勧工場 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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1880年5月4日~1889年3月16日「五代府知事◆建野郷三(豊前国)」 

豊前国京都郡延永村(現:行橋市延永)に生まれる。小倉藩士・建野建三の養子となり「郷三」と改名。第二次長州征討において長州藩との戦いに従軍した。明治3年(1870)イギリスに留学し法律学を学んだ。 約9年間在任、在任中に大阪府と堺県の合併を実現させた。1889年(明治22)3月16日、元老院議官に就任。 

 

1880(明治13)7月★「府立勧工場」併合、★「綿糖共進会」開催。 

 

・・・正直驚いています。こんなにも「勧工場」等についての、資料や写真が紹介されているなんて、今の今まで知らなかったことが恥ずかしいくらいです。紹介した画像等は順不同、悪しからず。

 

 

《府立勧工場》明治11年8月開設(江戸堀南通3丁目)~明治13年6月 

明治政府は富国強兵を目指し殖産興業政策を推し進め、その大きな柱として博覧会事業(万国博覧会・内国勧業博覧会・共進会)を行った。勧工場として最初のものは、東京府が明治十一年一月に設立した府営の共同店舗である。明治十年の第一回内国勧業博覧会の売れ残り品を、東京府が麹町辰ノ口評定所跡で展示販売したのがこの勧工場物品陳列所である。ここにも玩具売り場が設けられていたという記録がある。明治12年には大阪にも★府立勧工場(江戸堀南通り)が出来たが、これは翌13年大阪博物場に吸収された。東京麹町の勧工場は明治十三年に民営化され、その後多くの民間勧工場(関西では勧商場とも云った)が東京だけでなく日本各地に設立された。明治十三年の三重県山田、明治十四年の京橋銀座の商盛社、浅草千束の勧業場、仙台東一番町、明治十五年には東京ではさらに増えて計十三、さらに横浜伊勢佐木町、函館恵比須町、広島中島集散所、明治十七年大阪心斎橋の★浦山勧商場、明治十八年札幌狸小路、明治十九年青森浜町などの勧工場が民営で古いものである。銀座京橋勧工場には洋品店・小間物店・袋物店・玩具店が出品していた。一般に勧工場は、小売商店の集合施設であり、今でいうショッピングモールのようなものであった。ここでは青果、なま物以外の出店は許されたようである。形態は、後に出現する百貨店に近い三階建て以上のものから、通り抜けの商店街程度のものまでさまざまであった。 

 

《一橋大学「経済研究」第39巻No. 4》 

殖産興業政策としての博覧会★共進会の意義--その普及促進機能の評価/文:清川雪彦1988 

http://www.ier.hit-u.ac.jp/Japanese/publication/ER/contents.php?vol=39

博覧会の経済的意義は、万国博を体験した佐野常民や田中芳夫・大久保利通らをはじめ、多くの政府首脳により十分熟知されていたがゆえ、政府は直ちに博覧会を殖産興業政策の基本的柱の1つとして採用するに到ったといえる。つまり博覧会は、あくまでも勧業のための博覧会であり、経済博覧会であったのである。そのことは、来観者に対する注意事項においてもよく表われており、博覧会は「戯玩ノ揚ヲ設ケテ游覧ノ具」とするためではなく、観る者は製造の巧拙や性能の良否、価格の高低等々によく注意し、展示品を比較観察すべきであるとまでいっている。(中略)他方、勧農局長の松方JE義は、明治12(1879)年パリの万国博を視察した際 フランスの農産競争会(コンタ一ル)制度に深く感銘をうけ、帰国後直ちに我国でも同様な共進会制度を敷設するに到った6)。そして今我々は、その濫筋を明治12年横浜に開設された製茶共進会ならびに生糸繭共進会に見ることが出来る。また翌13年には、大阪で綿糖共進会が開かれ、ここに2大輸出品たる生糸と茶、ならびに2大輸入品の棉花と砂糖の全国的規模の審査品評会がもたれたのであった。なお製茶および生糸繭の共進会では、短時日の準備期間にも拘らず、全国の40県近くからそれぞれ約1千名前後の出品(会期は各1ヶ月)が、また綿糖共進会でも、ほぼ全国の各府県から7干鱈を超える出品者(会期50日)をみている。あえていえば、博覧会が先端的な商品や高級品の展示・観覧(通常有料)にや㌧力点を置いていたのに対し、共進会の丁合には、参加草間の競争や褒賞・出品物の販売等により大きな主眼があワたともいえる。従って褒賞品も、博覧会では賞杯や褒状のみであったのに対し、共進会の揚合には現金や物品が与えられるのが常であった。

 

 

《勧工場考「 明治のショッピングセンター」》著:田中政治 1992 

 

《百貨店の誕生-都市文化の近代》著:初田亨/三省堂1993 

https://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~hori/books/1999_9.html

目次 第1章 勧工場の設立 第2章 繁華街に出た勧工場 第3章 呉服店から百貨店 第4章 新しい観客の開拓 第5章 遊覧場になった百貨店 第6章 家庭生活の演出 第7章 新中間層と都市文化 第8章 勧工場と百貨店の時代 解説『百貨店の誕生』とデパート研究の現在(吉見俊哉) 

勧工場(かんこうば・かんこば)は「明治期に数多く設立された独特の形式をもつ店舗の一つ」であり、「商品を陳列して販売する方式や、土足のまま店舗内入る方式や、土足のまま店舗内に入る方式を採用するなど、いち速(ママ)く近代的な店舗形式をとった存在として注目されると同時に、多くの人びとから親しまれ、都市住民の生活に潤いを与えてきた」。明治14年から勧工場はつくられ明治35年12月には27あったが、徐々に減っていき、大正3年には5工場になっている。この勧工場と入れ替わりに伸びてきたのが百貨店である。★「百貨店」という語が最初から使われていたのではなく、明治43年4月の三越呉服店の広告に「デパートメント、ストア」という語が使われていることを実際の広告から示している。建築史が専門の著者は建築関係の資料やPR誌その他を使い、百貨店施設の増加を振り返り、百貨店の機能について考察している。多くの機能をまとめると★「遊覧」性にある。これは勧工場にあった。つまり、勧工場の遊覧性を百貨店が引き継いでいるのである。遊覧性は百貨店だけでなく、「日比谷公園→松本楼」などすでにあった遊覧と関連して展開していることを指摘してる。 

 

《勧工場の研究―明治文化とのかかわり》著:鈴木英雄/創英社2001 

 

・・・ショッピングモールや百貨店の前身が「勧工場・勧商場・勧業場」だったんですね。★商業革命と言われるほど「一世風靡」したようです。

 

 

《参考1》沢井鈴一「名古屋広小路ものがたり」買うか、買うまいか勧工場 

http://network2010.org/article/1110

 

《参考2》「横濱界隈通信」より 

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?m=20140922

「勧工場」誕生のイキサツは、東京府が上野で開催した第一回内国勧業博覧会で売れ残った商品をまとめて“在庫一生処分”するために繁華街の一角に“店舗”を開いたものです。ところが意外と好調に売り上げを伸ばし、流行の商品が購入できるということで、いわゆる「百貨店」の前身として全国各地に登場します。1880年(明治13年)には公営から民営となり明治20年代から30年代に最盛期を迎えます。地域によっては「勧業場」「勧商場」とも呼ばれました。「勧工場(かんこうば)」の話題性は、
江戸時代のスタンダードモデルだった“座売り”に代っで商品を並べて販売する“陳列販売”を採用。同一価格で販売したことが商業革命を起こします。現在では当たり前の土足で店舗内に自由に出入りすることも「勧工場」が先駆けでした。 

★夏目漱石は「門」で「そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐ふところに多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆かり去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒る程度内に膨んでいるので、億劫な工夫を凝よりも、懐手をして、ぶらりと家うちへ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋さびしみは単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。」と豪遊したいが見るだけしかできない“勧工場”を描いています。この他「虞美人草」「それから」等でも勧工場が登場します。 

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/785_14971.html

また ★永井荷風は「あめりか物語」でDepartment storeを「勧工場」と訳した最初といわれています。その他高浜虚子、国木田独歩、尾崎紅葉らがエッセイや日記に「勧工場」を描くほど当時の日常風景だったといえるでしょう。 

勧工場出口になりぬ夏の月  籾山柑子 

勧工場目をひく物のかずかずを並べて見する故に喜ぶ 石川啄木 

新しきにほいなによりいとかなし勧工場のぞく五月のこころ 北原白秋 

★島崎藤村の短編小説に横浜の勧工場が登場します。「雑貨店」で「横浜伊勢佐木町の繁華な通りにある高橋雑貨店は、正札付きの日用品を置き並べて、いっさい掛け値なしに売るという便利な店である。この店がかりは高橋となる前の店主の意匠で、以前にもかなり繁盛したものであったが、ふとしたことから貸金の抵当として日本橋富沢町にある木綿問屋の大将の手にはいった。それを高橋のだんなが引き受けて、新たに店開きをしたのである。(中略)この雑貨店は、言わば小さい勧工場のような見世がかりで、是程の人手があってもまだ不足を感じた位である。」と描きました。
作家・島崎藤村は実際に伊勢佐木にあった雑貨店「まからずや」を手伝っていた時期があり、前述の一文はその頃の体験をモチーフにしたものです。

 

 

・・・小説に多く登場するぐらい、庶民の関心事だったんですね。 

 

1881(明治14)「府立教育博物館」併合、産業見本市、図書館、博物館、美術館、動物園、植物園、舞台、公園などをミックスした★総合産業文化施設となる。 

1883(明治16)「関西府県連合共進会」開催。 

1884(明治17)「大阪府立博物場」となる。「動物檻」設置、11月「絵画品評会(★森琴石ら)」開催。

 

 

・・・「大阪博物場」は、想像を超えた「総合産業文化施設」として膨れ上がっていったようです。私の方は、読みたい本・読まねばならない本が膨れ上がっています、とほほ。