける長崎原爆資料館の中村明俊館長は言う。「広く知られていないものでも非常に完成度の高い作品が多い。生涯続く被爆の苦しみ、被爆2世の不安などを読み物として伝えていく価値は、とても大きい」若い世代への記憶の継承という点でも文学作品の役割は重要だ。吉永小百合さんは、NHKのドラマ「夢千代日記」で母親の胎内で被爆した女性を演じた後、被爆者から「イベントで原爆詩の朗読をしてほしい」と依頼された。「峠三吉などは知っていたが、それがきっかけで栗原さんの詩など素晴らしい作品に多数出会い、小中高生にも広く聴いてほしいと思って、ずっと朗読を続けている」という。被爆70年の今年、広島文学資料保全の会と広島市は、峠の「原爆詩集」の最終稿と、原が被爆直後の広島の状況を書き留めた手帳、栗原の創作ノートを、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産への登録をめざして日本ユネスコ国内委員会に申請した。原の手帳は後に小説「夏の花」を執筆する際の元資料になったもので、栗原のノートには被爆直後のビルの地下室で赤子が生まれる様子を題材にした「生ましめんかな」が直筆でつづられている。★広島と長崎では「戦後70年」より、「被爆70年」という表現の方が圧倒的に多く使われる。投下直後に★「今後70年は草木も生えない」と言われた被爆地を描いた原爆文学。本を開けば、私たちの耳に叫びが飛び込んでくる。原爆詩を朗読することで強いメッセージをもらい、私自身も勉強になっています。心がけているのは、初めて読んだ時の気持ちを忘れずに聞き手に伝えようということです。原爆文学はたくさんありますが、映画「母と暮せば」(12月12日公開、松竹)も、原爆を題材にした作品。広島を舞台にした「父と暮せば」を執筆した★井上ひさしさんは、長崎原爆をテーマにした作品も書きたかったといいます。その遺志を★山田洋次監督が受け、脚本を手がけたオマージュです。原爆で死んだはずの息子(二宮和也)が、私が演じる母の前に突然現れて会話を重ねてゆきます。
・・・「ふしぎな岬の物語」はすぐ観に行ったのですが、「母と暮せば」は観れていません。せめて★井上ひさしさんの「父と暮せば」を読もうかなあ。