《参考》「九条」
もとは淀川の河口に蓋をするような大きな中洲があり、南浦と呼ばれていた。1619年(元和5)に南浦の北東端に大坂船手組★船番所・船蔵・組屋敷・与力屋敷・同心屋敷が置かれた。1624年(寛永元)には土豪の池上新兵衛の協力を得た幕府役人の香西晢雲によって住宅・墾田開発が計画された。なお、開発主体については米屋弥右衛門など12名との説もある。幕府儒官の林羅山によって★衢壌島(くじょうじま)と名付けられたが、1674年(延宝2)の洪水の際に★九条家の木笏が漂着したことから九条島の表記に改められたとの伝承がある。また、村名も当初は九条島村と呼ばれた。 九条島は河流・航行の妨げとなっており、1684年(貞享元)から1687年(貞享4)にかけて、淀川水系の河川改修を幕府から命じられた★河村瑞賢によって安治川の開削工事が行われ、九条島が2つに割られた。以降、安治川左岸が九条村、右岸が西九条村と呼ばれるようになった。
《ナインモール九条》
http://kujoh.com/history/index.html
「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、賑やかな場所になるように願ってつけられたとのこと。その後、「九条」に変わったのは、諸説あるものの、「衢壌」が難しすぎるので簡単な字になったのが真相らしい。
《キララ九条3町商店街》(九条新道3丁目振興組合)
550-0027大阪市西区九条3-12-14
安治川は、キララ九条商店街を北へ進むとあります。いつも九条に住んでいる方やその周辺の方々がお世話になっているこのトンネル、実はちょっとびっくりするような事実があります。今は静かな安治川ですが、昔は貨物船などが往来する大変にぎやかな川だったそうです。「源兵衛渡」という渡し船が運行していましたが、交通量が増加したために処理が困難に。そこで、昭和10年に河底トンネルを設計する計画が持ち上がり、完成したのが昭和19年。歴史の深さもさることながら、着目したいのはその工事方法です。実は、この安治川トンネル、トンネルを埋め込んでいるんです。この工事方法は、当然★日本初。しかもこのような歴史があるなんて…また、このトンネルは昔は車も通っていたとか。排気ガスや渋滞問題で閉鎖になったそうです。
《大阪市立九条東小学校》
550-0027大阪市西区九条2-6-2/06-6582-1910
http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e561153
昭和初期に大阪湾沿岸に工業地帯ができ、大阪の地盤は沈下し、九条は台風にともなう水害の被害に多くあっています。九条東小学校の校門横には★「暴風水害記念誌」があり、被害の状況が銅版に刻まれています。
1934(昭和9)年9月21日朝方、室戸岬(高知県)より風速60mの突風台風は、3mほどの高潮と伴い、午前8時に大阪市を襲い、これまでにない惨禍をもたしました。市内の家屋、工場、店舗は倒壊・流失、公営物の損害等あり、死者990名、重軽症者16908名にのぼりました。なかでも小学校の被害は最も甚だしく、校舎の全壊28、半壊71、大破77、それに殉職教員7名、惨死児童269に及びます。九條一帯は大きな難は免れますが、屋根瓦は木の葉のごとく飛び散り、濁流が押し寄せ、全戸床上浸水し、交通・通信・電燈は途絶し、各学校に殺到し、避難者は100名に達します。前代未聞の大災に遭いましたが、当西区内にひとり死傷者も出ずに復興の途についたのは神明の加護によるものと区内の関係者各位の応急の措置によるもので、『禍を転じて福と為し』で、今や新興の気概をもち、第一、第二、第五各小学校の復興も目前にあり、ここに九條教育会は、各種団体と協議し、事蹟を碑に刻みこれからの戒めの備えとしします。昭和13(1928)年3月
《シネ・ヌーヴォ》
550-0027大阪市西区九条1-20-24/06-6582-1416
1997年1月18日に「映画新聞」のスタッフであった、★景山理(当時、編集発行人)と、江利川憲(フリー編集者)、松井寛子(映画宣伝プロデューサー)らが中心となり、市民株主として一般の映画ファンが出資し「株式会社ヌーヴォ」を設立。同社が映画館「シネ・ヌーヴォ」を運営している。開館当時、大阪でミニシアターと呼べる映画館は「シネマ・ヴェリテ」(ACTシネマ・ヴェリテを経てシネ・ヌーヴォ梅田となるも閉館)など数館しかなく、東京に比べアート系作品の上映数の差は歴然としていた。現在は、大阪でもアート系映画を上映する映画館が増えている。映画館そのものは歴史が古く、「九条東洋劇場」(~92年)「東洋レックスシネマ」(93年)「ACT活動写真館」(95年~96年)と開館・閉館を繰り返してきた。シネ・ヌーヴォ開館にあたり、劇団★維新派が館内の内装を行った。2006年8月には、2階に24席のデジタルシネマ「シネ・ヌーヴォX」を開館。ドキュメンタリーや特集上映、独立系映画作家の作品を中心に、より多様な作品を上映することで、大阪の観客の期待に応えることを模索している。なお、兵庫県宝塚市のシネ・ピピアは姉妹館である。
《NEWS》2017.3.25毎日新聞より
「映画館は優れた映画を次の世代に伝えていくことが大切」
「ヌーヴォ」(仏語で「新しい」の意味)の愛称で映画ファンに親しまれている、大阪市西区九条の映画館「シネ・ヌーヴォ」。開館した1997年は映画誕生から100年が過ぎ、“映画の新しい世紀”という意味で代表の景山理さん(62)が名付けた。それから2020年。その歩みは「映画館は優れた映画を次の世代に伝えていくことが大切」と話す景山さんの歴史でもある。大学時代は全国の仲間と金を出し合い、観たい映画のフィルムを買って自主上映。
https://greenz.jp/2017/08/03/cinenouveau/
「シネ・ヌーヴォ」がオープンしたのは1997年。同館代表の景山理さんはもともと、80年代から『映画新聞』という紙メディアを発行していました。さらには、興行収入の観点などから一般公開されにくいドキュメンタリー映画などの上映運動に協力したり、海外の貴重な映画の自主上映会を開催するといった活動も行っていました。
こうした活動を続けるうちに、「自分たちが観たい映画を上映する映画館がほしい」という熱意が仲間たちの間で自発的に高まりました。また同時に、ハリウッド映画が日本映画を駆逐するのではという危機感も強く感じていたそうです。そこで、「映画新聞」の紙面で「映画館をつくりませんか?」とひと口10万円で出資を呼びかけたところ、たった数ヶ月間に全国の映画ファンたちから1800万円もの出資金が集まったのです。景山さんはこの圧倒的な熱狂に押されるように翌月には株式会社シネ・ヌーヴォを設立。そして空きのある映画館を探したところ、西区・九条の物件にすぐに入居が決定。こうして「シネ・ヌーヴォ」は誕生しました。(中略)
「シネ・ヌーヴォ」のもうひとつの大きな魅力は、劇場の内装です。入り口の壁には大きなバラのオブジェが来る人を出迎え、劇場内の天井は、水の中から空を仰ぎ見た時のきらめきが描かれています。コンセプトはずばり、“水中映画館”。施工を手がけたのは、大阪を拠点に活動する総勢50名ほどの劇団員で、劇場を一からつくっては、公演が終わったら劇場を壊すという独自のスタイルで知られる劇団★「維新派」の座長・松本雄吉さんとメンバーのみなさんでした。映画館の内装を劇団員たちが手がけるという、ほかのどこにもないアート空間が誕生した経緯には、松本さんと景山さんのこんなエピソードがあった、と支配人の★山崎紀子さんが教えてくれました。
「映画新聞」を発行していた時代、代表の景山が『1000年刻みの日時計』というドキュメンタリー映画を自主上映したんです。それは山形県の過疎化が進む村に住む農家を追ったドキュメンタリーで、「維新派」の座長★松本雄吉さんがその映画のためだけに劇場をつくってくれることになりました。その時は土や藁や丸太でつくったので、どうしても完全な暗闇を再現できなかったそうなんです。それ以来、いつか暗闇のある映画館をつくりたい、と松本さんは思っていてくださり、「シネ・ヌーヴォ」開館時にお声がけしたところ、ふたつ返事でお引き受けくださったと聞いています。
【山崎紀子】(1977~)
http://www.kyoto-up.org/archives/2103
1977年、大阪生まれ。大阪美術専門学校にて3年間、油彩画を学ぶ。在学中に今はなき梅田花月の夜だけ映画館「シネマワイズ」にてアルバイト。2001年、シネ・ヌーヴォに入社。2008年、支配人に就任。数々の特集上映企画に携わる。現在撮影中の釜ヶ崎を舞台にした16mm劇映画『月夜釜合戦』(佐藤零郎監督)の宣伝を担当。弟は映画監督の山崎樹一郎(『ひかりのおと』、『新しき民』(2015年春シネ・ヌーヴォにて公開予定)。
・・・「水中映画館」です。