《NEWS》2018.6.18朝日新聞デジタルより
大阪府北部を震源とする地震で、京都府大山崎町の寺院「妙喜庵」では、国宝の茶室★「待庵(たいあん)」の壁の一部に亀裂が入った。千利休が建てた現存する唯一の茶室とされる。同寺の境内にある重要文化財の建物「書院」でも欄間が倒れた。建築家の藤井厚二(1888~1938)の大山崎町の自宅★「聴竹居(ちょうちくきょ)」では、重文の母屋「本屋(ほんや)」の窓ガラスと土壁が破損した。京都府亀岡市古世町千歳山では、府道枚方亀岡線が落石で通行止め。十数個の落石が確認され、中には直径50センチ大のものもあった。JR京都駅(京都市下京区)の新幹線中央口近くでは、通勤客や旅行者ら約200人がテレビや電光掲示板で状況を確認した。壁際にいる人は座り込み、不安げな表情を浮かべた。タクシー乗り場では、150メートル以上の行列ができた。
《妙喜庵「待庵」》
618-0071京都府乙訓郡大山崎町竜光56/075-956-0103
http://oyamazaki.info/archives/761
http://www.eonet.ne.jp/~myoukian-no2/index.html
妙喜庵は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院のことで、山号は豊興山。妙喜禅庵とも称します。「妙喜庵」の寺号は、宋の大慧禅師の庵号からつけられたもので、連歌の祖である山崎宗鑑が住んでいたとの説があります。この庵には、なんと言っても国宝の茶室「待庵」があることにつきます。待庵は、日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休が作ったと信じうる唯一の現存している茶室です。庵三世、功叔士紡の時、世に天下分け目の天王山の合戦(山崎合戦)がおこりましたが、秀吉は、戦争が終わったあとも天王山に城を築き、本拠として半年間ほど住み、千利休を招いて城下に二畳の茶室を作らせたとしています。功叔和尚は利休の弟子といわれており、秀吉が山崎にて茶会を催した折には利休の手伝いをしていたようです。茶室はその後解体され、慶長年代(1596~1615)にこの妙喜庵に移されたといわれています。また他にも、室町時代の文明年間(1469~1487)に妙心寺の霊雲院書院を模して建てられたとされた書院:明月堂があります。この書院の正面に男山があり、その頂より月が上るのが眺められたため明月堂という名がつけられました。連歌の祖である明月堂は山崎宗鑑の旧居と伝わりますが、跡地として関大明神社の前が有力でありますがはっきりしていません。なお、今の建物は昭和初期に新築されたものです。
《聴竹居》
618-0071京都府乙訓郡大山崎町大山崎谷田31
/075-956-0030 聴竹居事務局(田邊均)携帯:070-2323-1928
2018年6月18日(月)午前7時58分に起きた地震で「聴竹居」にも被害がありました。安全確保を優先し、重要文化財としての災害復旧に万全を期するため、少なくとも6月30日(土)までは一時見学★中止いたします。ご理解の程よろしくお願いいたします。この地震で被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げますとともに、早期の復旧をお祈りいたします。
http://oyamazaki.info/archives/472
山崎の観光スポットで最も知られていない名所である。昭和3年に作られた環境共生住宅の原点といわれる建物。聴竹居。その価値を考えれば、一般の知られなさが意外に思えるほどの名所。日本の近代建築20選の建物であり、藤井厚ニという大正から昭和にかけて活躍した建築家★藤井厚二のものである。聴竹居があまり一般に知られていない理由は、建物規模の面で小さいことや、メディアの露出の低さにあるとは思う。文化財に登録もされていない上(めざしているそうです)に、地元のどの案内版にも出ておらず、小学4年生以下は入館禁止。さらに、18歳未満の学生・児童は先生もしくは保護者の付き添いが必要で、中の写真撮影も禁止されていて、山崎の秘境とでも言える場所だ。そして、ついに2017年6月国の重要文化財に登録されました。
・・・あらら~つい先日「八木邸(藤井厚二)」を訪問したばかりで、次は「聴竹居(藤井厚二)」そして「待庵(千利休)」に行きたいなあと思っていたところなんです。お亡くなりになった方々のご冥福と、家屋や文化財等の無事を祈ります。それでは香里園★「八木邸」の報告です。
《かほりまち(香里園駅東地区再開発事業)》
http://www.takenaka.co.jp/solution/needs/redevelopment/service15/index.html
★「竹中工務店」は特定業務代行者として再開発事業に参画し、新しい街づくりを推進。再開発事業の特定業務代行者として、地権者である地元住民の意向集約や行政との調整に奔走し、また設計や作業所等の社内部門と密な連携を図りながら、多くの関係者の想いを一つにまとめ上げ、プロジェクトの完成に向けて取り組んでいます。
ターミナルの真ん中には「香里園かほりまち」のシンボルがあります。「天河白道」成長していく人をイメージしてるそうです。そのモニュメントは、見る方向、高さ、角度、各時間、季節、天候で、形と光と影が刻々と変化しますので、同じ表情の時はおそらく無いと言われる素晴らしい作品との評判です。駅前ロータリーの島一つ(30m×15m)という大作であり、足元の低木が80センチ位に成長して完成といわれる、時の流れをも含んだ傑作で、駅前の石碑に★高畑雅一さんの名前も刻まれています。
【高畑雅一】(1962~)
昭和37年3月生まれ、日本を代表する新進気鋭の画家です。大阪府枚方市在住で某大手建設会社に勤務する傍ら、個人的に創作活動を行い個展なども開いておられます。1999年の作品「CROSSING」は、英国チャールズ皇太子殿下も審査員に御名を連ねる展覧会に出展され、国際連合(UnitedNations:UN)によって評価・選択され、2000年の国連の切手「OURWORLD2000」の図柄として採用されました。国連からの手紙によると、過去に国連の切手に絵が採用された画家達には、Vermeer, Leger, Henry Moore, Salvador Dali, Rene Magritte, Pablo Picasso,AndrewWyeth,HansErni,LeRoyNiemanなどの著名画家が名を連ねています。高畑さんも国連から「ピカソやダリなどの芸術家のクラスに貴方も仲間入りです」と手紙の中で評価されています。また、タイ王国の国王陛下から直々の招聘を受け、2005年にタイ王国で催される展覧会に作品を出展されました。
《香里園》
香里園は、京阪電車香里園駅の周辺で、★枚方市★寝屋川市にまたがって広がる地域です。枚方市には香里園町、香里園桜木町、香里園東之町、香里園山之手町と香里園の名がつく町名が四つあります。寝屋川市にも「こおり」と名のつく町名がありますが、枚方市と同様に「香里」の漢字を当てる香里本通町などのほか、郡元町のように「郡」の漢字を当てる町名もあります。なお、枚方市では「こうり」、寝屋川市では「こおり」と振り仮名を振っています。もともとこのあたりは、古代に茨田(まった)郡の役所があった郡衙(ぐんが)跡と推定され、郡の地名はこれに由来するといいます。江戸時代は郡村で、1889年(明治22)に7カ村が合併して友呂岐[ともろぎ]村となり、郡はその大字となりました。明治40年(1907)京阪電車の開通に先立って、阪神電車沿線の遊園地「香櫨園」(こうろえん)をヒントに、地元で香里遊園地計画が持ち上がりました。それを京阪電鉄が引き継いで、明治43年(1910)に香里遊園として開園し、駅名も「香里」となりました。「香里園」と改名されたのは1938年(昭和13)です。香里遊園は、明治43年の秋に、「菊人形」を開催し、人気を博しました。しかし、1912年(大正元)に現在の枚方パークへ移転して、以来枚方菊人形として広く知られるようになりました。現在も毎年秋に開催される菊人形は、枚方市の名物の一つとして根強い人気を誇っています。一方、香里遊園跡は、住宅地として開発されることになりましたが、大阪からみて鬼門の方角に当たるため、沿線開発が遅れていました。しかし、昭和に入って住宅開発が本格化し、「西の芦屋、東の香里園」といわれるように、★大きな屋敷が建ち並ぶ閑静な住宅街になっています。
《カトリック香里教会》
572-0081寝屋川市東香里園町31-3/072-834-3800
http://holyring.jp/?proc=japaneseslashirslashosaka_kori
聖堂は1931年カスタニエ大阪司教により建立、聖ヨハネを守護者にいただき今日まで歩んでこられた。敷地内には幼稚園、聖母女学院も併設されているが、当時は一面畑に囲まれた丘であったそうだ。
《友呂岐神社》
572-0082寝屋川市香里本通町19-13/072-832-0300