《正法寺》綱敷天神社HPより
http://tunashiki.sakura.ne.jp/ujichi/nishideramachi.html
臨済宗妙心寺の末寺。山号は華嶽山。現在は当地に無く、昭和四十二年(1967)に、★大阪府箕面市箕面6-10-1に移転した。現在の堂山町に吸収合併された高垣町字カイチにあった。厳密には現在の阪急東通り商店街と新御堂筋が交差するあたり(堂山町西端)と思われる。釈迦如来を本尊とする。正保4年(1647)に愚堂東寔国師(諡号は大円宝鑑国師)の弟子の梅天(梅尺とも)が開創。当時は光立寺村にあったが、五世徳翁の代の宝暦3年5月に北野村へ移転した。明治31年頃(1898)、帝室技芸員で、南画家で銅板画家としても知られる★森琴石の長男の雄二氏が、この正法寺の敷地の一部280坪を借り受け父・琴石の為に居宅を建てた。(それまでの居宅であった高麗橋の家は現★料亭「吉兆」となっている)この屋敷にはバラが植えられており、300種類800鉢に加え、地植え、垣植えのバラもあり、まさに薔薇屋敷といえる邸宅であったという。森琴石は大正10年(1921)にここで亡くなった。その後昭和20年(1945)の空襲で、正法寺もこの薔薇屋敷も全て灰燼に帰した。ちなみにこの森琴石の生家は有馬温泉の中の坊であり、父の梶木源次郎は有馬炭酸水の発見者としても知られている。前述の通り、昭和42年(1967)に新御堂筋の道路予定地と重なっていた為、正法寺は箕面市へ移転した。
《参考》高麗橋「吉兆」本店(元:児島嘉助邸)
541-0043大阪市中央区高麗橋2-6-7/06-6231-1937
竣工:昭和12年(1937)/設計施工:平田雅哉
間口7間、奥行20間、表屋造りの数奇屋風町家。著名な茶道具商、児島嘉助の店舗兼本邸として建てられた。児島の店には藤田伝三郎や住友吉左衞門らトップクラスの数寄者が訪れた。高麗橋通、伏見町通はミナミの八幡筋と並ぶ茶道具商の集積地である。彼らの信用は極めて高く、単に茶道具の売買にとどまらず、得意先の蔵の鍵を預かり家宝の管理を一任されていた。施工は大阪の棟梁で、数奇屋造りの第一人者、平田雅哉。10ヶ月の期間が費やされた。施主の児島は当時改悪された建築法規に違反する純木造の町家を建てさせようとしたのだが、児島がクビにした前の大工によって大阪府に密告され、やむ終えず一部RC造となったらしい。しかし外観は典型的な表屋造りの大店建築となっている。戦後児島嘉助の顧客でもあった懐石料理の湯木貞一が買収し吉兆高麗橋本店として現在に至っている。湯木は従来、有閑数奇者が個人的に茶室で供した茶懐石を初めて商業ベースに乗せて成功し、日本料理界を代表する人物にのしあがった。彼の収集した茶道具は近くの★「湯木美術館」で展示されている。内装は平田自身によって戦後、料理屋向けに改装されている。室内には「能舞台」まであるというが、一見お断わりの料亭なので紹介者がいないと入店できない。高麗橋本店では今日に至るまで当主と従業員が店で暮らす船場商家の伝統を継承しているという。
《NEWS》2018.2.23朝日新聞デジタルより
大阪市中央区のビジネス街にある高級料亭「高麗橋吉兆本店」が吉兆の新店舗が入るビルと、大和ハウス工業が手がけるホテルに再開発されることになった。「吉兆」は1930(昭和5)年に湯木貞一さんが創業。同店は1949(昭和24)年に開店した。創業者の孫にあたる「本吉兆」(高麗橋2)の湯木潤治社長は「建て替えの理由は建物の老朽化と、消防法や耐震基準との兼ね合い」と話す吉兆は3月末で営業を休止し、2019年春に建て替えたビルで再開する。高麗橋吉兆本店は、東京や京都、神戸などにある吉兆グループのなかで中心となる店だ。今の建物は築80年以上とされ、老朽化が進んでいた。欄間や柱など室内建材の一部を新ビルで活用する考えだ。この建て替えを前に、敷地の8割にあたる約1千平方メートルは大和ハウスが購入した。ホテルを建てる計画だが、ブランドや客室数などは未定という。
・・・さて、森琴石が指導にあたっていた「浪華画学校」について調べていきましょう。
《浪華画学校》
●1990.10「大阪画壇回顧と風景画選」展/京阪デパート守口店7F
京阪ギャラリー・オブ・アーツアンド・サイエンス
『大阪画壇回顧と風景画選』図録/文★増田洋より
http://kir018531.kir.jp/morikinseki_blog/?p=1800
明治17年の秋、当時の大阪市第一大区道修町五丁目二七番地(現:中央区道修町4丁目)★樋口三郎兵衛家に、私立浪華画学校が開校しました。大阪に生まれた最初の美術学校です。校主樋口三郎兵衛は、文久3年(1863)10月27日に、大阪の安堂寺町の熊野屋小寺家に生まれました。幼名は松次郎です。彼は明治11年に樋口家の養子になり、翌年に三郎兵衛を襲名しました。養家を嗣いだ樋口三郎兵衛は、魁新聞を発行したり、樋口銀行を創設するなどの事業を行っていたのですが、日本画の保存、保護に心を痛め、画学校の創立を決心しました。いま考えるに、画学校の運営は、樋口三郎兵衛にとっては無償の行為であったらしく、明治21年、ときの政府が東京美術学校を創立すると、民間の役目は終わったとして、浪華画学校の幕を降ろしてしまいました。明治25年のことです。樋口三郎兵衛の日本画保存の志に共鳴して4人の画家が浪華画学校の教壇に立ちました。★森琴石、★上田耕沖、狩野永祥、森関山の4人でした。その中で狩野永祥は開校後1年半余で世を去ったので、新しく★「庭山耕園」が加わっています。
【増田洋】(1932~1997)
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/semi/jgarad.html
美術評論家。昭和7(1932)年6月17日、兵庫県神戸市に生まれ、同31年に★神戸大学文学部哲学科芸術学専攻を卒業後、同年に「石橋美術館」の学芸員となり、同35年からは「大阪市立美術館」学芸員に転任した。同44年「兵庫県立近代美術館」学芸課長に赴任した。同61年、同美術館次長となり、平成6年には参与となった。編著書に「小出楢重」(中央公論社)、「平福百穂・富田溪仙」(共著・集英社)、「小磯良平油彩作品全集」(求龍堂)、「小磯良平」(現代日本素描全集9巻 ぎょうせい)、「向井潤吉・小磯良平」(共著・集英社)などがある。こうした美術研究のかたわら、美術館学芸員として、37年間一貫して現場から発言をつづけ、それらは「学芸員のひとりごと」(芸艸堂)としてまとめられた。1997年食道ガンのため死去、享年64。
【庭山耕園】(1869~1942)
兵庫県姫路市で、父恒三郎と母カツの次男として生まれる。庭山家は、雅楽頭酒井家が姫路藩主として転封されてから代々藩に出入りし、恒三郎の代には大阪蔵屋敷に勤めていたという。しかし、廃藩置県で職を失うと、一家をあげて大阪北船場に移住する。以後、何度か引っ越すものの生涯★船場を離れることはなかった。小学校卒業後、働くため奉公に出ようとするが、病弱だったため仕事につけずにいた。そこで13歳頃、近所に住み大阪で活躍した四条派★上田耕冲に弟子入りする。明治21-22年(1888年-89年)頃、船場の素封家★樋口三郎兵衛の後援を受け、大阪画学校(?)を作り、その助教となる。大阪の実業家や素封家をパトロンとし、経済的に安定する。更に、本名の慶蔵の「慶」の音にちなんで画塾「桂花社」を起こし、プロになりたい書生の他に、趣味として絵を描く旦那衆やその夫人や良家の子女に絵を教えた。そのうち絵を専門とする玄人の集まりを「桂庭社」と称した。画塾はいつも賑わっていたが、日本画壇から離れた耕園の塾では帝展に入選できないので、基本を習ったら出奔する弟子もいたという。大正12年(1923年)大阪市美術協会が設立されると、中川和堂、矢野橋村、水野竹圃、菅楯彦らと創立委員に任命されるなど、大阪画壇の長老として活躍した。生涯を通じて茶道を趣味にしていたが、晩年は特に親しみ、表千家の茶会に参加、お茶道具としての掛物を多く描いた。
《参考》第45回中之島まつり(第14回中之島映画祭)
2016年(平成28)5月3日4日5日
★「庭山耕園展」NPO法人Eミュージアム大阪/於:中央公会堂2F会議室
http://www.nakanoshima.net/ago/45guide/45_06eiga.html
この法人は、京阪神近代美術作品を調査・研究し、その成果を一般社会に対し多く知らせるべく普及活動する。それにより近代美術の価値が一般社会で再認識されることに寄与することを目的とする。
https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/114020104
代表:小坂田和男590-0079堺市堺区新町5-4
/072-222-3330関和男司法書士事務所(オフィスせき)
・・・「Eミュージアム大阪」を検索しているのですが、ほとんど情報がヒットしません。活動を休止されているのでしょうか?