《三井のお弓行事(友呂岐神社)》
http://www.city.neyagawa.osaka.jp/Recommend/bunkazai/neyagawashishiteibunkazai/1382525872950.html
友呂岐神社は鞆呂岐とも書き古代から皇室の荘園でした。御祭神の応神天皇(3~4世紀)別名大鞆呂命と申し上げ、鞆・・は天皇の立派な御姿の形容、呂岐は神を表す語で、トモロギの語源がしのばれます。この地は天皇の皇子仁徳天皇が茨田の屯倉を置かれ、太田の袗子はその時の伝説です。ここは皇室の別荘の営まれたところで、御所山と呼ばれます。又、菅原道真公左遷の時の通路に当り公を祀る神社が多く、公を祀った三井。田井・太間の格神社を合祀しています。大祭は10月16日、1月のお弓神事は美井(三井)に残る伝統行事です。このお弓式は毎年成人の日に、旧三井氏神社跡で行なわれていました。昔は、村役有力者の子弟が紋付・かみしも姿で弓を引きましたが、現在では地元から選ばれた20才の若者2人が引くようになっています。弓は交互に2本ずつ3回、計12本の矢を射ます。12本の矢は12ヶ月(1年)を意味し、矢の当たり具合でその年の天候と豊凶を占います。近年では「成人の日」の前日の日曜日に催されています。
《香里ヌヴェール学院中学校・高等学校(旧聖母女学院)》登録年月日:19970507
572-8531寝屋川市美井町18-10/072-831-8452
http://www.seibo.ed.jp/nevers-hs/
1921フランスのヌヴェール愛徳修道会から派遣された創立者メール・マリー・クロチルド・リュチニエ、および6名の宣教女が、大阪玉造カトリック教会にて語学などの個人教授を開始。聖母女学院は1923(大正12)設立許可を受け大阪市内に開校し、1925聖母女学院高等女学校となる。1932年(昭和7)北河内郡友呂岐村大字三井(現在地)校舎落成この地に移転しました。戦後新制聖母女学院中学校・高等学校となる。2017共学化し、校名を★「香里ヌヴェール学院中学校・高等学校」に変更。21世紀型教育導入による大胆な学校改革が始動。カトリックの人間観・世界観に基づく教育を通して、真理を探求し、愛と奉仕と正義に生き、真に平和な世界を築くことに積極的に貢献する人間を育成する。校門を入って正面の玄関から廊下で結ばれる「E」字形の鉄筋コンクリート造の校舎の設計は「日本の現代建築の父」と呼ばれる著名な建築家のアントニン・レーモンドによるもので、現存する数少ない彼の作品の一つとして、平成9年に国の登録有形文化財(建造物)となりました。
http://www.seibo.ed.jp/nevers-es/outline/facilities.html?PHPSESSID=tbmid7e2tag94u6vmkk4dlptb2
【アントニン・レーモンド】(1988~1976)
151-0053東京都渋谷区代々木5-58-1/03-3460-1171
http://www.raymondsekkei.co.jp/index.html
1919年(大正8)旧帝国ホテル設計監理のため、フランク・ロイド・ライトと共に来日したアントニン・レーモンドは1921年(大正10)、日本に設計事務所を開設。それがレーモンド設計事務所のはじまりです。戦前・戦後、日本に永く滞在し多くの作品を手がけました。その設計哲学を受け継いだレーモンド設計事務所は、今も常に独創的な作品を発表し続けています。
《成田山不動尊》
572-8528寝屋川市成田西町10-1/072-833-8881
http://www.osaka-naritasan.or.jp/
大本山成田山新勝寺の起源と関西の縁は古く、天慶の昔、関東で起きた「平将門の乱」平定のおり、大本山成田山新勝寺の開祖:寛朝大僧正が、ご本尊とともに、海路にて大阪の地を出発した事からはじまります。弘法大師空海の手によって開眼された不動明王のご本尊を持参し、関東まで参上した寛朝大僧正は、護摩法と不動明王のご霊験により乱を見事平定、その功績により開山・鎮座されたのが、現在の千葉県成田の地:大本山成田山新勝寺の始まりとされています。その為、関西の大本山成田山新勝寺への信仰も古く、特に明治時代からは信徒がさらに増加、大正時代には大阪庶民の信仰の中心である千日前★「水かけ不動」近辺に、成田山不動堂があった程でした。当別院の歴史は、大阪地区への成田山別院建立を望む声が高まる中、当時大本山成田山新勝寺の大篤信であり大阪府知事★実弟でもあった田辺真弘氏が、関西信徒を代表して大本山へ願い出られた事から幕を開けました。別院建立の敷地に関しては、古くより大阪方面から「鬼門」に当たるという事で開発の遅れていた香里の地が選定され、京都の鬼門:比叡山に延暦寺があるように、大阪の表鬼門であり京都の裏鬼門となる香里の地に、守護神として霊験あらたかなる成田山の不動明王をお祀りする事で、この地の発展も祈念する事になりました。そして、1934年(昭和9)★京阪電気鉄道株式会社から広大な境内地と堂宇が寄進され、大本山成田山新勝寺のご本尊不動明王のご分霊を勧請、遂に関西熱誠信徒待望の成田山大阪別院明王院(成田山不動尊)が誕生したのです。京阪電車や京阪バスに乗られたことがある方でご存知の方が多いとは思いますが、どの車両の壁にも必ず成田山★お札が掛けてあります。また香里園駅の別の呼び名が「成田山不動尊前」ともなっています。これは成田山不動尊(以下:当山)が昭和9年に、京阪電気鉄道株式会社がかつて経営していた香里遊園地跡地の一部の土地を寄進して施主となり建立されたことによります。開創以来、『家族の安全』『子どもの健やかな成長』など・・・、人々の切なる願いを真摯に受け入れご祈祷を捧げる事によって、皆様とともに歩む存在でありたいと願い続けております。日本で初めての専用祈祷殿でも知られる★『交通安全祈願』も、はじまりはその一例であり、現在では年間20万台のご祈祷車と200万人を越す参拝者をお迎えできるまでに発展させていただきました。正月三が日では約70万人の参拝客で賑わう。節分祭では芸能財界の各著名人が参加する豆まき式が行われます。
《伝・畠山義豊の墓》
室町時代に起こった応仁の乱(1467~1477)が終結した後も畠山氏の内紛は続きました。義就の子義豊(=基家)は★河内正覚寺城に政長を攻め自刃させましたが、その子尚順に明応8年(1499)攻められて伴抜庄(=十七箇所)で敗死した、と『応仁後記』に記載されています。伴抜庄は、本市の北部一帯と枚方市の南部の一部と考えられています。この義豊墓と伝えられている五輪塔は、昭和23年(1948)、現在地から西北数百メートルのところで発見され、成田山不動尊の客殿の庭園に置かれていましたが、昭和55年(1980)、今の地に新たな基壇を設けて安置されるようになりました。
《参考》河内正覚寺城跡(旭神社)
547-0006大阪市平野区加美正覚寺1-17-30/06-6791-4045
http://www.eonet.ne.jp/~asahi-jinjya/
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/syoukakuji.htm
《笑魂塚》建立:関西演芸協会
https://blogs.yahoo.co.jp/kansaiengeikyoukai
成田山不動尊の本堂手前の石段脇にあります。大きな自然石で、関西演芸協会が昭和34年に創立10周年を記念して建立しました。碑文には、昭和以降の物故芸人の追善供養と今後の同業諸師の霊を合祀することが記されています。玉垣には在阪テレビ局などの名が見られます。扇形の碑には、発起人である落語家の林家染丸、講談師の旭堂南陵、漫才師の砂川捨丸たち当時人気だった芸人の名がずらりと並びます。塚の横には「ハリキリの大阪弁が立てた旗」の川柳碑。大阪の川柳結社「番傘」を主宰した★岸本水府の作で、浪速芸人の心意気を詠んでいます。
《おまけ》珈琲館「オリエント時計台」
572-8528寝屋川市成田西町9-6/072-831-5645
《成田山学園》
572-0004寝屋川市成田町10-8/072-833-2028
http://www.osaka-naritasan.or.jp/manabi/youchien/
成田山不動尊(以下:当山)では、「人間形成の根底は幼児教育にあり」との考えのもと、仏教の心を教育の基本理念とし、「すこやかに・なかよく・すなおな」心の人間育成を願い、昭和26年に成田幼稚園を創立しました。昭和52年には学校法人成田山学園成田幼稚園となり、さらなる教育内容の充実をはかり、「すべての子どもに教育の機会を」の理念のもと、養護教育にも取り組んできました。そして園創設30周年には、当山境内地の一部を貸与し、「成田幼稚園自然教室」を開設。子どもたちが植物・生物を育てる事を通して、いのちの尊さ、いのちを育てる喜びを感じ、「心豊かに・明るく・のびのび」と育つよう教育活動を行っています。少子化や男女共同参画が進む現在、幼稚園での幼児教育の重要性は増すばかりです。そんな激動の現代社会を生きる子どもたちの幸福を願い、園長はじめ教職員一丸となって、ご本尊不動明王のご本誓のもと、日々の保育に精進しています。
《四方黒池》
四方黒池は、1945年(昭和20)ごろまで、現在の美井地区の田畑をうるおす灌漑(かんがい)用のため池としてその役割を果たしてきました。池の東側には山から清水が流れこみ、夏になるとホタルが乱舞し、笹を持ってホタルを追いかける里人のすがたが昭和の初期までみられました。1934年(昭和9)成田山新勝寺の大阪別院がこの地に鎮座(ちんざ)されると、その参道に沿って一定の町並みができ、住民は魚釣りや水遊び、水泳をしたりして楽しみました。1950年(昭和25)現在の美井地区より行政分離して「成田町」が生まれました。1958年(昭和33)三井地区がこの池の財産区財産を処分することになり、池の東側の部分を埋め立て、現在の四方黒池が成田地区の管理財産として残りました。昭和40年から60年ごろ(1965~85)にかけて成田東町や成田東が丘などの大規模開発が進むと、雨が降るたびに大量の雨水が池に流れ込み、池の東側住宅が浸水に悩まされるようになりました。そのため、1986年(昭和61)市下水道事業として池の南側道路に雨水幹線をつくり、四方黒池は親水公園として整備されました。その後、雨水が入りにくくなったので、1991年(平成3)に水質浄化策として、さく泉(掘りぬき井戸)が掘られ現在に至っています。
・・・そろそろ「八木邸」訪問の時間が近づいてきました。