《NEWS》2018.6.17朝日新聞デジタルより
鹿児島・出水市の作家、明治維新の偉人のシラス像制作
西郷隆盛、大久保利通、篤姫……。昨年末以来、明治維新を彩った偉人たちのシラス像が、出水市の出水麓(ふもと)武家屋敷群に次々に登場している。制作を一手に引き受けているのが同市の造形作家★吉野弘一さん(64)だ。使われるシラスは海砂と違って粒がそろっていない。扱いが難しい素材だけに、制作に使う道具にもアイデアを凝らす。コテや油絵用ナイフだけでなく、小さなハンマーや食卓で使うナイフなどを次々に持ち替えながら、仕上げる。着物のなめらかな素材感を表現するには、2枚に重ねたポリ袋を当てて指で押しなでていく。
《明治維新シラス像パーク》
899-0204鹿児島県出水市麓町10-39出水麓歴史館
http://www.izumi-navi.jp/spots/detail/101
明治維新150周年や大河ドラマ「西郷どん」など、2018年に注目される「鹿児島」せっかく、鹿児島まで来られるのでしたら、緻密なサンドアートの世界「シラス像パーク」をご覧になりませんか?出水麓武家屋敷群のあちらこちらに設置されつつある、明治維新に偉人のシラス像について、設置場所や制作された偉人の情報などが掲載された公式ガイドブック偉人と出水の知られざるエピソードなどもちょこっと掲載。1冊200円で販売中のガイドブック片手に、400年前の面影を今に残す街並みと、出水と薩摩にゆかりのある偉人達との出会いを求めて散策してみませんか。
【吉野弘一】
鹿児島県出水市出身、★大阪デザイナー学院卒。サンドアートの世界では、世界に名だたる芸術家である。過去においては、吹上浜砂の祭典で7回、4年連続のグランプリを受賞。世界サンドアート香港大会で優勝、世界選手権(カナダ・バンクーバー)準優勝という輝かしい成績を上げている。なお、出水市内の国道沿いやツル観察センターなどにあるツルのオブジェは吉野氏の作品である。吉野氏は、芸術作品制作活動はしばらく休んでいたが、出水にこのように世界的な芸術家がおり、現在制作活動を停止していることは大変な損失であるとする有志達が吉野氏を説得し、また吉野氏も今回の企画に共鳴し、出水のためになるならばと、約15年ぶりにシャベルを手にした。
《参考》「大阪デザイナー専門学校」
530-0003 大阪市北区堂島2-3-20/0120-59-2299
1958年大阪デザイン研究所として開校
1962年大阪デザイナー学院と改称
1977年専門学校となり現校名
・・・吉野さんが「大阪デザイナー学院」卒ということで、とても嬉しいですね。さて「博物場」にもどりましょう。
《内閣官房「明治150年」関連施策推進室》
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/portal/index.html
平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から満150年の年に当たります。明治以降、近代国民国家への第一歩を踏み出した日本は、明治期において多岐にわたる近代化への取組を行い、国の基本的な形を築き上げていきました。内閣制度の導入、大日本帝国憲法の制定、立憲政治・議会政治の導入、鉄道の開業や郵便制度の施行など技術革新と産業化の推進、義務教育の導入や女子師範学校の設立といった教育の充実を始めとして、多くの取組が進められました。また、若者や女性等が海外に留学して知識を吸収し、外国人から学んだ知識を活かしつつ、単なる西洋の真似ではない、日本の良さや伝統を活かした技術や文化も生み出されました。政府では、「明治150 年」を迎える平成30 年(2018 年)を節目として、改めて明治期を振り返り、将来につなげていくために、地方公共団体や民間企業とも一緒になって様々な取組をしています。
《変遷》◆大阪府知事★博物場長など
●大阪府庁の始まりは、1868年(慶応4)1月 22日 に北御堂(西本願寺津村別院)に「大阪鎮台」が置かれたことに始まります。この鎮台は、行政、司法、軍事を兼ねていました。鎮台総督には、醍醐大納言忠順と伊達宗城(宇和島藩)の二人が就任します。しかし、僅か5日後に「大阪裁判所」と改称され、伊達宗城は離任し、醍醐大納言忠順が裁判所総督となります。2月に入り、場所を北御堂から西町奉行所跡の地に移します。同年5月2日◆「大阪府庁」と改称され、初代大阪府知事に、醍醐大納言忠順が就任します。
1868年5月2日~1868年5月23日「初代◆醍醐忠順(京都)」
僅か22日で醍醐忠順が離任。
1868年5月23日~1870年7月12日「後藤象二郎(土佐国)」「小松帯刀(薩摩国)」府事管理
5月23日に参与として小松帯刀、後藤象二郎が府事管理(副知事)に就任します。この時、五代才助(薩摩藩)が大阪府権判事に、陸奥陽之助が会計官権判事大阪府在勤に任命されています。※帯刀は、明治3(1870)年8月16日に、35歳の若さで大阪で病気のために亡くなっています。そのため、当初は大阪「稱念寺」にお墓がありましたが、後に鹿児島県の小松家歴代墓所に移され、稱念寺には石碑が建てられました。
1868年7月12日~1870年2月4日「二代◆後藤象二郎(土佐国 )」
7月 12日 、第2代知事として後藤象二郎が就任。明治2年2月 4日には離任。
1870年2月4日~1870年2月17日 「由利公正(越前国)」御用取扱
同日後任に由利公正(福井藩)が「知事御用取扱」という役職名で後藤の後を引き継ぐ。
1870年2月18日~1872年11月20日「三代◆西四辻公業(京都)」
14日後の2月 18日 に第3代知事・西四辻公業が就任。知事時代には教育に力を注ぎ、府内に120校以上の小学校をつくる方針を決定。教員不足となった大阪府は知識人である士族を中心に全国に教員を求めた。その後、侍従となり、明治天皇の歌道師範も務めた。
1872年11月22日~1877年1月12日「渡邊昇(肥前国)」権知事
http://old.omura.itours.travel/02history/history05_03.html
大阪府大参事、大阪府知事を歴任する。明治10年(1877年)、西南戦争で抜刀隊が編成されることを知ると、大阪府知事であった昇は府内で剣術道場を開いていた元新選組隊士・谷万太郎を隊長に推薦した。
・・・維新の錚々たるメンバーが「大阪府」に関わっていることを、改めて知りました。そして、
1874(明治7)9月内務省の認可を得て★内本町橋詰町「旧西町奉行所・旧府庁」の建物を改修。★堀田龍之助(1813-1888)「大阪博物場」開設に伴い、職を得る
1875(明治8)11月「大阪博物場」(内務省管轄)開場。
http://www.pref.osaka.lg.jp/yodo/choushashuuhennseibi/seibig010.html
《内本町橋詰町》
江戸期~現在の町名江戸期は大坂三郷南組のうち「初発言上候帳面写」によれば「内本町下三丁内〈正円町・西入町・太郎左衛門町〉但、内本町橋詰町同弐丁目と成ル」とある(大阪市史5)町名は本町橋の橋詰の町で、豊臣時代の旧大坂城内にあることにちなむ「本町ばし東づめ東ハ天神ばしすじ迄」の町で(宝暦町鑑)、元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数21軒、役数25、うち無役数3(惣年寄・丁年寄・会所)、年寄は小橋屋長兵衛東横堀は当町付近で東へ曲がっているが、これは秀吉による東横堀開削の際、東横堀西岸にあった浄国寺を避けたためというこの地は「まがり」と称され、明和4年埋め立て、待合などができ、明治以降は西の松島に対し小松島と呼ばれた(全志2)本町橋の1丁北より大手橋までは塩干魚商が軒を並べ、東横堀雑喉浜と呼ばれた当地にはまた油問屋が多く、油問屋の寄合所である油寄場もあった当町の北には享保9年の大火後京橋門外より西町奉行所が移転明治2年大阪東大組、同12年東区、同22年からは大阪市東区の町名西町奉行所跡は明治初期に大阪鎮台・大阪裁判所となり、さらに同7年まで大阪府庁が置かれ、同8年大阪府立博物場となった。
【堀田龍之助】(1813~1888)
1819(文政2)大坂の商家・鍵屋九郎兵衛(1773~1843)の二男として生まれる。鍵屋は1814(文化11)より堂島永楽町にて綿や高麗人参などを扱っていた。
1834(天保5)堂島大火で罹災し転居。九郎兵衛が死去し、跡目をついだ龍之助はほどなく西洋製薬業に着手したといわれている。
1875(明治8)11月「大阪博物場」(内務省管轄)に勤務。
※明治8年8月2日付け辞令は、権知事「渡邉昇」代理大阪府参事「内海忠勝」(第8代大阪府知事)よりとなっている。
1876(明治9)「内国勧業博覧会掛」兼務となる。~1879(明治12)頃まで勤務。
・・・「博物場」は内務省管轄でスタート、初代「場長」は未だ確認できていない。
1877年1月12日~1880年5月4日 「四代◆渡邊昇(肥前国 )」権知事から昇格
1879(明治12)「公立大阪博物場」と改称。