【ジョージ・リッキー】(1907~2002)
1907アメリカ、インディアナ州サウス・ベンドに生まれる。1913スコットランドに移住。長じてオックスフォードで近代史を学んだ後、パリのアンドレ・ロートのアカデミーに入る。卒業後帰国し、各地で美術の教師を務めながら制作を続ける。1942~45空軍で兵役に服し、最初のモビールを制作。1949インディアナ州立大学助教授に就任。ガラスで最初のキネティック・アート(動く美術作品)を試みる。その後もテュレーン大学、カリフォルニア大学などで教鞭をとる。1969★大阪万博のための「国際彫刻家シンポジウム」に参加。1972アメリカ建築学会美術部門賞。1981合衆国美術学校協会功労賞。1986ニューヨーク州知事芸術賞を受賞。1987ベルリン芸術アカデミー会員。2002ミネソタ州セント・ポールで死去。享年95。「私の芸術は自然と幾何学だ」と語るように、詩と分析科学の総合に基づき、風力を用いた独自のキネティック彫刻を制作し続けた。彫刻の世界に動きを持ち込んだ20世紀を代表する彫刻家の一人。
《重建懐徳堂》(1916~1945)
中井桐園の嫡子であった中井天生(木菟麻呂)は、懐徳堂の廃絶後もその復興を悲願としていた。また大阪朝日新聞の主筆であった西村天囚は優秀な漢学者でもあり、やはり懐徳堂の復興を祈念していた。主として天囚が大阪の財界や政界に働きかけて、1916年(大正5)に懐徳堂が再建された。これを江戸時代の懐徳堂と区別して重建(ちょうけん)懐徳堂と呼ぶ。
1911年(明治44)西村天囚らの発議により「懐徳堂師儒公祭」が挙行され、懐徳堂記念会が設立される。
1913年(大正2)懐徳堂記念会が財団法人として認可される。
1916年(大正5)大阪市東区豊後町(現★中央区本町橋)の府有地を無償で借り受け、重建懐徳堂を建立。
1917年(大正6)松山直蔵を教授、天囚を講師として講義を開始。
1923年(大正12)懐徳堂堂友会が発足。
1926年(大正15)書庫および研究室が竣工。
1945年(昭和20)、大阪大空襲により講堂や事務棟を焼失。鉄筋コンクリート造りの書庫のみ罹災を免れる。
1946年(昭和2年)事務所を再建。
1949年(昭和24)蔵書と職員を大阪大学へ移管。
1953年(昭和28)書庫・事務所を処分。敷地を大阪府へ返還し、重建懐徳堂は消滅する。空襲により講堂などを失った重建懐徳堂では、罹災を免れた書庫内などで講義を継続していたが、戦後の混乱期に独立した運営を続けることは困難であった。折しも新制大学としての大阪大学に法文学部が設置されることとなり、財団法人懐徳堂記念会と大阪大学との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の資料等と職員(書記)を大阪大学へ移管し、重建懐徳堂で行われていた講義等も引き続き行っていくことが確認された。
《懐徳堂記念会事務局》
560-8532豊中市待兼山町1-5 大阪大学文学部内/06-6843-4830
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitokudo/
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitokudo/historicmap/map.html
重建懐徳堂とは、大正二年(1913)設立の財団法人懐徳堂記念会が、大正五年(1916)に東区豊後町(現・中央区本町橋)に建てた学舎のこと。敷地は★「府立大阪博物場」西北隅にあたる三百六十一坪が無償で貸与された。講堂では、昭和二十年(1945)三月の大阪大空襲によって焼失(書庫を除く)するまで、大阪市民のための授業が行われた。授業には、中国の古典と日本の古典とを中心にした講義(平日の夕刻と日曜の午後の一週五回)、人文科学の高度な内容の定期講演(毎週土曜日)、一般教養的な通俗講演(月に一~二回)、年少者を対象とする素読科などがあった。職員は、講義を担当する常任の教授一名、助教授・講師(常任・臨時)・書記・司書若干名からなり、教授として松山直蔵、財津愛象、吉田鋭雄、講師(常任)として吉沢義則、林森太郎、武内義雄、稲束猛、秋月胤継、岡山源六、阪倉篤太郎、大江文城、張源祥などが教壇に立った。また講演には顧問の内藤湖南、狩野直喜の他、京都帝国大学や第三高等学校の教授を中心に、学外から多くの講師が招かれた。重建懐徳堂の事業運営費は、ほとんどが財団の基本財産と寄付とで賄われており、講演は無料、講義も低額の堂費(月額二十銭から二円)で受講できたため、多数の市民が来聴し、大阪の文科大学・市民大学の役割を果たした。なお、コンクリート造りの書庫に収められていて戦災を免れた重建懐徳堂の蔵書三万六千点は、昭和二十四年(1949)、懐徳堂記念会から一括して大阪大学に寄贈された。その図書目録として『懐徳堂文庫図書目録』(大阪大学文学部、昭和五十一年)がある。
http://www.mydome.jp/summary/transition/detail.html
場所は、現在の大阪商工会議所であり、ここには「西町奉行所」の石碑が建っている。
《旧制浪速高等学校》(同窓会HPより)
豊能郡桜井谷村柴原(現・豊中市待兼山町)
http://www.osaka-u.ac.jp/namikou/contents.html
「浪高創立70年」記念校史の編纂に当たり、公文書の調査が行われたが、学生簿などを除いて、大阪大学をはじめ関係諸機関のいずれにも存在しなかった。唯一、国立国会図書館に浪高創立に関する大阪府と文部省(当時)の往復文書がファイルされていた。興味深いのは大阪府が新設する高等学校の名称で、原文には「大阪府高等学校」となっていたのが、「大阪府」が抹消されて、「浪速」と訂正されていたことである。官立の大阪高等学校と紛らわしいので、文部省が訂正したものか──。
《旧制大阪高等学校》
東成郡天王寺村(現・大阪市阿倍野区)1962年には跡地に公団阪南団地(現・UR都市機構阪南団地)が建設され、現在に至っている。
改正高等学校令に基づき19番目の官立旧制高等学校として設立された。文科(甲類・乙類)および理科(甲類・乙類・丙類)よりなる修業年限3年の高等科を設置した。特にフランス語を専修とする理科丙類を設置したのは、官立高校のうち大高以外では東京高校のみである。生徒は大阪出身者が全体の2/3、市内の中学校6校の出身者だけで5割以上を占めた。卒業生には政治家・官僚は少なく、ジャーナリスト・学者が多いとされる。学生寮として「図南寮」が建てられた。第二次世界大戦後の学制改革により府立浪速高校と共に新制大阪大学に包括、大阪大学一般教養部南校の前身となった。
(同窓会HPより)
http://www.osaka-u.ac.jp/daikou/index.htm
青春の像(阪南団地内)昭和37年旧大高校庭に設置。平成21年11月★「大高の森」阪大豊中キャンパスに移設。大正12年に建てられた旧大高生徒集会所「黎明館」は、昭和35年に奈良県天理市の★天理大学構内に移設された。
・・・次は、「天理大学」に行ってみなければなりませんね。さて、大阪モノレール「柴原駅」までやって来ましたら、
《宇宙の花》作:新宮晋/設置:平成9年11月
「二尾池(柴原駅前広場)」柴原町4丁目14番地1
https://www.city.toyonaka.osaka.jp/machi/toshikeikan/okugai_zoukeibutsu/hokubu/utyuunohana.html
「宇宙の花」は、地上に住むすべての生命の源である水の持つ透明感、力強さを表現し様とした作品である。吹き上がり、落下し、飛び散る水のエネルギーを得て不規則に回転する水車は、陽光の下ではきらきらと輝いて虹を生み出し、夜は水中からの照明を受けて異次元の物体のように発光する。精密な機械のような水車と、水、光、風といった自然の要素が、この作品では一体となっている。最新の設備を持つ病院とモノレールの駅を結んで、「宇宙の花」は未来的な風景を演出する。
★市立豊中病院の建設にともない設置。病院前の二尾池は、かつてはこのあたり一帯に広がる大きな池だった。
《市立豊中病院》
560-8565豊中市柴原町4-14-1/06-6843-0101
http://www.chp.toyonaka.osaka.jp/index.html
1997年11月、古色蒼然とした岡町の旧病院から、柴原の地に聳え立つ新病院に移転し、輝かしい歴史の第一歩を踏み出しました。二尾池は南北に400メートル強と細長く、幅は50メートルしかないという、<うなぎの寝床>のような特殊な形をしていました。このユニークな地形を、どのように生かして病院建設をするのか、設計者は大いに悩んだことでしょう。病棟を高層化したいと思っても、大阪空港に近いため、航空法の規制で、8階建て以上は許可されません。最終的に決まったのが、病棟看護師の動線を短くし、患者管理に目が行き届きやすい現在の三角形の病棟。当時の日本の病院にはこのような三角形をした病棟のモデルはなく、世界的にもニューヨークのマウントサイナイ病院などが知られていただけでした。病院内の建設委員会でも、三角病棟をめぐって賛否両論。喧々諤々の意見が続きましたが、最終的には当時の木村病院長の英断で現在の形に決定しました。その後、日本でも三角形の病棟は珍しくなくなり、今では病院設計のひとつのモデルになったと言えます。
・・・「阪大」の最後を「新宮晋」さんの作品でしめくくれたのは、本当にラッキーでした。お疲れさん。