平瀬露香(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ようやく平瀬露香さんの出番です。 

 

【平瀬露香】続茶の湯「数寄者たち」より

http://kurekiken.web.fc2.com/data/1999/991029.html

平瀬露香は、74万両を越える大名貸しでしられた大阪船場★梶木町(内北浜)★「千草屋」に生まれ、千草屋を銀行組織化し(★第三十二銀行)、保険会社や阪神電鉄を組織し、大阪貯蓄銀行取締役、日本火災保険社長、★「大阪博物場長」にもなった。尤も、露香自身は経営にはノータッチで、和歌・書芸・歌舞伎などの31にものぼる趣味に没頭していたといわれ、「蝙蝠大尽」と綽名された。その趣味生活を学問・宗教・遊戯に至るまで31の項目に分けて一冊の書物に纏めようとしたともいわれる。残念ながら実現はしなかったが、若し現存すれば天下の奇書であったであろう。番頭たちとしても、露香に下手に商売に手を出されるよりも趣味に没頭していてくれたほうが商売の危険は少なかった。茶の湯は彼の趣味の中で最も熱をいれた物で、木津宗詮から武者小路千家流を学び奥義に達していた。年少の愈好斎が成人するまで武者小路千家の奥義を守ったこともある。松平不昧に私淑し、不昧の大崎別邸にあった★「独楽庵」の扁額を手に入れ、同名の茶室を作ったことで知られる。また、江戸時代から貸付金の返済として茶道具を受け取ることもあった関係から、家蔵品も優品ぞろいであった。柴田井戸・雪舟達磨絵・青磁人形水指などが十三貫目で露香が生まれる以前から既に手に入れられているのはその一例である。後に日清戦争後の不況での平瀬家の零落による★「道具売り立て」の際、花白河硯箱が一万六千五百円という最高額で落札したのを始め、一万円を越える道具が3点も現れた。値段を書く書記の手が震えたというエピソードさえ残るこの売り立ては、★戸田弥七・春海藤次郎・山中吉郎兵衛が札元となり、益田鈍翁・根津甚一郎・藤田香雪らが参加し、茶道具市場が活気を呈する火付け役となった。それにしても彼の趣味三昧が結果的に家の財政危機を救ったのである。しかし、それでも露香は★「千草伊羅保茶碗」と「長崎井戸脇茶碗」は手放さなかったという。

 

 

《千草屋》{大阪歴史博物館}のジオラマより 

540-0008大阪市中央区大手前4-1-32/06-6946-5728 

http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/zyousetu/9f.html

幕末の安政年間(1854~60)の船場。北端部、淀屋橋にほど近い★梶木町と尼崎町1丁目の春の情景。富裕層の両替商が多い地域、このジオラマの中には、大店両替商★「千草屋」、町人の学問所である「懐徳堂」、中小の商家や裏長屋などがある。街区は東西に走る通りと南北を結ぶ筋によって区画され、町境には排水施設である「背割下水」が通る。 

 

《NEWS》2016.2.20日本経済新聞より 

船場は今の大阪市中央区の一角で、道は碁盤目状。「南船場」など一部で地名が残るが、江戸期は四方を土佐堀と長堀、東横堀と西横堀の4つの川・運河に囲まれたエリアをさした。商業の中心地で現在もオフィスが多い。周辺は放送中のNHKドラマ「あさが来た」の舞台でもある。中央区市民協働課の担当者が「今は御堂筋など南北の筋がメーンだが、当時は大阪城に通じる東西の通りが中心」と教えてくれた。担当者は「覚え方?特に聞いたことはないですが」と首を振った。京都の覚え歌は幼少期から口伝えで習うというから、子供なら知っているかも。そこでかつての船場エリア内にある唯一の市立小学校★開平小に向かった。「約20年前に教職員が作った『わが町船場』という教材に、覚え歌が載っています」と赤銅久和校長。もともとは故宮本又次・大阪大名誉教授の著書「船場―風土記大阪―」に掲載されていたらしい。「浜梶(かじ)木」から始まる歌詞だ。やはり大阪にもあったのだ。だが児童に教えることはなく、「節など歌い方は全く分からない」と赤銅校長。知っている人はいないかと料亭や地元町会関係者らに取材を重ねた結果、ようやく覚え歌に詳しい人物に会うことができた。「50年ほど前に知人に教わった」と明かすのは、大阪天満宮文化研究所★近江晴子さん(75)。船場育ちの近江さんが歌ってくれた歌詞は開平小のものと一部異なるがよく似ている。メロディーのある歌というより、七五調の言葉遊びに近い。「船場の商家には各地から丁稚や女中が集まった。通り名を覚えないと仕事にならないので、覚え歌ができたのでは」という。近江さんによると、冒頭と最後の「浜」は今の北浜と長堀通周辺。「船場では河岸を『浜』と呼んだ」。「今」は今橋、「高伏道」はそれぞれ高麗橋、伏見町、道修町だ。★「梶木」や「順慶」などすでに失われた名も。明治以降、名が変わり、覚え歌を当てはめにくくなったことが受け継がれなくなった原因かもしれない。近江さん自身、「他に歌を知っている人に会ったことがない」といい「地名や歌とともに、船場らしさも失われるようでさびしい」と嘆く。大阪商工会議所が実施する「大阪検定」では2010年、1級の試験で覚え歌の「高伏道」を空白にし、選択肢から選ぶ問題が出題されたことがある。正答率は45%といい、難関の1級受験者でも過半数が間違える難問だったようだ。今や“絶滅危惧種”となった大阪の覚え歌。だが近年、タワーマンションが建ち住民が増えていることを考えると、歌い継がれる機運もあるのかもしれない。

 

 

【船場と島之内】町をかぞえる手毬唄/あっちゃこっちゃ大阪より 

https://ameblo.jp/maturiya-umenosuke/entry-10385433893.html

大阪にも、まあ真ん中の船場と島之内の町並みを唄う「手毬唄」があった。戦前に船場(東横堀・西横堀・土佐堀・長堀に囲まれた区画)の店々へ地方から奉公に上がった丁稚や女中(おなごっ)さんは、まっ先にこれを覚えた。使いに出る時、これを覚えていると道に迷わず便利であった。 

横(東西の通り)は、「浜梶木、今は浮世に高伏道、平野淡路に瓦備後、安土本町米に唐、久太久太に二久宝、博労順慶安堂塩に長~堀」(はまかじき、いまはうきよにこうふしど、ひらのあわじにかわらびんご、あづちほんまちこめにから、きゅうたきゅうたににきゅうほう、ばくろじゅんけいあんどうしおになが~ほり)と唄う。つまり、東西の通りは北浜から長堀までは、順に・・・北浜通り(現在は土佐堀通り)→★梶木町通り(現在は内北浜通り)→今橋通り→浮世小路→高麗橋通り→伏見町通り→道修町通り→平野町通り→淡路町通り→瓦町通り→備後町通り→安土町通り→本町通り→米屋町通り(現在は南本町通り)→唐物町通り(現在は中央大通の北側)→北久太郎町通り(現在は中央大通りの南側)→久太郎町通り→北久宝寺町通り→南久宝寺町通り→博労町通り→順慶町通り→安堂寺橋通り→塩町通り→長堀通り となる。 

縦の筋は、「堺藤中、中三休、丼に心斎御堂筋」(さかいふじなか、なかさんきゅう、どぶにしんさいみどうすじ)と唄う。つまり、堺筋から西へ順に・・・堺筋→藤中筋(難波橋筋)→中橋筋→三休橋筋→丼池筋→心斎橋筋→御堂筋となる。 

次に島之内(東横堀・西横堀・長堀・道頓堀に囲まれた区画)は、東西に、鰻谷上之町通り→鰻谷中之町通り→大宝寺町通り→清水町通り→周防町通り→八幡筋(八幡町通り)→三津寺町通り→宋右衛門町通り、と続くので・・・「鰻谷なら上と中、大宝清水に周防町、八幡三津寺そえもん町」(うなぎだにならうえとなか、たいほうしみずにすおうまち、はちまんみってらそえもんちょう)と唄った。島之内の場合は、東西の通りよりも南北の筋の方が有名だった。すなわち、堺筋から西へ順に・・・堺筋→千年町筋→玉屋町筋→笠屋町筋→畳屋町筋→心斎橋筋→御堂筋となるから、「堺千年玉屋に笠屋、畳屋心斎御堂筋」(さかいせんねんたまやにかさや、たたみやしんさいみどうすじ)と口ずさんだ。

 

 

《NEWS》2016.3.31船場経済新聞より 

大阪市が船場に観光案内板設置へ/★内北浜と今橋通りの2カ所 

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/keizaisenryaku/0000348150.html

大阪市が3月30日、適塾(大阪市中央区北浜3)前と日本生命今橋ビル(今橋3)前に観光案内板を設置し、同日、除幕式を行った。同案内板は、市内の歴史・文化的資産を観光資源として活用し、街の魅力向上や活性化を目めざす事業の一環。板の製作には、地元の連合振興町会や街づくり団体などでつくる「船場倶楽部」が協力した。船場地区は現在、電線の地中化や三休橋筋のガス灯設置など周辺の景観に調和した道路整備や街づくりが進められている。案内板は今回、電線地中化に伴い設置された地上機器のボックス上に設置した。同案内板には、周辺地図のほか、設置場所の通りの説明や付近の歴史的建造物の紹介を盛り込み、外国人観光客向けに英訳も取り入れた。この日の除幕式には、大橋達夫・船場倶楽部会長、大阪府立大学★橋爪紳也教授、大阪市経済戦略局の稲垣尚観光部長らが出席。会場の適塾前には、地域住民やまちづくり関係者など約30人が集まった。 

http://semba-navi.com/207/

橋爪教授は「来年度には伏見町や大阪倶楽部(今橋4)の辺りにも設置したい。ほかの通りにも広がれば」と期待を寄せる。案内板の内容は、ウェブサイト「船場ナビ」でも掲載している。

 

 

《NEWS》2018.6.1船場経済新聞より 

大阪の適塾で特別展/明治維新150年、戦争と平和考える機会に 

http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku/index.html

国指定重要文化財の史跡「適塾」(大阪市中央区北浜3、TEL 06-6231-1970)で5月29日、特別展示「戊辰戦争~西南戦争をめぐる適塾関係者たち-軍制と医療から」が始まった。主催は大阪大学適塾記念センター(豊中市)。適塾は、医師で蘭学者の緒方洪庵が江戸末期に開いた私塾。同建物では6月10日の洪庵の命日に合わせて毎年、ゆかりの品々や関係資料を一般公開している。明治維新150年となる今年は、戊辰戦争と西南戦争の2つの内戦にフォーカスし、近代軍制の確立に貢献した大村益次郎や、軍医の養成に携わった緒方惟準など、適塾関係者の活動を紹介する。適塾を研究する大阪大学の松永和浩准教授によると、戊辰戦争での高松凌雲の救護活動、西南戦争での佐野常民の博愛社(日本赤十字社)の設立など、適塾は戦争犠牲者を救済する人材も供給していたという。松永さんは「今年は維新150年だが、歴史の暗部が顧みられることは少ない。今回の展示では戦争の暗部にも光を当てており、戦争と平和の意義について考える機会になれば」と話す。開館時間は10時~16時。月曜休館。入場料は、一般=260円、高校生・大学生=140円、中学生以下無料。6月10日まで。

 

 

《参考》「緒方洪庵と適塾と大阪の町人社会」文:宮本又次より 

適塾のあった過書町は内北浜にあるが、元来淀屋橋南詰附近は八軒家につづいて30石船★過書船の発着地であった。その関係で過書船(京都伏見と往復する船)ちなんで 、そこを過書町といい(会所町とも俗称する) その西の町を★梶木町といった。これも★「楫の木」を売る所で矢張舟運と関係をもっていたであろう。そして難波橋は御公儀橋の1つ 。その南詰の1つ東の筋のところに金相場会所(いまは証券取引所)があり、栴檀木橋筋(三休橋筋)はまだ間の筋の狭い路であった。その南詰に彦根藩と南部盛岡藩の蔵屋敷があり、丼池筋の角に銅座があった。当時の大阪では銅吹業が盛んで、大阪屋、和泉屋(住友)などがいた。長崎での貿易決済に銅を重視していたから、幕府は元禄14年大阪の銅座をして諸国の銅を買集めて長崎に送らせ、元文3年銀座加役として銅座をおいた。この銅座は寛延3年に廃せられたが、明和3年にまた改めて銅座として開された。諸国銅山から出る銅を大阪の銅座を通じて、ことごとく買上げさせ、銅吹屋仲間をして精煉させ、棹銅として長崎に廻送し、その残余を民間に払下げた。(中略)なお高麗橋通りには両替屋が軒をならべ、越後屋(三井)、金銀御為替御 用達の三井店もあった。過書町の西梶木町淀屋橋筋角には★千草屋宗十郎(千宗)の 店もあり、その 1つ南の通りの尼崎町 1丁目には鴻楢(鴻池楢蔵)、鴻市(鴻池市兵衛)が相向いあい、そのづっと東の方今橋2丁目には鴻善、鴻庄(鴻池庄兵衛)が相対していて、まったく豪商、分限者のいる地帯であった。こうした重要な所によくも洪庵が家を入手したものと感心もするし、枢要の地に進出したその明敏さをもたたえたい。

 

《梶の木/楫の木(カジノキ)》クワ科コウゾ属Broussonetia papyrifera 

カジノキは落葉高木で高さ4~10m、16mに達するものもあります。中部日本以南~東アジア~南アジア~太平洋諸島に分布し、暖地の山地に生えています。古代より、布や紙の材料として栽培されていたので、各地で野生化したために正確な原産地は不明のようです。カジノキは楮(コウゾ)同様に雌雄異株で、花期は5~6月で、花序は新しい枝の葉腋に、一つずつ付きます。