八尾市(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《高安小学校・中学校(施設一体型小・中学校)》 

581-0862八尾市千塚2丁目25番地/(小)072-943-8030/(中)072-943-8016 

http://www.city.yao.osaka.jp/0000033404.html

本校は、八尾市の北東部に位置し、高安山のふもと、自然環境や歴史・文化遺産に恵まれた地域です。校区には、樹木・田畑・ため池などが多く、香川県や北九州の一部と高安にしか生息しない、絶滅危惧種のニッポン・バラタナゴを保護する取り組みが行われ、校内のビオトープでも飼育しています。また、植木や園芸が今も盛んで、近郊農業の特色を残しています。歴史・文化遺産としては、国史跡指定の高安千塚古墳群や中河内最大の前方後円墳である心合寺山古墳、水呑地蔵や玉祖神社、法蔵寺、松の馬場などの史跡が数多く点在しています。また、毎年、玉祖神社で奉納される「高安能」も伝統文化として継承されています。夏祭りなどの地域行事も盛んで、保護者・地域の連帯感は強く、教育に対しての意識・関心も高い地域です。「高安の子どもは、高安で守り育てる」を合言葉に、学校・家庭・地域が一体となって、子どもを育てる取り組みを進めています。 

平成28年3月末をもって閉校した★中高安小学校★北高安小学校が統合され、平成28年4月1日、高安小学校が、高安中学校とともに八尾市ではじめての「施設一体型小・中学校」として創立しました。 

http://www.city.yao.osaka.jp/0000009220.html

平成28年4月から、★旧大阪府立清友高等学校★大阪府立八尾支援学校東校跡地へ移転し、小学生と同じ学び舎で共に学校生活を送る、八尾市で初めての施設一体型小・中学校として新たなスタートをきりました。

 

 

《参考1》八尾市立歴史民俗資料館 

581-0862八尾市千塚3-180-1/072-941-3601 

http://www17.plala.or.jp/yaorekimin/

平成30年9月1日(土)から平成31年2月28日(木)まで空調設備工事に伴ない★休館致します。ご迷惑をお掛け致しますが、よろしくお願い申し上げます。

 

 

《参考2》「高安悠画会」 

https://www.takayasuyugakai.jp/

八尾市高安地区で生まれた絵画グループです。主宰者【大槻洋子】「八尾市高安コミュニティセンター」での絵画講座や「八尾市市民サービスコーナー」での展覧会で実績を重ねて来たグループです。現在会員数40名弱ですが毎年恒例のアリオ八尾店始め、八尾市文化会館プリズムや生涯学習センター「かがやき」での展覧会では多くの方々にご来場戴いています。

 

 

《参考3》「八尾市教育センター」 

581-0856八尾市水越2丁目117/072-941-3365 

http://www.city.yao.osaka.jp/0000001431.html

八尾市立教育サポートセンターは、平成30年4月1日に移転し、旧★高安中学校の校舎を活用して八尾市教育センターとしてスタートします。八尾市は2018年4月から★「中核市」に移行したことで、教職員の研修事業を市が担うことになりました。その場所と機能を確保する必要があり、教育センターが整備されることになったのです。

 

 

《大阪府立清友高等学校》2010/03/30 

http://www.osaka-c.ed.jp/seiyu/

今年も桜が咲きました。清友高校の生徒たちがこの桜を見ることはもうありませんが、4月から八尾支援学校の生徒たちの目を楽しませてくれることでしょう。 

《大阪府立八尾支援学校東校》メモリアル 

http://www.osaka-c.ed.jp/yao-sb/

平成27年3月末日をもって閉校となり、5年間の歴史に幕を閉じました。卒業生をはじめ、保護者の皆様、地域の皆様から多大なるご支援、ご協力をいただきましたことに、心よりお礼を申し上げます。 

《大阪府立みどり清朋高等学校》 

http://www.midoriseiho.jp/

平成20年4月1日開校。母体:大阪府立池島高等学校(昭和49年設立/東大阪市池島町)大阪府立清友高等学校(昭和16年設立/八尾市千塚) 

 

・・・閉校となった学校・新しくできた学校、悲喜こもごもですね。

 

 

《垣内村一里塚(八尾市市指定史跡)》八尾市垣内3丁目 

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1240

東高野街道は俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族などの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年) 

東高野街道は京都と高野山を結んだ道で、河内では「京道」とも呼ばれ、古来より南へ向かう重要な道筋でしたので、一里(約4km)ごとに一里塚が整備されていました。正保元年(1644)の『河内国絵図』には、東高野街道に11ヶ所の一里塚が描かれていますが、現在八尾市の垣内の一里塚と★富田林市の錦織[府指定史跡]にだけ残っています。 

【東塚】東塚は、高さ1mほどの塚状の地の上に松が1本植えられており、現在も地元では「一里松」と呼ばれています。 

【西塚跡】本来一里塚は二基一対で、東塚と西塚跡周辺には「一里松」という小字名が残っています。西塚跡には塚はなく、文化(ぶんか)七年(1810)の銘(めい)を持つ法華塔(ほっけとう)が建っています。[平成8年3月29日八尾市指定史跡]出典:『八尾市文化財情報システム』より

 

・・・昔々の「東高野街道」そして今、新たな時代の到来を前にして「悲喜こもごも」をメモリアルとして、アーカイブしていくことの重要性をヒシヒシと感じています。