・・・サインをいただいた「近代日本の空間プランナーたち(著★橋爪紳也)」の最初に登場するのが、★「天野皎」さんです。
《大阪人物誌続編》編著:石田誠太郎(大正末~昭和)より
【天野皎】(1851~1897)
名は皎、幼名祐太郎、別に鐵腕と号す、江戸の人、世々徳川幕府に仕ふ、幼より学を好みて業を長谷部甚弥に受け又書法を石川潭香に学ぶ、明治6年東京師範学校を卒業して大阪師範学校本科教師を命ぜらる、後ち奈良県五条師範学校校長・神戸師範学校校長等を歴任し、13年★「大阪商業会議所」書記となる。14年大阪府御用掛となり大阪測候所長★「大阪商業講習所」所長等を兼ね、1885年(明治18)★「府立大阪博物場長」に専任せらる。是に於て専ら心を美術の奨励に致し、兼ねて薀蓄せる智職を以て★「美術館」を創設す。又率先唱導して城南今宮村に「大阪商業倶楽部」の開設を企画する等大に浪華文化の発展に力を尽くせり。24年「大阪朝日新聞」に入りて編輯の事務に従い、25年臨時博覧会事務局監査官となり、26年閣龍世界博覧会事務の為に米国シカゴに赴き其博覧会の審査官に任ぜらる。27年日清戦役の起るや第ニ軍に従うて能く其任務に務む。30年遂に朝日新聞社を辞し、更に日本製鋼株式会社長となり、幾もなく病を獲て武庫郡住吉村の客舎に歿す。人と為り堅忍剛毅博学宏識、能く詩文を属し尤も書法に長ず。殊に美術に関する造詣深く斯道の為に貢献する所蓋し鮮少ならず、嗣子徳三嘗て職を大阪朝日新聞社に奉ぜり。著書:入清日記その他。歿年:明治30年10月16日47歳。
・・・天野皎さんの調査では教育関係資料が多く、とりわけ「図解」や「掛図」を多く発見することができた。「大阪博物場」においては「美術館」を創設したとあり、美術に造詣が深かい人物だったようです。「大阪博物場」は1875年(明治8)開場で、天野さんは1885年場長ということなので、3~5代目くらいだと考えられます。今後、歴代の場長も調べてみたいと思います。
《参考》「マイドームおおさか敷地の変遷」より
http://www.mydome.jp/summary/transition/detail.html
1874年(明治7年)に大阪府庁が江之子島へ移転した跡地に、★「大阪博物場」が1875年(明治8年)設立されました。その後の1878年(明治11)には、「府立教育博物館」を併合し、産業見本市、図書館、博物館、美術館、動物園、植物園、舞台、公園がミックスした★総合産業文化施設となりました。1890年(明治23)4月24日には、英照皇太后・昭憲皇太后が大阪博物場に行啓され、大阪府によりこれを記念する碑が1940年(昭和15)建立されました。博物場の様々な施設のうち、図書館は1904年(明治37)に大阪図書館(現府立中之島図書館)に移管されました。その後、1914年(大正3)に後述の★「府立商品陳列所」がこの地に新築・再建することが、正式に決定されたことで、博物場は事実上の廃止となりました。これに伴い、同年、動物舎の動物180点が★「天王寺動物園」へ移転されることとなりました。象だけは大きすぎたので、深夜の松屋町筋を歩いて移動することとなりましたが、この象はサーカス出身だったために、音楽がないと動きませんでした。そのため、鳴り物入りでの移動が行われ、沿道には大勢の見物人が繰出して賑やかだったといいます。また、1917年(大正6)には美術館が「商品陳列所」に移管されるとともに、能楽堂が「天満天神社」に移築されました。
・・・「美術館」は、★1887年(明治20)10月に落成したとあります。
・・・大阪最初の美術館は、大阪府立博物場に★1888年(明治21)建設された「美術館(博物場中央館)」であると書かれています。著者「橋爪節也(美術史家)」さんは、紳也さん(工学博士)のお兄さんです。最強の兄弟ですね。心斎橋や道頓堀に近い竹屋町(現島之内)のペンキ屋に生まれ育ったということですが、紳也さんは「3兄弟」と話されていましたのでもうお一人おられるようです。調べましたがわかりませんでした。
【季刊誌CEL】
http://www.og-cel.jp/issue/cel/index.html
大阪ガス「エネルギー・文化研究所(通称CEL)」は過去から未来への歴史・時間軸と、内と外の地理軸とをかさねあわせ中長期の視座を踏まえ、社会や様々な場の動きを掴み編集して、これからのあり姿を研究・デザインして、社内外への情報発信を目的に、大阪ガスの企業内研究所として1986年に設立されました。多様なステークホルダーとの協働を通じた、理論と実践活動を組み合わせた社会への提言活動に取り組んでまいります。
《連載「美術都市・大阪 発見」第8回》/文★橋爪節也
おおさか美術館ストーリー「商都の博覧会で花ひらいた“美の殿堂”」
http://www.og-cel.jp/search/1176346_16068.html
日本人は、“美術館”を生活に無用で空疎な、「箱物」のイメージでとらえがちだが、世界の主要都市では、芸術的感動で人に生きる歓びや力を与える場であり、歴史を伝える教育機関であり、観光の拠点でもある。“美術館”こそ、ソフトそのものだ。都市を人体に譬えるなら、街の賑わいの記憶や感性を司る神経系統、脳の一部といえるかも知れない。さて大阪では?大阪最初の「美術館」という名称の建物は、本町橋東詰の大阪府立博物場に★1888年(明治21)建設された「美術館(博物場中央館)」である。★上田耕冲らがこの建物に描いた巨大な天井画が、★「関西医科大学」に移されて現存している。
https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000003471.html
★大阪2番目の「美術館」は、1903年(明治36)の第五回内国勧業博覧会で建設された美術館で、博覧会では洋画、日本画から彫刻、工芸、写真、印刷物など、膨大な点数の作品が展示された。建物は、博覧会終了後も大阪市立の大阪市民博物館として利用された。この二館は明治時代らしく殖産興業的な面が強かったが、次に1920年(大正9)の市議会で建設が議決され、東京、京都を抜いて、日本最初の公立美術館となるはずだった現在の大阪市立美術館が登場する。1925年(大正14)に誕生する日本最大の都市“大大阪”を文化面で支えるための美術館で、開館は1936年(昭和11)にずれ込んだが、学芸員中心の企画・常設展を主体に、作品を美しく鑑賞するための採光にも配慮する「近代美術館」を謳うのが先進的であった。この新館建設について日本放送協会の伊達俊光は、「わが大阪市の如き物質万能の社会」において「厳然たる精神的の美の殿堂」として重大な任務を果たし、「美術館が発揚する芸術的雰囲気がこの物質の塵都を幾許なりとも浄化」することを期待した(大阪毎日新聞)。戦後は、吉原治良の「グタイ・ピナコテカ」のような個性的な民間の現代美術館が出来たほか、万国博美術館を府立現代美術館として再開する運動を在阪の美術関係者が進め、府立では実現しなかったが、1975年(昭和50)に国立国際美術館として開館した(現在は中之島に移転)。1982年(昭和57)には、安宅コレクションの寄贈で大阪市立東洋陶磁美術館も開館する。
・・・「関西医科大学」の天井画を、ぜひ観たいものです。