・・・《1875年(明治8)》11月「大阪博物場」開場、天野皎さんは《1885(明治18)~1889(明治22)》「場長」なので3~5代目くらいと書きましたが、歴代の場長を調べてみました。
【関屋俊彦】(1946~)
http://www2.kansai-u.ac.jp/eu-japan/m1-2.html
1946広島県大竹市生まれ。
1971関西大学国文科卒、77年同大学院文学研究科満期退学
1977~1979武庫川女子大学専任講師
1979~1987関西大学文学部専任講師
1987~2017.3関西大学文学部教授
《資料1》2007年3月関西大学国文学会『国文学』91号
「近代大阪の演能場」/著★関屋俊彦(関西大学学術リポジトリ)より
(前略)★「宮本又次」氏は、★「沼艸雨」氏の文を殆どそのまま受けて『大阪の経済人と文化』(1983年6月30日・実教出版)「第三章大阪の能舞台と経済人」でも紹介している。沼氏文と重ならない後半部分を次に引用する。【明治記念碑は偕行社構内に移り、能舞台は取壊されることになる(『中之島誌』722~734頁)。先の橋岡の能舞台も維持困難となって、明治18、9年頃ついに売却されており、また翠柳館も取払われるに至る。大阪博物場は、大阪府が明治7年9月内務省の認可を得て、内本町橋詰町旧西町奉行所旧府庁の建物を改修して、明治8年11月より開場したもの。12年「公立大阪博物場」と改称し、綿糖共進会などを開催したりした。17年3月「府立博物場」を移し美術館をもつくり、その後も地所を拡張した。能楽殿は早くより設けられていたが(中之島翠柳館を移したともいう)★「初代博物館長」平瀬露香の能楽ずきもあって発展し、30年には能楽殿の改築にも着手した。36年第5回内国勧業博覧会のときから陳列所、売店、動物園をもって構成されるに至る。】
【宮本又次】(1907~1991)
大阪府生まれ。京都帝国大学卒。彦根高等商業学校教授を経て、1945年九州帝国大学教授、1950年九州大学経済学博士「江戸時代問屋の研究」。1951年大阪大学教授、のち関西学院大学教授、福山大学教授。専攻は日本経済史、近世商業史で、1967年『関西と関東』で日本エッセイスト・クラブ賞、1970年『小野組の研究』で学士院賞恩賜賞受賞。1979年日本学士院会員、1988年文化功労者。大阪の地誌、風土記、また豪商列伝のような一般書まで、著作の量は厖大であり、著作集全10巻がある。またNHK大河ドラマ『峠の群像』の監修を務めた。長男の宮本又郎も日本経済史の研究者。
【沼艸雨】
●研能通信No.26(昭和35年2月)「大阪能楽観賞会」談:沼艸雨
大阪の文化活動と言うことが問題になつていますが、大阪能楽友の会の運営委員の諸君がよりよい目的達成のために、新しく大阪能楽観賞会を作つたことは、その文化胎動の一つの現れとして喜ばしいことであります。友の会がようやくマンネリズムに感じられる時、会員自体による会員のための能楽観賞に限りない前進を続けようとする若い人の栄光を信じると共に、大方諸賢の温い御後援をお願いする次第であります。
●「ようこそ雷蔵ワールドへ」HP
市川雷蔵という役者は、今もなおスクリーンに燦然と輝く本物のスターであり、かつ雷蔵映画は文句なく面白い。世界に通用する魅力をもったスターだと信じる。雷蔵を愛し、その映画を後世に残し、スターとして銀幕の中で光り輝くことを願う。
http://www.raizofan.net/shiryo/index.htm
・・・このHPの「劇場へのお誘い」に、月刊誌・歌舞伎「幕間(まくあい)」(昭和21年5月創刊、昭和36年9月終刊)が紹介されており、幕間1951(昭和26)1~4月号に沼艸雨さんの文章が多く掲載されています。
●《武智歌舞伎「華と実と枝」》文:沼艸雨
http://www.raizofan.net/onstage/5012butai.htm
武智君の歌舞伎再検討の評価は数回の公演で一応結論は出されている。その賛否は両論はさることながら、京都南座での盛況や、つづいて西宮、神戸、大阪近郊の巡演、又は歌舞伎座本興行に於ける若手抜擢等は、特に武智君の勝利といってよいのである。然しここで一つ反省しなければならぬことは、今迄の公演が無条件に完璧といえるかどうかである。私は根本理念に於いて此の再検討に賛成であるが、総べてが、友人だから、「観照」の同人だから、同じ考え方とは限らないのである。それで今度の西宮等の公演を見てその意味のことを武智歌舞伎の花、実、枝ということで分類してみた。武智君の仕事には花がある。それは温室咲きでなく、その時に、その花が何にもめげずに咲きほこる、あの花である。いい換えれば人間本性の姿、その中でもこれを恋愛描写に大胆率直に見せることである。次に実であるが、これはその花の実を結んだもの、即ち高度の写実による真実性である。この二つを頭に置いて見る時、それを最も量的に含んでいるのが「十種香」であった。
・・・研究者には違いないのですが、結局「沼艸雨」さんのブロフィールは分かりません、なんでやねん。
【宮崎鉄幹】宮崎鉄幹は、天野皎や森琴石らとともに関西の近代初期の画塾・浪華学画会の発足メンバーのひとり。
★関屋さんの資料より
【(前略)この舞台を★「翠柳館」というのであるが、これはあのあたりは柳が多いところから「宮崎鉄幹」が名づけたものである。この鉄幹は、のちに★「大阪博物館長」をしたこともあるのだから自分の命名したものを再び整理したことになる。】
・・・★「宮崎鉄幹」さんの紹介でも「大阪博物館長」という表記をされており、平瀬さんの★「初代博物館長」は「博物場長」という意味で書かれたと思われます。しかし、
《資料2》「大阪春秋」第18号=特集・博物館めぐり(昭和53年10日10日発行)
◇特集・博物館めぐり★大阪府立博物場の思い出/文:牧村史陽
(前略)この「能楽堂」は、もと生国魂神社内にあり、一時中之島★「翠柳館」内に再建されたのを、明治27年(1894)時の博物場長★「平瀬露香(亀之輔)」が資金を集めてこの地に建設したものであることはのちに知った。
【牧村史陽】(1898~1979)
1898年10月1日、大阪船場の木綿問屋の長男に生まれる。大阪大倉商業学校卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独力で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ち込む。1948年から雑誌「大阪弁(全7巻)」を編集。1952年から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。大阪の歴史、地理、演劇などを実証的に調査し、新聞や雑誌などに発表した。1978年大阪文化賞を受賞。「郷土史は足で書け」が持論。生粋のなにわっ子で、稀代の大町人学者と呼ばれた。1979年4月25日没。
●関西大学「大阪都市遺産研究センター」所蔵★牧村史陽氏旧蔵写真データベース
http://haya.bitter.jp/makimura/
http://www.kansai-u.ac.jp/mt/archives/2014/07/72399.html
・・・ぜひ、どこかで「写真展」をやってほしいものです。
★史陽選集 <全53巻> 史陽選集刊行会
心中天網島〔上巻〕(史陽選集1)八代目団十郎の死(史陽選集2)石山本願寺物語(史陽選集3)迷信は生きている(史陽選集4・5)心中天網島〔中巻〕(史陽選集6)歌舞伎名所図会1(史陽選集7)川上音二郎〔上巻〕(史陽選集8)大阪の伝説1(史陽選集9)上島鬼貫 (史陽選集10・11 合巻 )お妻・八郎兵衛(史陽選集12)侠妓かしくとお園・六三(史陽選集13)歌舞伎名所図会2(史陽選集14・15合巻)心斎橋(史陽選集16)川上音二郎〔中巻〕(史陽選集17・18合巻)キリシタンの人々1(史陽選集19・20合巻)お染・久松(史陽選集21・22合巻)大阪の伝説2(史陽選集23)★浦島伝説(史陽選集24)壷坂(史陽選集25)道成寺物語(史陽選集26・27合巻)法界坊(史陽選集28・29合巻)謡曲名所図会1(史陽選集30)謡曲名所図会2(史陽選集31・32合巻)皿屋敷伝説(史陽選集33)大阪の伝説3(史陽選集34)大阪ド根性ばなし(史陽選集35)謡曲名所図会3(史陽選集36)無手の幸(史陽選集37)織部灯籠はキリシタン灯籠か(史陽選集38)謡曲名所図会4(史陽選集39)源義経1(史陽選集40)お蔭参りとお蔭灯籠(史陽選集41)謡曲名所図会5(史陽選集42)謡曲名所図会6(史陽選集43)大坂から大阪へ1(史陽選集44)キリシタンの人々2(史陽選集45)歌舞伎名所図会3(史陽選集46)源義経2(史陽選集47)キリシタンの人々3(史陽選集48)キリシタンの人々4(史陽選集49)大坂から大阪へ2(史陽選集50)丹波・北摂の木喰微笑仏(史陽選集51)おさん・茂兵衛(史陽選集52)ガラシャ夫人(史陽選集53)
・・・全部そろえたくなる衝動を抑えつつ、せめて「浦島伝説(史陽選集24)」はゲットしようと思う。「郷土史は足で書け」生粋のなにわっ子で、稀代の大町人学者と呼ばれたホント、スゴイ人です。
・・・牧村さんの思い出の中に、明治27年(1894)時の博物場長★平瀬露香(亀之輔)と書かれています。明治8年11月の博物場開場から20年近く「場長」をされることはありえないことです。さらに調べますと、
《資料3》「東北芸術工科大学/紀要No.16」発行: 2009年3月
《大阪博物場-「楽園」の盛衰-》文★後々田寿徳
http://archives.tuad.ac.jp/archives/433
・・・この資料を発見したのは、まさに幸運でした。平瀬さんについて書かれている部分を、そのまま引用させてもらいます。
【(前略)またこの時期に注目されるのは、★平瀬露香(亀之輔)の博物場長就任である。平瀬家は大阪を代表する豪商であり、露香は明治期の大阪財界の重鎮であった。しかし露香は商売には重きをおかず、趣味や遊芸の世界に生きた文化人。すなわち「近世大阪の旦那衆そのもの」であったという。露香は1891年(明治24)に「日本美術協会大阪支会」支会長となり、翌1892年(明冶25)8月より1895年(明治28)10月まで★博物場長をつとめた。露香の博物場への影響は明らかではないが、能楽への深い関心から、一説には当時中之島にあった能舞台「緑柳館」を、この時期に博物場に移転したとされる。さらに場長★辞任後も、1898年(明治31)にこの能舞台を改築した際にも関与したと考えられる。「明治時代の演能は大阪博物場長であった平瀬露香(亀之助)らの努力で拠金の上にできていた博物場の能舞台を唯一の頼み」としていたという。露香は財界人との交流はほとんどなかったが、「胸襟を彼いて話す人はなかった、只一人-ほんの只一人-町田久成(号石谷)があった」とされ。「此人とは趣味も合ひ意見も統合して氏の豊富なる葱蓄には如何な翁も一目置いて敬服して居られた」という。町田久成は、薩摩藩島津久光の重臣であり、わが国最初の恒常的な近代博物館である「(上野)博物館」初代館長である。同館開館直後の1882年(明治15)政争により失脚し、1889年(明治22)園城寺にて出家、同寺末光浄院住職となり、以降滋賀と東京を往復したという。町田は1896年(明治29)ころより体調を崩し翌年没しているため、平瀬家が島津家御用であった縁からか、まさに露香が博物場長であったころに交流かあったと思われる。その交流の内容については知る由もないが、博物館建設に情熱を注いだ町田と、露香が博物場について語り合ったこともあったのではなかろうか。】
・・・平瀬さんの「場長」は、1892年(明冶25)8月~1895年(明治28)10月と書かれていました。したがって、平瀬さんは「初代」ではないようです。さらに、政争で失脚した初代上野博物館長・町田久成さんとの交流など、平瀬さんの人柄を彷彿とさせる文章に、感動を覚えます。「後々田寿徳」さんも研究者として、素晴らしい人です。あらためて紹介したいと思います、お楽しみに。