明治150年(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【大久保利通】(1830~1878) 

国立歴史民俗博物館「大久保利通とその時代」企画展より 

2015年10月6日(火)〜12月6日(日) 

https://4travel.jp/travelogue/11087568

幕末-明治時代の政治家。薩摩藩出身。西郷隆盛らと倒幕運動を推進、明治政府を樹立。明治2 (1869) 年維新政府の参議,同4(1871)年大蔵卿を経て,同6年(1873)年内務省設置とともに内務卿に就任。殖産興業政策に取り組むなど、事実上の政権トップとして日本の近代化を強力に推し進めた。西南戦争鎮圧の翌年,不平士族に暗殺された。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈維新の三傑〉と呼ばれる。 

https://www.rekihaku.ac.jp/

本館が所蔵する大久保利通関係資料は、維新の三傑の一人である大久保利通(1830~78)が遺したものです。うち3,053点は2004年には重要文化財に指定されています。しかし、多くが書簡という地味な資料であったことから、収蔵されてから長い時間が経過しましたが、展示という形で全面的に公開する機会がありませんでした。そこで、今回、あくまで史料的価値に主眼を置き、思い切って展示することとしました。また、今年新たに寄贈された追加資料については速報的にその内容の一部をお披露目いたします。中でも大久保利通が発した書簡、あるいは彼に宛てられた様々な人物の書簡は、幕末から明治初期という時代を切り取った生の記録といえます。資料から広がる大久保の人物像とその時代の歴史像とを是非とも読み取っていただきたいと思います。

 

 

《参考1》★大久保利通「大坂遷都論」/国立公文書館より 

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/henbou/contents/01.html

慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を申し出ました。12月9日には、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。新政府は、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇のもとに、総裁・議定・参与の三職を置きました。新政府の最高官職であり政務を統括する総裁には、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が就任しました。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦争で旧幕府軍が敗れた直後の正月17日、新政府の参与大久保利通は、総裁有栖川宮熾仁親王に、大坂遷都を建言しました。大久保は、「未曾有の大変革にあたり、天皇のいらっしゃる所を『雲上』、公卿を『雲上人』と呼んでいるように、ごく一部の公卿以外は天皇と接することもできずに『上下隔絶』している弊習を打開しなければならない。天皇は、西欧の君主のように、国中を視察し、民を大切に育て、広く民に敬愛される君主となられることが重要である。そのためには、遷都が必要であり、遷都の地としては、他国との外交、富国強兵、軍備増強等において、地形的に『浪華(なにわ)』、つまり、大坂が適当である。」と主張しました。このとき、大坂遷都論は採用されませんでしたが、同年3月には天皇の大坂行幸が実現します。

 

 

《参考2》2003年5月7日(水)第133回「その時歴史が動いた」幕末ニッポン・幻の遷都計画〜江戸か大坂か?大久保利通の大改革〜 

http://archive.fo/rTUvh#selection-409.1-409.16

日本の首都は、京都か大坂か、それとも江戸か?幕末の最終局面、都を京都から移そうという、大胆な計画が打ち出された。その行く先は、私たちが常識のように考えている東京(江戸)ではない。大坂であった。この大阪遷都案を画策したのは薩摩藩士、大久保利通。大久保の遷都構想は、17歳の若き天皇を、平安朝以来の京都の保守勢力から引き離すことで、新体制のリーダーとしての成長を促すと同時に、天皇親政の新たな近代国家が誕生しようとしていることを、国の内外にアピールするという、画期的なものだった。この遷都計画に対し、急激な変化を恐れる公家や保守的な大名たちが抵抗。さらには旧幕府との抗争のあおりを受けて、遷都計画は二転三転。京都、大坂、江戸、三都の民衆が騒然とするなか、明治天皇はついに京都御所の奥深くから民衆の前に現れ、日本史上初めての関東への行幸に向かう。この行幸こそが、日本を近代国家へと転換する大きな一歩となる—。幻に終わった、大久保利通の大坂遷都計画とはどのようなものだったのか?そして大久保はどのようにして、未曾有の大改革となる「東京遷都」を成し遂げていったのか。その背景の知られざるエピソードを紹介しながら。遷都が日本にもたらしたものは何だったのか考える。 

 

【前島密】(1835~1919) 

日本の官僚、政治家。号は「鴻爪」。日本の近代郵便制度の創設者の一人で1円切手の肖像で知られる。「郵便」や「切手」、「葉書」という名称を定めた。その功績から「郵便制度の父」と呼ばれる。前島は晩年を別荘「如々山荘」で過ごした。この別荘は三浦半島西海岸にある浄土宗寺院、浄楽寺の境内にあった。前島夫妻の墓所も浄楽寺境内にある。郵政民営化を断行した小泉純一郎の選挙区(神奈川県第11区)内である。 

江戸開城の直後、薩摩藩洋学校(開成所)の教授である前島密による★「江戸遷都論」なる建白書が大久保に届けられた。遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市の一つであり、帝都にしなければ市民が離散して寂れてしまう江戸の方に遷都すべき。帝都は国の中央にあるべきで、大阪は小さく道路も狭小、江戸は諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がないことなどを江戸遷都の理由としている。後に、大久保も徳川氏を駿府に移し「江戸を東京とすることが良策」であるとし、東京遷都を支持していくことになる。大坂遷都にしても、「伊地知正治」の持論を大久保が採りいれたものだといわれる。明治維新で日本の首都を京都から移す時に、大久保利通の大阪遷都を廃し、江戸を推したのもこの人である。皮肉なことに大久保が紀尾井坂で暴漢に襲われた時、真っ先に駆けつけたのも「前島密」であった。

 

 

《参考》「北浜東郵便局」 

540-0031大阪市中央区北浜東3-9/06-6941-9684 

天神橋交差点の南東に北浜東郵便局がある。日本郵政グループ大阪ビル(旧日本郵政公社近畿支社社屋、旧郵政省(郵政事業庁)近畿郵政局庁舎)1階に設置されている。西側駐車場には、明治天皇聖躅碑や八軒屋元紀州藩邸址碑があります。そして、土佐堀通に面して★「前島密」の銅像が建っています。胸像に刻まれた碑文には、明治のはじめ日本に郵便の仕組みを築き、「郵便」や「郵便切手」などの用語も定めた。その多大なる功績から、「日本近代郵便の父」と呼ばれる。(信条)「縁の下の力持ちに なることを厭うな 人のためによかれと 願う心を常に持てよ」

 

 

《大阪会議》 

明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である★大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。 

《参考》「Y’sピア北浜」 

541-0041大阪市中央区北浜1-1-12/06-6538- 4880山根エンタープライズ 

http://www.yamane-e.com/kitahama.html

大阪証券取引所が有る西日本の株の中枢・北浜。ここは、「民主国家・日本」を方向付けた歴史的に重要な「大阪会議」がまとまった地でもあります。集まったのは時の権力者★大久保利通、裁判所設置を条件に政権復帰することになった木戸孝允(元長州の桂小五郎)、議会設置を条件に政権復帰することになった板垣退助、彼らを結びつけた井上馨と伊藤博文ら・・・。この成果を受けて議会制民主主義をめざす「立憲政体の詔書」が明治天皇から発布されます。当館の隣地の料亭「花外楼(かがいろう)」こそ、、明治8年1月~2月にかけて行われたその大阪会議がまとまった地であり、当館は、その★花外楼さまが平成7年に建て初代オーナーを務めたビルなのです。今は縁あって私共が運営致しておりますが、江戸時代から明けて僅かの1870年代、世界でも最先端の三権分立・立憲政体をめざしたことは、私たちが誇りとすべき先人のスピリッツであります。この北船場や中之島の界隈には、明治期から大正、昭和戦前に建築されたレトロモダンな「近代建築」が散見されますが、当館は近代建築ではないものの、大阪都心のの幹線である土佐堀通に面して、近代のその高いスピリッツをレリーフで顕彰し、引き継いでゆきたいと考えております。

 

 

《NEWS1》2015.6.5船場経済新聞より 

大阪北浜の老舗料亭★「花外楼」リニューアル、江戸期創業から4代目 

541-0041大阪市中央区北浜1-1-14/06-6231-7214 

http://kagairo.co.jp/ 

大阪の老舗料亭「花外楼」(大阪市中央区北浜1、TEL 06-6231-7214)が4月10日、リニューアル工事を終えて営業を再開した。1830(天保元)年の創業から、4代目の建物となる。加賀出身の伊助が開いた料理旅館「加賀伊」を起源としている同店。1875(明治8)年には、★大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨らが会談した「大阪会議」が行われ、その成功を喜んだ木戸が「花外楼」と改名を提案し、自ら看板を揮毫したという。互いに決裂していた者たちが平和的にまとまり、明治維新の礎を築いた場として縁起が良いとされ、企業の接待や祝い事の場として重宝されてきた。同店入り口には「大阪会議開催の地」の石碑が立つ。以前の建物は贅(ぜい)を尽くした造りだったが、新店舗はシンプルで飽きのこないものにしたという。土佐堀川沿いの立地を生かした川側は全面ガラス張りで、景観を楽しむことができ、室内には明るい光が差し込む。1階はロビーで、2階に40畳の「雪の間」、15畳の「月の間」、7畳半の「花の間」、15畳の「福の間」、掘りごたつ付き10畳の「寿の間」の全5室がある。客のニーズによって、「雪月花」「福寿」で1組あるいは2組の団体客に対応するなど、老舗料亭ならではのきめ細かいサービスを提供する。会席メニューは、「緑」(昼のみ、1万5,000円)、「泉」(昼のみ、2万円)、「風」(2万5,000円)、「空」(3万円)、「星」(3万5,000円)。別途、消費税およびサービス料15%が加算される。同店おかみの徳光正子さんは「実直で誠実な伊助が維新の人々の信頼を得たように、創業者の原点の思いに立ち戻りたい。顔合わせや還暦など、人生の特別な時に心を込めたおもてなしをしたい」と話す。リニューアルに際して毎月、イベント「クレマチス」を開催。一般の人には敷居が高いと考えられている料亭内を見学し、割安な価格で昼食を楽しめる。詳細は同店ホームページで案内する。営業時間は、11時~15時、17時~22時(2日前までに予約が必要)。日曜、祝日定休(休日営業は応相談)。 

 

《NEWS2》2018.7.2船場経済新聞より 

北浜の料亭「花外楼」で親子向け学習会/茶席と日本料理の作法学ぶ 

大阪・北浜の日本料理店「花外楼 北浜本店」(大阪市中央区北浜1、TEL 06-6231-7214)で8月7日、親子向け学習会「料亭でお茶とお食事を楽しみましょう」が開催される。主催は「国際観光日本レストラン協会」(東京都中央区)。小学生・中学生の子どもと保護者を対象に、和室での所作、抹茶と菓子を食べる茶席の作法や、日本料理を食べる時の作法を教える。大人のみの申し込みは受け付けない。おかみの徳光正子さんは「当学習会は毎年参加しているが、本店での開催は初めて。食育として、日本の食文化や茶の湯文化を子どもたちへ伝えたい。料亭は敷居が高いイメージがあるが、当イベントのような機会に一度足を運んでもらえれば」と笑顔を見せる。「夏休みの自由研究に当学習会を利用するお子さまもいる。★『大阪会議』が行われた歴史ある料亭がどんな場所か体験する機会になれば」とも。開催時間は11時~13時30分。参加料金は1人5,000円。募集人数は30人。申し込みはホームページから専用の用紙をダウンロードしファクス。 

 

・・・この北浜界隈を「明治維新」に思い馳せながら散策するのも、一興です。