教育博物館 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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1875(明治8)11月「大阪博物場」(内務省管轄)開場。 

 

・・・「博物場」は内務省管轄でスタート、初代「場長」は未だ確認できていませんが、「内務省管轄」について調べていると、黄貞燕さんの素晴らしい論文に出合いました。 

 

【黄貞燕】 

http://gims.tnua.edu.tw/tnua_ims/catalog_tabs/catalog_tabs/data/tnua_ims/tw/full-time_teachers/128

https://sites.google.com/site/culturalgovernance/mainpage/wu-yue-chu-chang-ci-lun-tan/huang-zhen-yan-jian-jie

2012 日本國立民族學博物館外國研究員 

2010-2012 文化資產總處籌備處第二屆保存技術及其保存者審議委員會委員 

2009-2011 《博聞 eMnews(電子期刊)第5-10期總編輯 

2009-2010 高雄市立歷史博物館第四屆諮詢委員 

2007-2008 國立臺灣藝術大學藝術管理與文化政策研究所兼任★助理教授 

http://acpm.ntua.edu.tw/main.php

2007 桃園縣政府地方文化館輔導委員會委員 

2005  日本法政大學生涯規劃學部客座研究員 

2004 日本滋賀縣立琵琶湖博物館特別研究員 

2000-2005 日本國立★京都工藝纖維大學學術博士 

《参考》「助理教授」 

日本の大学設置基準における助教授は2007年(平成19年)3月31日をもって★廃止された。以前の助教授は、現在は准教授 (Associate Professor) に対応する。しかし世界的に見て米国や中国を始めとしたアジア諸国、またヨーロッパやアフリカ諸国においても依然として助教授 (Assistant Professor) は教授職の一つとして存在している。 一般に独立した研究グループを持つ自立した教授職の一つと見なされるが、日本の助教授(現在の准教授)は教授の下に付くケースが大半を占める。助教(Research associate) と助教授 (Assistant Professor) の違いは教授職であるのか無いのかの違いが大きい。台湾では「助教 (Executive Officer)」が事務行政を担当する職員相当で、教員として教育研究に携わるのは講師(Lecturer)、★助理教授(Assistant Professor)、副教授 (Associate Professor)、教授 (Professor) の4つの職位がある。

 

 

・・・外国の研究者の視点(協力)があり、これまで以上に日本の伝統や文化の研究が深まることは、とても喜ばしいことです。それこそ、国際社会の常識です。 

 

《参考》2003「日本における官主導による博物館政策に関する一考察」 

/文:京都工芸繊維大学大学院・黄貞燕  

●明治政府が初めて明確な方針を掲げて設置・発展を進めた博物館は、内務省の博物館(明治8-14年、1875-1881)と文部省の教育博物館(明治8-22年、1875-1889)である。しかし、従来の博物館史において、これらの両博物館はそれぞれ★「勧業系」と★「教育系」という二つの系統として別々に分類・記述されており、また明治初期における国家の博物館政策に関する論述は、内務省の博物館に集中している傾向がある。 

●内務省の博物館は、明治8年に内務省の所属となる前に、その所管は文部省の博物局及び太政官正院に開いた博覧会事務局といった二つの段階がある。明治4年、文部省に博物局が設置され、湯島聖堂の大成殿は博物局の展観場として文部省の博物館となった。これが明治国家の博物館事業の★出発点である。 

●文部省博物局は、博物館を発展させていく基本構想としての「博物学之所務」を明治5年に上申し、文部卿の裁決を得た。「博物学之所務」では、博物局の管理の下に 「博物館」「博物園」「書籍館」という★三種の施設を統括している。「博物館」は天造物と人工物を収集・陳列するところで、「博物園」は動植物に関して学ぶところ、そして、「書籍館」は今日の図書館に当たるものである。つまり、この構想は博物学を中核としており、新しい西欧の知識を整理しながら、品物の展示と図書の刊行と閲覧という機能を含めた三つの施設を活動させていくものであった。この構想は、明治5年文部卿の裁決を得て「博物局博物館博物園書籍館建設案」となった。この案 により、博物局は同年、書籍館を開館し、植物園及び動物園の開設の準備をも進め始めた。 

●明治5年、ウィーン万国博覧会への参加のため、太政官正院に一時的な専務機関として★博覧会事務局が開かれた。翌年、各地産物の調査・収集といった事業面の他に、人事面もほぼ共通するという理由で、文部省博物局及び所属の博物館、書籍館は、博覧会事務局に合併・移転することとなり、博覧会事務局の陳列場として、山下門内博物館が設置された。万国博覧会の準備を進めながら、博物館を充実させようとするこの段階の措置は、行政上の利便により決められたようである。しかし、これは明治国家の博物館構想を大きく転換 させた出来事となった。博覧会事務局が発足すると、理事官の★佐野常民(1822-1902)は、太政官に対して近代産業技術の学習や貿易の振興な どを主旨に、万国博覧会への参加目的を五つ挙げて提出した。 

 

【佐野常民】記念館(★三重津海軍所跡) 

http://mietsu-sekaiisan.jp/

840-2202佐賀県佐賀市川副町大字早津江津446-1/0952-34-9455 

http://www.saganet.ne.jp/tunetami/

 

 

●博物館に関しては、以下のような構想がその中で言及されている。それは、この博覧会の参加を契機として大博物館を設置し、国内の近代産業を育成するために、将来国内において博覧会を開くことを目標とするものであった。即ち、博物館と博覧会とは主旨において異なることがなく、博覧会は博物館を一時拡充するものであり、博物館は博覧会開催の基礎を固める機構として位置づけられている。こうした佐野の論理は、国の博物館政策としての★「殖産興業」路線を提示したものとなる。佐野常民は、幕末から明治初期にわたって国の工業技術の発達に深く関わっている人物である。佐野が提起した殖産興業路線に沿う博物館の建設方針は、当時の実権者である内務省卿の★大久保利通に認められた。明治8年には、大久保の名でほぼ佐野の報告書と同文である 博物館之義」が太政官あてに上申された。ただし、現実に実施困難な事晴がある点や、一度に実施することが難しい点があるので、この上申の中では、博物館に技術伝習場を設ける点と、博物館の支館と伝習場の支場を全国に設ける点は、削除された。大久保の「博物館之義」に基づき、博覧会事務局及び山下門内博物館は、当時国の殖産興業を主導する内務省へ移管された。博物館の★内務省時代の始まりである。 

 

・・・ここにも「大久保利通」が出てきました。 

 

●この移管に関して、文部省博物局時代から博覧会事務局の時代まで博物館の実務を担当してた二人のキーパーソン★町田久成(1838-1897)と★田中芳男(1838-1916)の動向は興味深いものである。文部省博物局と博物館等が博覧会事務局に合併した年の翌年、明治7年、文部省★田中不二麿(1845-1909)は、「生徒教育之需用」という点から両者の分離要求を提出した。そして明治8年、博覧会事務局及び山下門内博物館は内務省勧業寮の所属となり、同年、博覧会事務局に合併されていた元の文部省博物館など諸施設は文部省に返還された。この時点において、町田久成と田中芳男は、教育と学術性を強調する文部省へ行くか、殖産興業路線を標榜した内務省へ行くか、という選択に直面したことが考えられる。結果として、二人は文部省に復帰せず、博覧会事務局が内務省へ合併されたとともに内務省の職員となり、内務省の博物館に勤めることになった。文部省の博物館の設立は、主に文部省における行政の最高責任者であった田中不二麿により主導されたのである。明治9年、田中不二麿が太政大臣にあてた新しい博物館の計画書には稙物標本や理化学用器械などの高等教育に必要となる用品を収集・展示すると記されており、学術的な博物館像が見られる。しかし、翌年、田中不二麿がフィラデルフィア万国帰国後、博物館の建設の方針は、もっぱら学校づくりに必要な物品の収集・展示をするように改定されて太政官正院に博物館の改称届けを出し、「教育博物館」という館名をつけることとなった。つまり、文部省が改めて建設しようとする博物館が、高等教育の内容と深く関わっている★「学術博物館」から、学校づくりを支援する★「教育博物館」へ急速に変わったのである。「教育博物館」とは一般に、教育制度の改良と教育の普及のため主として教育上の諸道具を収集して展示する施設であるとされている。このような「教育博物館」は、現在なじみがないものであるが、九世紀後半期から二十世紀初までは、二五国、七五ケ所に及んだといわれ世界各地に盛んに現れた独特な博物館の類型である。文部省が設置した教育博物館は、当時、世界で11番目東洋で唯一の教育博物館であった。

 

 

【町田久成】(1838~1897) 

https://www.kagoshima-yokanavi.jp/rekishi/ijin/036.html

1882年(明治15)東京上野の国立博物館(現在の東京国立博物館)の初代館長になる。 

 

 

【田中芳男】(1838~1916) 

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/559.html

https://home.ueno.kokosil.net/ja/archives/8824

http://www.museum.isejingu.or.jp/news/8gvqmsf5.html

明治期に動物園、植物園を構想し、上野で実現。★「博物館」という名称を生み出し、殖産興業の指導に尽力、基礎博物学の啓蒙につとめた。 

 

 

【田中不二麿】(1845~1909) 

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317583.htm

明治10年文部省内に委員を設けて、11年5月には新しい法令案としての「日本教育令」が上申されている。教育令の起草に当たっては、時の文部大輔田中不二麻呂が中心となっていた。島崎藤村の長編小説『夜明け前』や、井上ひさしの戯曲『國語元年』に登場する。  

  

・・・あまり意識してませんでしたが「教育博物館」とは、そういうことだったんですね。 

 

《参考》「教育博物館」/文部科学省HP初期の社会教育より 

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317642.htm

博物館は図書館とともに文部省が創置当初から管轄していた施設であって、社会教育史の初頭を飾っている。明治三年より政府は、物産局仮事務所を設けて物産を収集させ、博物館の基礎を置いていたが、四年九月文部省が設置された直後博物局に引き継がれた。これを、五年三月十月海外諸国の博覧会にならって、わが国でも博覧会として公開したのであった。(中略)博物館の経営には、当時文部省において文教の首脳であり、また海外諸国の教育制度の実情に詳しかった★「田中不ニ麻呂」が熱心にこれに当たった。田中阿歌麻呂は父の業績を追想して、「父は明治初期の図書館博物館等の事業に対しても貢献するところがあったと思われる。すなわち書籍館あるいは教育博物館の創設にも尽力したのである。これらの施設は湯島聖堂のかたわらに置かれていたのであるが、それを明治十年一月上野に移して新営したのである。父は特に教育博物館には多大の関心をもっていたようであって、上野に移ってからは時々私を連れて行って観覧させた。その際にこれが国民教育上重要な意義をもつものであるとか、またここの方法はカナダの教育博物館の経営を参考としているのだなどわたくしに話してくれたことを記憶しているのである。これらによって父は学校制度の改善に努めたとともに、すでに欧米巡覧中から社会教育や学芸に関する行政方策、さらにそのための施設等にも着眼していたことを知るのである。」と述べている。この経緯によって、一時博覧会事務局に合併されていた博物館を再び文部省に移管し、八年四月八日東京博物館と改称し、恒久化した社会教育施設の一つとしたのである。九年六月上野山内西四軒寺跡および養育院の地所を合わせた地に、新しく学術博物館を建築する計画がたてられ、十二月に落成するに及んで、東京博物館は、十年一月にここに移転することとなった。そして、★「教育博物館」とその名称を改めた。さかんな抱負をもって東京の教育博物館を経営した一方、★大阪・京都・金沢・秋田の諸地方にも府県立の博物館が創立されるようになった。