梅香堂 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・遅ればせながら、亡くなられた後々田さんの追悼をこめて紹介します。「西九条」から歩いて「朝日橋」西詰にあるのが、

 

 

《初代大坂船奉行所跡》 

554-0013大阪市此花区梅香1-26 

http://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000351014.html

元和6(1620)年、幕府は四貫島村に船奉行所を設けた。西国諸国から大坂に向かう船は、伝法川から逆川を経て大坂市中へ向かったため、幕府は諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向をここで監視した。平成23(2011)年に、六軒家川に架かる朝日橋のたもとに、「初代大坂船奉行所跡」の碑が建立された。貞享元(1684)年、河村瑞賢が安治川を開削。舟運の便が改まり、大坂へは直接、安治川へ出入りするようになったことで、伝法川を経由するものが減少した。幕府は貞享2(1685)年、四貫島と木津川口にあった船番所を廃止、新たに九条村本田の北端に、「川口船手奉行所」を置いた。 

 

・・・元市長(橋下)の見事な筆跡に驚かされます。 

 

《朝日橋》 

六軒家川に架かる朝日橋は、正蓮寺川の森巣橋、伝法川の備前橋、大野川の百福橋、西島川の両島橋などとともに、文久年間(1861~4年)に架けられた橋とされ、明治初期にもその存在が確認されている。いずれも西大阪から尼崎方面へ至る街道筋に架設された由緒ある橋であった。朝日橋の名の由来は、この橋が岡山藩の手によって文久3年(1861)に初めて架けられ、その時、岡山藩城下を流れる旭川にちなんで名付けられたことによる。 

この辺りは河口に近く、地盤沈下が進み、高潮対策が特に要求される地域である。現橋は、大阪市内河川高潮対策事業として、昭和31年に老朽化した木橋から3径間ゲルバー桁の永久橋として架け替えられた橋で、阪神電鉄西大阪線の軌道橋と平行して、すぐ西側に市電との併用橋として供用されていた。本体の道路橋と同様に橋床構造の軽量化が追求され、軌道構造に16mm厚のゴム製タイバットを用い、通常の防水層や道床砂利を設けずに、レールを直接床版の上に敷設した。このような構造が併用軌道橋に採用されたのは日本で★初めてである。

 

 

【後々田寿徳】(1962~2013) 

http://artscape.jp/dictionary/author/1218388_1827.html

1962福井県生まれ。★梅香堂主。名古屋芸術大学非常勤講師。法政大学大学院修了(社会学)。福井県立美術館、NTTインターコミュニケー ション・センター[ICC]学芸員、某大学学芸員課程専任講師などを経て、2009年より梅香堂を運営。おもな担当プロジェクト=「日本のポップ─1960年代」(福井県立美術館、1992)、「世紀末マシーン・サーカス(SRL日本公演)」(ICC、1999)、「E.A.T.─芸術と技術の実験」(ICC、2003)ほか。おもな論文=「多田寺木造十一面観音菩薩立像について」(福井県立若狭歴史民俗資料館紀要2、1988)、「大阪博物場─〈楽園〉の盛衰」(2009)ほか。2013.12(51歳)死去。 

https://www.nettam.jp/column/88/

2009年に大阪に移り住み、★梅香堂を運営し始めて3年近くが過ぎた。もともと美術関係の仕事を続けていたが、わけあってギャラリーを開設したのである。大阪にほとんど地縁もなく、いわば「飛び込み」のようなかたちで始めたのだが、3年も経てばいろんなことが見えてくる。何より、大阪という町が非常に暮らしやすいところだということ。暮らす前に抱いていたイメージと重なる部分もあるが、暮らさないと見えてこないところがある。そのいくつかを述べてみよう。大阪は戦前まで日本経済の中心地であったため、都市の基礎的インフラがよく整っている。国際線・国内線や新幹線はもとより、地下鉄、道路など交通網の整備も悪くない。上下水道などの治水もすばらしいと思う。「水の都」といわれるとおり、豪雨ですぐに道路が冠水する東京とは比べものにならない。都市ガスの普及率もトップクラスらしい。そして歴史的商都であるため、あらゆる意味で人の流入を拒まない柔軟さがある。俗に「京都十代、東京三代、大阪一代」と称されるように、よそ者に寛容な町だと感じる。ひるがえってみれば、生活保護被保護実世帯数日本一とされる町は、それだけ経済的に豊かではない人に優しく、暮らしやすいところだということの証左なのだ。また、資金に乏しい起業家などにとっても、東京や、おそらく京都などより敷居の低い町だといえるだろう。 

http://baikado-diary.sblo.jp/ 

梅香堂のある、梅香地区(此花区)も、交通至便にもかかわらず、地価(家賃)など物価が安い。高齢者などが多く、都市計画でいう「インナーシティ」化が進んだ場所である。その地の利に魅力を感じて開設したのだが、いまとなってやや大げさにいえば、梅香堂はそこにはからずも「ジェントリファイヤー(ジェントリフィケーションの仕掛け人)」の一人として参入したとも考えられる。「ジェントリフィケーション」とは、衰退した大都市周辺の町に、アーティストなど(おもに若い世代)が移り住むことで一種の再開発が進み、町が変化していくことをいうのであるが、事実この3年間で、少なからぬアーティストやその周辺の若者たちが増えてきたのだ。はじめはアトリエ、住居、事務所であったが、次々とイベントスペースやギャラリー的性格を持つものも増え、最近アート好きの集う町の案内所兼カフェもオープンした。さらに近い将来、本格的なギャラリーやゲストハウス、シェアハウスなども誕生するという。もとより、この地の「ジェントリフィケーション」には、政岡土地という大地主のサポートおよび美術家の藤浩志氏が副理事長を務めるNPO法人プラス・アーツの活動がその端緒にあったのだが、私が移り住んできたころより、そうしたいわば組織的な活動は低下し、この地にかかわる若者たちが中心となって自主的に町を変化させてきたのである。近年、アートによる地域プロジェクトや町おこしなどは枚挙にいとまがないが、そのほとんどは行政や企業、その援助による団体などが主体となるのに比して、この地は指導者やスポンサー、組織や明確なプランもなく、密やかに「ジェントリフィケーション」が進行している稀有な例といえるだろう。その背景には、先に述べた大阪の町の「暮らしやすさ、寛容さ」がある。アーティストやアートという、必ずしも経済的には豊かではない、一種の変わり者─よそ者にも、この町は「優しい」のだ。それが私を含め、こうした若者たちが、自然にこの地を愛し、助け合い、活性化させていく原動力となっていると思う。経済的には地盤沈下が激しいとされる大阪だが、その「優しさ─町の魅力」をいまだに失ってはいない。ささやかではあるが、この地の人々との交流も始まっている。これからもこの町は変化していくだろう。しかし★この「優しさ」だけはいつまでも失わない町であってほしい。

 

 

《梅香堂》 

554-0013大阪市此花区梅香1-15-18/06-6460-7620 

http://www.baikado.org/

梅香堂(ばいかどう)は、2009年11月3日にオープンした、大阪市此花区のギャラリー、アート・スペースです。現代アートを中心に、展覧会、イヴェントなどを開催しています。みなさまのご来堂をお待ちしております。 

 

・・・「博物場」そのものが、大阪文化の変遷・歴史の象徴のように思えてなりません。後々田さんの「思い」を重ねつつこれからも調べていこうと思います。以前、亡くなられたことも知らずに、お会いしたくてギャラリーに行ったことがあります。その時は今日は「閉廊」かぐらいにしか思っていませんでした。後日、近くの★ギャラリー「the three konohana」を訪問した際、「亡くなられた」と教えていただきました。くも膜下出血?のようです。今さらですが、ご冥福をお祈りします。

 

 

《梅香》 

http://www.city.osaka.lg.jp/konohana/page/0000001552.html

梅香と朝日は、かつては四貫島村と呼ばれていましたが、大正14年に19の町に分割されました。梅香は四貫島の所有者★正岡徳兵衛(政岡家)の4代目の先代養母(一説には妻)の法名が地名の由来と言われています。朝日は嬉ヶ崎と呼ばれていましたが、昭和51年に現在の町名となり、これは六軒家川にかかる朝日橋が由来です。現在はアートや音楽の力を借りた芸術発信のまちへと、生まれ変わりつつあります。 

 

《参考》「政岡土地株式会社」 

554-0013大阪市此花区梅香3-27-11/06-6468-7021 

http://masaoka-tochi.co.jp/

http://masaoka-tochi.co.jp/history/

明治40年10月、大阪市西区(後に分区され此花区になる)に政岡土地合資会社を設立し土地賃貸業を始める。昭和12年3月、政岡土地株式会社に改組。昭和44年10月、資本金1億円に増資。昭和59年4月、全額出資の子会社、政岡土地管理株式会社を 設立。平成18年1月、政岡土地管理株式会社を 吸収合併。

 

 

・・・このギャラリー、今はどうなっているのかなあ。