森琴石(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【梶木源次郎】(1812~1893) 

https://www.morikinseki.com/kinseki/morike.htm

江戸後期の天保大飢饉の際、町民救済に活躍して極楽寺前の鍋屋多衛門碑にその名を残す「中の坊初代」梶木源次郎の三男として、★森琴石は生まれました。25歳の梶木源次郎は町の志操高潔な長老達の薫陶を受けつつ、行司、年寄、庄屋職(現在でいう議員、議長、町長)等の役職を歴任し、明治5年には初代戸長(町長)に就任しました。梶木源冶郎が中の坊旅館(瑞苑及び有馬グランドホテル)を継承したのは明治初年頃とみられていますが、正確な時期は不明です。

 

 

《中の坊瑞苑》 

651-1401神戸市北区有馬町808/078-904-0787 

https://www.zuien.jp/

 

《有馬グランドホテル》 

651-1401 神戸市北区有馬町1304-1/078-904-0181 

https://www.arima-gh.jp/index.html

 

★期間限定「森琴石のお軸鑑賞」 

2016年9月2日(金)~10月31日(月)於:茶室「雅中庵」 

 

 

梶木家は、もとの屋号を平野屋といい(現在の太閤通りにある土産物屋の平野屋とは無関係)書筆用の墨を製造販売しながら小宿を経営していた。あるいは、1815年出版の地誌(ガイドブック)「有馬温泉記」には著者名梶木敬勝で六甲山陰樵夫とあだ名していることから炭の燃料商も手がけていたかも知れない。1191年仁西上人が奈良の吉野より木地師らの供を連れて、荒れ果てた有馬に温泉寺を中心とする門前町を開いたのが、現在に連なる「坊」の付く旅館の始まりである。薬師如来の脇侍の十二神将にちなんで当初は十二件あったといわれるお寺の宿坊であった。中の坊はそのうちの一軒であるから歴史はゆうに800年を超えるのである。古くは、血縁不明であるが1701年に梶木九右衛門が温泉寺に青銅製の飯台を寄進したという記録が残されており、湯泉神社の境内には1717年に願主「中の坊留平」「平野屋知賢」と連名で記された灯篭があって、かなり古くから新旧の中の坊が親密な関係であった事がうかがい知れる。炭酸泉源公園源には梶木源冶郎(氏は明治に入ってから名前を源次郎から源冶郎に改めている)氏の顕彰碑が建っている。江戸時代の様々な制約から解き放たれた明治になって氏がまず取り組んだのは宝塚や神戸から、そして六甲超えの有馬へ通じる道の改修であった。またそれまで杉ヶ谷に湧く毒水と恐れられていた冷泉を、内務省の検定を経て炭酸サイダーとして売り出したのも氏である。さらに湯泉神社の遷座(それまでは階段下の温泉寺前にあった)や天神社の再建をし、地租改正に取り組むとともに、いち早く小学校を制定し学費を納められずに就学できない子供たちにも機会を与えたりした。まさに新しい時代へ向けて大車輪の活躍をみせたのはこの頃である。明治10年及び12年と三男★森琴石の装丁によるガイドブック「有馬温冷両泉分析表」を発行している。その末尾には今の角の坊あたりの位置に「平野屋」という屋号ではなく「製墨所梶木」と記された当時の地図を載せている。明治17年家督を長男源之助に相続して身を引いたが、同年、源之助は東京向島の秋葉神社の境内に千坪の敷地を使って「東京向島有馬温泉」を開設している。その際の屋号は「中の坊梶木源之助商店」であった。明治25年80歳で他界。天保の大飢饉以来低迷する経済状況の悪化に庶民の生活は貧困を余儀なくされていたが、明治27年頃から回復の兆しが見えて来たという事を考慮したら、氏の人生は二十歳以降はすべて不況の中で過ごしていたという事になる。今の株式会社中の坊の社訓の冒頭に「世のためになろう」と一行の言葉を残しているが、その利他の精神こそ、かの天保の大飢饉で地獄を見たであろう彼の生涯を貫いた人生訓であったと言えるだろう。

 

 

・・・ちょっと寄り道、 

 

《参考》「有馬人形筆」のからくりの秘密 

http://www.ryuusenkaku.jp/navi/arimafude.html

 

 

《NEWS》「温泉街火災から14カ月」/2018.1.12毎日新聞より 

神戸市北区の有馬温泉街で2016年に起きた火災で、延焼の被害を受けた兵庫県指定伝統的工芸品「有馬人形筆」の唯一の工房兼店舗「灰吹屋(はいふきや)西田筆店」が12日、跡地での再建を果たした。7代目の西田健一郎さん(71)は「先祖が守り継いできた人形筆をよみがえらせ、皆さんの温かい思いに応えたい」と話している。人形筆は、筆先を下に向けると、筆尻から人形が飛び出す仕掛けで、室町時代が起源とされる。筆の軸には色鮮やかな絹糸が巻かれ、有馬の名産品として知られる。作り手が途絶えた時期もあったが、西田さんの祖父が戦後、5代目として復活させた。その後は母光子さん(16年2月死去)が6代目となり、西田さんと妻明子さん(72)ら家族、近隣の女性たちの内職と分業で作り継がれてきた。ところが16年11月11日未明、火災が発生。火元の民家や西田筆店など4軒、約600平方メートルが焼失した。代々の家と店を失った西田さんは「再開の気持ちはあっても、体が動かなかった」と当時のショックを振り返る。それでも、温泉街の旅館経営者らが跡地に計画してくれた共同店舗の建設工事が昨夏に始まると、背中を押されるように道具を改めて買いそろえた。昨年12月には、郷土玩具「神戸人形」を再興させた吉田太郎さん(48)から、人形筆をあしらった神戸人形を贈られ、心が奮い立った。西田さんは「温泉街の仲間や吉田さんの励ましでこの日を迎えることができた。吉田さんが神戸人形を復活させたように、人形筆も次世代に残していきたい」と意気込んでいる。

 

・・・初めて有馬温泉に行ったとき、最初にお土産として購入したのが「有馬人形筆」でした。今でも大切にしています。(人形部分が壊れて動かなくなっていますが) 

 

 

【森琴石】(1843~1921) 

https://www。morikinseki。com/

「森琴石ホームページ」は、森琴石のひ孫である森隆太、満代ご夫妻が作られており、歴史的資料価値の高さには瞠目すべきものがある。有馬には著名人が多数来たが、有馬出身の有名人は少ない。その中の一人が森琴石であり、中の坊(現:中の坊瑞苑、有馬グランドホテル)の家系から輩出している。中の坊初代★梶木源次郎の三男として生まれ、父譲りの誠実で清廉高潔な人柄は周囲の信頼を集めていた。 

明治期の大阪で、銅版画・南画の両分野で活躍した偉大な画家です。初号を蘆橋(ろきょう)と名付け、途中、金石から琴石(きんせき)と改めました。字(あざな)は吉夢(きちむ)と言います。栞石(きんせき)・鉄橋(てっきょう)・雲根館(うんこんかん)等も号し、画室を聴香読画廬(ちょうこうどくがろ)と名付けました。大阪には、岡田米山人や木村蒹葭堂という偉大な文人がいましたが、琴石はこれら江戸時代大阪の文人画の流れを明治へと引き継ぎました。明治16年、森琴石は全国絵画品評会を発起。翌17年には、樋口三郎兵衛が道修町の自宅を開放し、大阪で初めて作られた画学校★「浪華画学校」で支那画(中国画)の講師を務める等、画家の育成に努め、大阪での近代美術教育の先駆者でした。

 

http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000000865.html

明治33年頃から亡くなる大正10年(1921)まで大阪市北区北野高垣町2434番地 (現:北区堂山町)に住んでおられました。