阪大(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【夢童由里子】(1944~2015) 

日本の人形作家、造形作家、アートプロデューサー、コラムニスト。京都市出身。京都市立芸術大学卒業。西陣織を使った衣装と、大陸的な和洋折衷の作風が特徴である。人形以外にも石像、ブロンズ像、金属・コンクリートを使った屋外彫刻などの作品も手がけ、造形作家としても幅が広い。企業顧問、アドバイザー、客員教授などを務め、講演回数も多数に上った。

 

 

《大阪大学会館》 

560-0043豊中市待兼山町1-13/06-6850-5977 

https://facility.icho.osaka-u.ac.jp/daigaku-hall/index.html

大阪大学会館は、これまで「イ号館」と呼ばれ、1928年(昭和3)に旧制浪速高等学校の校舎として建てられ、学制改革により大阪大学に移管されました。以降、旧教養部の建物として、また、近年は、共通教育本館として使われ、2004年(平成16)には、国の登録有形文化財建造物に指定されました。大阪大学が創立80周年の節目となる年を迎えるにあたって、「阪大人の共通の思いを寄せる施設」、さらには、「大阪における学術の伝統を受け継ぐシンボル」として、社学連携、産学連携、国際連携に関するさまざまな活動が行われるように、平成23年、新たに「大阪大学会館」として整備されました。

 

 

・・・階段部分だけでなく、「アセンブリー・ホール」にも中村貞夫さんの作品が掲げられているようです。

 

 

《NEWS》2015.11.23関西学生報道連盟UNNより 

戦後70年を迎えたいま、かつての戦争を物語る戦争遺跡は貴重だ。そんな戦争遺跡が関西の大学に残っている。大阪外国語学校の時代から続く大阪大★外国学図書館(箕面市)には、2枚の鉄扉がひっそりと置かれている。1945年3月13日深夜から14日未明にかけて、米軍のB29爆撃機が大阪を襲った「大阪大空襲」。その戦火から、約6万冊の図書を守り抜いた。大阪外国語学校から改称した大阪外事専門学校は、当時は大阪市天王寺区に校舎を構えていた。大阪大空襲で校舎や運動場にも焼夷弾が降り注ぎ、熱風にあおられた火の粉が窓と窓枠の隙間から書庫に入り込んできた。故白井正教授は、熱風で顔や手にやけどを負いながらも、錆びた金具を引っ張り鉄扉を閉め、図書を守ったという。外国学図書館の書庫3階には守られた図書の一部が「旧分類」とされ、いまも残っている。戦前、各教育機関に存在した天皇、皇后両陛下の御真影や教育勅語を納めた★「奉安庫(奉安殿)」。連合国軍総司令部(GHQ)の政教分離を目的とした神道指令によって解体・破壊されたものも少なくないが、大学に現存しているものがある。関西学院大では西宮上ケ原キャンパスの旧院長室内に現存。壁にある扉を開けると奉安庫が現れる。御真影の下賜があった当時の院長C・J・L・ベーツは、奉安庫の方に顔が向くよう自らデスクの向きを変えたと考えられている。阪大に残る奉安庫は、2010年に行われた豊中キャンパスのイ号館改修工事の際に65年ぶりに発見された。現在は★大阪大学会館に移設、保存されている。空襲を避けるカムフラージュのため黒塗りされた建物が、神戸大に現存している。前身校・神戸経済大(神戸商業大)の本館で、時計台のある六甲台本館だ。改修工事の際に黒塗りを除去したが、一部は今なおそのまま残っているという。大阪大文学研究科の飯塚一幸教授は「戦争を実際に体験した世代の語り部が少なくなる中、戦争遺跡は戦争をある意味で身近に感じさせてくれるものと言える」と話した。

 

 

【山口牧生】(1927~2001) 

1927(昭和2)年6月20日、福岡県戸畑市に生まれる。44年、神戸高等工業学校精密機械科に入学。46年、京都大学文学部哲学科に入学、はじめ印度哲学を専攻するが、のちに美学美術史に転科した。50年、同大学を卒業、翌年から大阪市立美術研究所に入所した。はじめ絵画を描いていたが、しだいに彫刻に関心をもつようになった。また、この同研究所で、福岡道雄、保田春彦を知り、影響を受けることになった。53年、第17回自由美術展に初入選、58年の第13回行動美術展に出品、60年には行動美術協会彫刻部の会友に推挙されたが、63年には同協会を退き、以後、団体に属することはなく、東京、関西の画廊での個展による発表活動をつづけた。68年、公共の場に野外彫刻の設置をすすめるグループ「環境造形Q」を、小林陸一郎と増田正和と結成した(88年に解散)。74年、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「股間の鳥」を出品し、京都国立近代美術館賞を受賞。75年には、第6回現代日本彫刻展に「日の鞍」を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞。76年には、第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「棒状の石あるいはCosmicNucleus」を出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞した。79年には、第8回現代日本彫刻展に「四角い石」を出品、北九州市立美術館賞を受賞。80年の第7回須磨離宮公園現代彫刻展、82年の第8回展でも、それぞれ神戸市教育委員会賞、国立国際美術館賞を受賞した。とくに第8回展の出品作★「15°」によって、翌年の第14回中原悌二郎賞を受賞した。また、環境造形Qの活動でも、84年に名古屋市名城公園に設置した「水の城」は、同年の名古屋市都市景観大賞を受賞し、翌年の第2回本郷新賞の対象ともなり、高く評価された。87年の第12回現代日本彫刻展では、「サン・サドル‘87」により大賞を受賞した。能勢の黒御影石を素材に、ときに表面にベンガラを塗るなど、ダイナミックなフォルムの抽象彫刻を制作し、自然と調和した野外彫刻の分野で高い評価をうけていた。 

 

【志水晴児】(1928~2005) 

東京都出身。東京芸術大学卒。石造彫刻を中心に、建築や広場などで環境彫刻も手がけた。 

 

【木村光佑】(1936~) 

http://ibaraki-art.org/ 

1955京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)日本画科入学、卒業後は広告代理店にてグラフィックデザイン制作に携わった後、デザイン会社を設立しデザイナーとして活躍しながら1968年に作家としてデビューを果たした。シルクスクリーンや写真製版をはじめ多様な製版・印刷の最新技術を駆使し、現在社会の虚像と実像入り交じる様々なイメージを重ね合わせることで、情報過剰な同時代人の視覚的経験を作品化し、デビューと同時に「時代の申し子」として立て続けに国際コンクールでの受賞を重ねていく。一方で、自由な版表現への挑戦は、当時の日本版画界においては異色であり、版画の範疇や概念に対する議論を巻き起こした。京都工芸繊維大学名誉教授(第9代学長)。茨木美術協会★会長。 

 

・・・大学本部棟401会議室には、大きな陶壁画があるそうです(「阪大NOW」115参照)。さて、先日の茨木市「現代美術展」でも、茨木市内各所に展示されている作品を堪能したところです。

 

 

【小山由寿】(1932~2012) 

1932年(昭和7)奈良県生まれ。旧京都美術大学彫刻科卒業。二科会常務理事。作品に、京都市動物園モニュメント「時の塔」三条大橋西南にある★「弥次喜多像」などがあります。などがある。脳内出血のため京都市上京区の病院で死去、79歳。 

 

《参考》「抱菊観世音」/當麻寺・護念院 

http://taimadera-gonenin.or.jp/cate-hime/post-1619/

慈悲深き表情で白い菊の花を抱かれ、背景の濃い群青色と相まって神秘的な雰囲気をまとっておられます。制作者でおられる日本画家「小山静陽」先生は、この作品に「持てる技術の全てを注いだ。」と話されています。また、この絵には、長年連れ添われたご主人、彫刻家★故「小山由寿」さんへの供養のお気持ちや、今、ご自身が元気でいられることへの感謝の気持ちも込められているそうです。 

 

・・・つい先日も京都ブログに「弥次喜多像」を掲載しましたし、毎年「葛城アート」に出品して「當麻寺・護念院」で「抱菊観世音」を観せていただいていたり、不思議につながっています。 

 

【児玉康兵】(1949~) 

1949広島県尾道市生まれ1971京都市立芸術大学彫刻科卒業1973大阪工業大学短期大学部建築科卒業1973~1978浦辺建築事務所勤務1978~1980ミラノ国立美術大学彫刻科留学1981児玉環境造形研究所1983石彫スタジオ開設(高槻市)尾道大学芸術文化部美術学科教授、大阪彫刻家会議会員、民族芸術学会、形の文化会。 

1996年(平成8)12月6日「厳島神社」が「原爆ドーム」とともに★世界文化遺産に登録されました。それを記念して平成12(2000)年11月1日宮島の桟橋前広場に建てられた石碑、これも児玉康兵さんの作品です。 

 

・・・興味深いこと・つながりが分かってくるので、丁寧にコツコツと調査・研究していきましょう。