アベノ | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ブログテーマ「街アート」も100回となり、これにて区切りをつけたいと思います。前回紹介した「泉茂」さんをさらに掘り下げて、最終回のタイトルは「アベノ」にしました。 

 

(1)泉茂は1922年(大正11)大阪生まれ、大阪市立工芸学校(現★大阪市立工芸高等学校)卒業後、大丸の宣伝部装飾課に就職し、デザインの仕事をしていました。その後20歳になって軍隊に入り、輜重部隊という運輸部門で3年間終戦まで働きました。終戦後、大丸に復職すると、泉たちの代わりにそれまでデザインの仕事を任されて職場を守っていた女の人たちを異動するという動きがありました。泉は、それは彼女たちに辞めなさいと言っていることと同じだと考えて、抗議をしたところ「君は絵に興味を持っているんだから、絵に専念しなさい」ということで、泉が大丸から出ることになりました。 

 

《参考》「大阪市立工芸学校」(現大阪市立工芸高等学校) 

545-0004大阪市阿倍野区文の里1-7-2/06-623-0485 

http://www.ocec.ne.jp/hs/kogei/kogei/index.html

http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=h713525

1923年(大正12)開校。翌年に現在地(阿倍野区文の里)に移転し、ドイツの「ワイマール工芸学校」をモデルとした本館が竣工した。

 

 

(2)1950年頃の作品では、描かれた形は単純化されていますし、パレットも変わってきています。地面の面と面の間に草地の面が入り、形が伸びて行く動き や 、空を 面によって構成するなど「絵」を作ることに意識的になっていることがはっきりと感じられます。そのような仕事を進めているうちに、★大阪市立美術館で学芸員をしていた作家の森啓の紹介で、瑛九と知り合います。瑛九がフォトデッサン展を開くために大阪に滞在していた1951年のことです。デモクラート展は1951年に大阪市立美術館で★第1回展、それから同じ年に阪急百貨店で第2回展を開きます。瑛九と久保貞次郎二人の勧めがあって、1953年に泉は銅版画を始めることになりました。1957第1回東京国際版画ビエンナーレ新人賞。おなじデモクラートのメンバーだった池田満寿夫と同様に、泉茂も版画によって華々しくキャリアをスタートした。 

(3)泉はデモクラートの解散後、1959ニューヨークに移ります。日本で版画が高く評価され、あくまでも画家であろうとした泉を、版画家の枠に閉じ込めることになり不本意であったようです。ニューヨークに行くための旅費、滞在費をつくるために、水彩画をひと夏かけてたくさん描いたという中に、「鳥」のモチーフが何度も登場しています。1963パリに移る。旧友・菅井汲と交流。1968帰国1970★大阪芸大教授1995没73歳。 

 

・・・とてもとても、「アベノ」にゆかりある人なのです。

 

 

《アベノセンタービル》 

545-0052 大阪市阿倍野区阿倍野筋1-5-36 

http://www.kisimoto.co.jp/building.html#acb

竣工:1970年(昭和45)2月/鉄骨鉄筋コンクリート造/地上9階・地下3階 

設計・施工★村野藤吾・株式会社竹中工務店/1989年(平成元年)全面改装、2009年(平成21年)全館耐震工事済。

 

 

・・・このビルに「泉茂」さんの作品が展示されているのは、偶然ではなく必然なのです。そして、アベノゆかりの人がもうひとり、 

 

《参考》MURANOdesign(旧)有限会社村野・森建築事務所 

http://muranodesign.jp/index.html

昭和45年(1970)アベノセンタービル竣工、村野藤吾79歳。昭和47年(1972)きんえいアポロビル竣工、村野藤吾81歳。前身のアポロ劇場も村野藤吾の設計。東郷青児の大壁画のあるモダンな映画館だったそうです。あべのハルカスの前身の阿倍野橋ターミナルビルも村野藤吾設計でした。 

1984年村野藤吾逝去により代表取締役に村野漾(よう)(村野藤吾の長男)就任。 

2005年村野漾逝去により代表取締役に村野永(ひさし)(村野藤吾の孫)就任現在に至る。

 

 

・・・旧・村野森建築事務所がアベノにありました。 

 

《旧・村野森建築事務所》 

大阪市阿倍野区阿倍野筋2-3-8 

1966年(昭和41)竣工/施工:鹿島建設。地下1階~地上3階/構造:鉄筋コンクリート造・鉄骨鉄筋コンクリート造、村野藤吾75歳。「建築は結果だけでなく過程を大切にしてほしい。そしてあとは各自ゴーイング・マイ・ウエーだと思いますね。すぐにえらくなろうなどと思いなさんな。私、一本立ちしたのが四十歳、本当の仕事ができだしたのは六十歳からですからね。とにかく自分を肥やすことです。そうすれば必ず社会が認めてくれます。芸術の世界では、五十、六十はまだまだ青年期ですよ。」(「村野藤吾著作集全一巻」同朋舎出版より)  

現在★「友安製作所Cafe&Bar阿倍野」というカフェが入居、2017年12月より営業開始。村野は当時の自宅兼事務所について次のように述べています。「一番最初はね、私の家の台所を改造して、そこで図面を引いていた。阿倍野の今の事務所の途中に泉岡宗助さんから借家していた所ですが、そこで、台所の所に増築して、塀の所まで庇をつけて、ある者は二階のベランダで西陽のあたる所でやってました。今でも、その当時の生き残りがいますがね、石原君とか近藤君とか、いま自分でやってますが…。そのように、(渡辺)先生に言われた通り金をかけないで、自分の家でやっていました。」その後、村野の様子を見かねた泉岡宗助は自宅の一部を村野に提供し、それがこの村野・森建築事務所となります。泉岡宗助の和風建築に対する造詣の深さは、並大抵のものではなく、道楽の極地から普請道楽をしていたと言われるほどの人物でした。村野は後に、「自分は日本建築を正式に学んだ事はないが、村野流日本建築の糸口を与えてくれたのは泉岡宗助である。」と述べています。 

阿倍野の大資産家、当時の泉屋土地建物株式会社の代表取締役でもあった泉岡宗助は「百楽荘」という数寄屋造りの離れを奈良・富雄に建設しました。約8万坪(約26万㎡)の土地を購入し、数年かけて地形に合わせて造成されたそうです。設計は泉岡自らが行い、当初は貸別荘として建てられました。昭和33年(1958)、百楽荘は泉岡の会社から近畿日本鉄道のグループ会社に引き継がれ、現在は近鉄直営の料亭として営業しています。泉岡家の跡にはマンションが建っています。

 

 

《友安製作所Cafe&Bar阿倍野》 

545-0052大阪市阿倍野区阿倍野筋2丁目3-8/06-6627-2004 

https://tomoyasucafe-abeno.shopinfo.jp/

友安製作所Cafe&Bar阿倍野の店舗となっている建物は、日本現代建築に功績を残した建築界の巨匠・村野藤吾氏が、自身の事務所「村野・森建築事務所」として約50年前に設計し実際に使用されていた建物です。その貴重な歴史的建造物、村野建築のこだわりを残しながら、友安製作所がデザインプロデュースし、店舗兼ショールームへとリノベーションを行いました。村野氏の蔵書が多く納められていた書庫スペースでは、事務所に残る貴重な品の展示や村野藤吾に関するパネル展示を行い、また、ライブラリーコーナーには建築に関する書籍を取り揃え、かつて村野氏が数多くの作品を生み出した場所で名建築の世界の一端に触れていただけます。新旧の時代が重なって見える空間のなかで、ゆったりと贅沢なひと時をお過ごしください。 

 

・・・近々、行ってみようと思っています。これにて、「街アート」完です。