浪華画学校(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「庭山耕園」のつづき。ちょっと古い情報ですが、ここでも「花外楼」さんの登場です。 

 

《大阪商業大学商業史博物館》 

平成25年度秋季企画展「★花外楼―老舗料亭の一品―」 

平成25年10月9日(水)~11月30日(土) 

http://ouc.daishodai.ac.jp/museum/topics/2013/09/%EF%BD%8B%EF%BD%81%EF%BD%87%EF%BD%81%EF%BD%89%EF%BD%92%EF%BD%8F%EF%BD%95.html

大阪商人の信用と伝統として「のれん」の重みを再考することは、本学にとって温故知新につながる新たな研究の第一歩となるだろう。こうした観点に立ち、大阪で百年以上続く老舗企業の連続講座とともに、受け継がれた一品(書画)により老舗が有する文化的側面を紹介する。あわせて開催されるシンポジウムでは老舗の魅力だけではなく、今日的な課題を提示することにもなるだろう。展覧会では、老舗料亭「花外楼」の調度品のなかから、同店ゆかりの維新元勲の書や、床の間を彩ってきた大阪画壇の作品を展示し、料亭が歴史の行方を定める会議の場として、あるいは地域の美術館的役割を果たしたことを紹介したい。 

主な展示作品:元勲の書(木戸孝允・伊藤博文・井上馨他)、大阪画壇(菅楯彦★森 琴石・深田直城・武部白鳳・★庭山耕園他)、花外楼の献立帖 

 

・・・展覧会冊子・庭山耕園の解説部分には「★大阪画学校の開設に尽力」と書かれています。

 

 

《NEWS》「花外楼歴史ミュージアム」 

https://kinran.jp/kokoni/kagairou/kagairou2.html

2006年9月9日、大阪の有名料亭花外楼が創業以来★初めて一般公開され、同料亭が持つ書画、絵画100点余りが展示されました。所蔵品の公開は約20年ぶり、大阪画壇の作品を披露する場としての役割も担ってこられたようです。 

●2006.9.6四国新聞より 

明治元勲の書画を一般公開/大阪の料亭が1日限りで 

大久保利通や木戸孝允らが立憲政治への移行を話し合った「大阪会議」の舞台として知られる老舗料亭「花外楼」(大阪市中央区)が9日、所蔵する幕末から昭和にかけて活躍した政治家らの書画など約100点を初めて一般公開する。料亭は江戸時代末期に「加賀伊」として創業。1875(明治8)年に、対立していた大久保と木戸、板垣退助らが会談し、立憲国家への道筋をつけた大阪会議が開かれ、その後も政官財界の有力者らが利用した。展示されるのは、会議の仲介役となった伊藤博文の手紙の下書きや、会議の成功を祝って木戸が名付けた「花外楼」の額のほか、井上馨、後藤新平、吉田茂ら花外楼ゆかりの人物の書画や大阪で活躍した画家の作品。公開は9日のみで午前11時―午後7時まで。無料。 

●2006.9.2日本経済新聞より 

大阪・北浜の老舗料亭「花外楼」が所蔵する木戸孝允ら明治の元勲の書画や★庭山耕園らの絵画などが9日、創業170年余りの歴史で初めて一般公開される。同店は木戸や大久保利通らが立憲政体への移行を話し合った「大阪会議」の開催場所として知られる。「大阪の歴史紹介の一助になれば」とこの日だけに限って無料展覧会を企画したという。展示品は幕末から昭和にかけての書画約100点。内容は2つに大別され、1つは木戸や伊藤博文、井上馨、高橋是清や吉田茂ら明治・大正・昭和期の政治家の書画。もう1つは四条派の流れをくむ★庭山耕園、菅楯彦ら大阪画壇の絵画など。ほとんどが同店をなじみにした本人から寄贈された。 

※所蔵作品 

深田直城「魚介図武部白鳳「三舟蛤網闘魚図」中川和堂「天神祭舟渡御図」菅楯彦「澱江納涼」竹内栖鳳「柳鷺」川邊青蘭「春緑松竹梅山水図」上島鳳山「春雨図」富岡鉄齋・大田垣蓮月「梅と和歌」久保田桃水「秋原飛雁図」★庭山耕園「朝顔」「橙群目白図」「白甘鯛図」「朝顔」松村景文「蛭子笹之図」森琴石「六石山旁図」「花弁図」武部白鳳「真鯛図」菅楯彦「団爐談古」「夏夜店」下村観山「寿星」谷文晁「恵比寿天」渡辺祥益「舞子浜」 

(茶道具)昭斎★庭山耕園「御帛紗(ふくさ)」★庭山耕園「桐生地秋草図棗(なつめ)」 

 

・・・「花外楼」さんは、大阪画壇のサロンとして重要な役割を担ってこられたわけです。庭山耕園の「朝顔」が素敵です。

 

 

《なにわの絵描き「庭山耕園」季節のある空間》著:関和男/創樹社美術出版2014 

大阪の日常生活に彩を添えた画家「庭山耕園」まだ、大阪に市電が走っていたころ、庶民のハレの日を彩っていたものは、座敷の床の間に飾られた浪速の絵描きたちによる掛け軸だった。本書では、生涯を「船場の絵描き」として過ごし、優れた作品を遺した庭山耕園の作品を取り上げます。加えて、日本料理を含めた「床の間文化」をバーチャルリアリティで再現。耕園の作品が現代に通ずる美であることを再認識します。 

 

《参考》庭山慶一郎(1917~2012) 

日本の元実業家。茶道家。中国古典研究家。文人。 

1917大阪船場に生れる(庭山耕園の長男)。旧制浪速高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。1941大蔵省入省、銀行局検査部長、日銀政策委員などを歴任。1957~91明治大学法学部講師(祖税法)、1967~71中小企業金融公庫理事。1971~1992日本住宅金融社長。経営者時代は「ミスター住専」と称された。日本銀行政策委員を務める国内証券市場に公社債投資信託を導入した。2012年12月7日、誤嚥性肺炎のために死去(95歳)。

 

 

《参考》「日本住宅金融株式会社」 

1971年6月23日に設立された住宅金融専門の会社(住専)である。初代社長★庭山慶一郎。当初は創業者庭山と三和銀行系金融のJCBを母体として主に個人向け住宅融資を行っていたが、バブル景気による各銀行の個人向け住宅ローン市場参入を受けて住専各社は不動産担保ローンへ融資先を変更した。景気後退後に高リスクな法人向け不動産担保融資の多くが回収不能に陥り、★庭山は辞任して私財提供し、後継は元大蔵省中国財務局長で日本たばこ産業監事の岡島和男が会長、三和銀行の丹羽進が社長にそれぞれ就いた。1993年に大蔵省銀行局長が、「金融システム維持」のために農林水産省、大口貸付先の農林中央金庫、三和銀行など母体行9行と金利減免などの調整を始めるも、農林中金を監督する農水省が軽減後金利は4.5パーセントまでとして銀行局案を拒否し、母体九行の調整役である三和銀行へ調整の重心を移した。資金返済猶予と母体行の金利一律ゼロとする銀行局案で破綻は免れるも、1994年7月に当時の銀行局長だった西村吉正が社長に就任以降、信用組合各社や兵庫銀行など中小金融機関も含めて住専各社の破綻処理が急がれ、住専国会を経て住専法に基づく破綻に至る。 

 

●著書 

1980「原爆の記-広島財務局原爆被災者の記録」編:庭山慶一郎/大蔵財務協会 

中国地方総監府では、「ほとんど連日のように開かれた在広各官衙の連絡会議をリードしたのは軍人であった。出席者の半数は軍人であり、そこでの話題は、南方におけ る戦況報告、輸送の問題、軍需品生産の問題が主なるもので、満州から運び出した大豆やトウモロコシが、山陰方面に山積しているのを、どうして山陽方面に運ぶかとか 、九州炭を運びたいのだが、貨車が不足しているので、どうするかとか、松根油の生 産を如何にすれば、能率的にやれるかとか、今になって考えると、まさに戦争の末期的症状をあらわすような問題ばかりであった (当時広島財務局関税部長★庭山慶一郎手記 )。」 

1980「自己責任の論理―一般消費税より行政改革を」著:庭山慶一郎/税務経理協会 

1985「論語経営論」著:庭山慶一郎/未来社 

1988「庭山耕園―作品と素描―」243-253★「父を語る」著:庭山慶一郎/大塚巧藝社2008「燃える魂の告白-懐旧九十年」著:庭山慶一郎/毎日新聞社 

2010「珠玉のことば―論語から赤壁之賦まで」著:庭山慶一郎/河原書店 

税、相続税に関する著書多数あり。 

 

・・・「庭山耕園―作品と素描―」に収められている、「父を語る」をぜひ読んでみたいものです。

 

 

●「挿絵画家・武部本一郎の生涯」文:大橋博之(日本出版美術研究家)より 

http://www.princess.ne.jp/~erb/sashiegaka.html

http://www.princess.ne.jp/~erb/essey-ohashi-01.html

武部藤太郎(明治四年六月九日~昭和二年十一月十三日)は、武部安兵衛とタワの次男として生まれた。厳父の気質を受け継ぎ、幼少より画を好んだ。浮世絵を学んでいたが、明治十七年に★浪華畫學校に入学した。藤太郎はここで★西山完瑛(天保五年四月~明治三十年八月十二日)と出会い、日本画家へと転化した。浪華畫學校のことは『大阪文化史研究』(編:魚澄惣五郎/星野書店/昭和十八年六月五日)★「浪華畫學校の顛末(木村武夫)」が詳しい。浪華畫學校は明治十七年七月、大阪市東区道修町に設立された私立の畫學校だった。校主は樋口三郎兵衛(文久三年十月二十七日~昭和八年八月二十二日)。明治十三年頃に魁新聞を、ついで樋口銀行を設立するほどの資産家だった。明治十三年七月には京都府立画学校(現在の京都市立芸術大学)が、明治二十年十月四日には東京美術学校(現在の東京芸術大学)が設立されている。西洋文化が日本に流れ込む中、日本の伝統的な美術の育成を目的として資財を投げ打って誕生させた。当初、教師として狩野派の狩野永祥(文化八年一月~明治十九年一月十七日)があたっていたが、体調が思わしくなかったらしく、代わって★西山完瑛がその任についた。西山完瑛は父の西山芳園を師とする日本画家である。後藤松陰に儒学を学び、播磨明石藩に仕えた。写生の奥義を究め、父同様に人物や花鳥画を得意とした。大阪画壇で活躍し、後進の育成にも務めた。門下に望月金鳳、久保田桃水らがいる。浪華畫學校は明治二十五年に閉校されたが、藤太郎と西山完瑛の師弟関係はその後も続き、明治二十六年に完瑛から「白鳳」の号を授かることになる(武部本一郎の年譜に「武部白鳳は四条派の画家(幸野楳嶺門下)」とあるがこれは間違い)。師を慕う白鳳は完瑛の没後も回顧展を何度か開催している。

 

 

【大橋博之】(1959~) 

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/141001.shtml

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/141201.shtml

フリーライター、編集者。大阪府出身。日本SF作家クラブ・会員、日本古典SF研究会・会員、日本ジュール・ヴェルヌ研究会・会員。デザイン学校を卒業後、雑誌『アニメージュ』(徳間書店)でライターとしてスタート。その後、電機メーカーの関連会社に勤務。ビジネスツールや企業のWEBサイトの制作にかかわる。勤務のかたわら、個人で執筆、編集活動を開始。ジュブナイルSF、SF挿絵画家の研究・執筆・編集で知られる。 著書に 『SF挿絵画家の時代』(本の雑誌社)、編著に 『日本万国博覧会 パビリオン制服図鑑 』(河出書房新社)がある。『柳柊二怪奇画帖』 『金森達SFアート原画集』 『武部本一郎少年SF挿絵原画集』 (ラピュータ) 等を編集。 

 

・・・「庭山耕園」について、大橋博之さんは「代わって★西山完瑛がその任についた」、増田洋さんは「新しく★庭山耕園が加わっています」、ウィキには「樋口三郎兵衛の後援を受け、★大阪画学校を作り、その助教となる」と3通りの記述があります。「浪華画学校」は1884年(明治17)~1888年(21)、「浪華学画会」は森琴石が発起し「絵画共進会」を1890年(明治23)9月1日から★「大阪府立博物場」で開催しています。「大阪画学校」は★宮崎銕幹を校主として1890年(明治23)東区横堀1丁目20番屋敷とありましたので、、「浪華画学校」の後に「大阪画学校」ができたということになります。 

 

・・・宮崎さんについては、ほとんど資料が見つかりませんでした。

 

【宮崎銕幹】前:東区長???

1879年(明治12)郡区町村編制法施行により、第1大区が東区となる。区役所を備後町2丁目に設置。 

1880年(明治13)区役所を淡路町1丁目に移転。 

1886年(明治19)区役所を高麗橋1丁目に移転。 

1889年(明治22)市制施行により、大阪市の行政区へ移行。 

1897年(明治30)大阪市第1次市域拡張により、東成郡玉造町・清堀村・東平野町・西高津村の全域と中本村の猫間川以西・鶴橋村の大阪鉄道(現在の大阪環状線)以西を東区へ編入。 

1901年(明治34)区役所を本町1丁目に移転。 

1925年(大正14)上記のうち旧東平野町・西高津村域を天王寺区へ分区。 

1943年(昭和18)旭区より鴫野町の城東線(現在の大阪環状線)以西を編入し、城東線以東を城東区・東成区へ、末吉橋通以南を天王寺区へ移譲。 

1989年(平成元)南区と統合され、中央区となる。