阪大(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《豊中市立中央公民館》 

561-0802豊中市曽根東町3-7-3/06-6866-0555 

https://www.city.toyonaka.osaka.jp/shisetsu/koumin_library/chuo/index.html

1984年(昭和59)6月オープン。東に芦田ヶ池を臨み、水と緑とオフホワイトの建物の美しいコントラストは、アクア文化ホールとともに昭和60年度の大阪都市景観建築賞を受賞。生活文化関連の講座をはじめ、地域魅力発信講座、サイエンスカフェなど、多様なジャンルの講座を開催しています。 

●「三義塚と魯迅」 

1932年(昭和7年)2月、西村真琴博士は、戦争で傷ついた人々を救援するため、奉仕団の団長として中国を訪れ、活動していました。上海市を訪れた時、戦乱で廃墟となった三義里街の一隅に、飢えて飛べなくなった歯とを見つけ介抱しながら日本に連れて開りました。ハトは「三義(さんぎ)」と名付けられ、はじめは新聞社の鳩舎に入れていましたが、他の鳩とともよく慣れたので、とくに仲のよい一羽とともに、豊中市穂積(現在の服部西町)の自宅で家族同様に育てました。博士は小鳩が生まれたら、日本と中国友好の証として上海市に送るつもりでした。講演会のたびに仲のよいこの鳩をともない、鳩をとおして両国民の親善を説いたといいます。3月16日鳩はイタチに襲われて死んでしまいました。同情した村の人たちが野面石をもちこみ、塚を立て、博士の自宅庭先にある藤の根近くに、そのなきがらを埋めました。博士は、「三義」の絵に『西東国こそ異へ小鳩等は親善あへり一つの巣箱に』の歌を添えて、中国の文学者、魯迅に贈りました。魯迅は感動し、1933年6月に七言律詩『三義塔に題す』を詠み、この不朽の名詩を博士に贈りました。三義塚は、博士が1956年1月に72歳で亡くなった後、1981年の春に、博士の旧宅から、豊中市本町8丁目の孫娘の家の庭先に移され、大切に守られてきました。その後、「三義塚」は、1986年10月の豊中市制50周年を記念して、博士にゆかりの深い中央公民館に移され、今日にいたります。

 

 

●「西村博士と豊中市」 

博士は1883年(明治16年3月26日長野県松本市で誕生しました。1927年、44歳の時に、北海道帝国大学教授から大阪毎日新聞社入社を機に、豊中市に居住の地を移しました。1947年に豊中市議会議員に当選し、第5代議長を務めました。その後、豊中市公民館(現在の中央公民館)館長として文化・芸術分野などに多くの足跡を残すなど、豊中市の発展に尽くしました。2002年日中国交正常化30年を記念して「三義塚を顕彰する会」(代表小田定人)が三義塚の整備基金を設け、多くの方々や団体の錠剤により三義塚を再整備し豊中市が寄贈を受けました。市は、西村真琴博士と魯迅にまつわる三義塚を平和と友情の象徴とし市民の貴重な歴史的、文化的財産として顕彰いたします。2002年(平成14年)11月豊中市 

《参考》山田洋次監督が豊中市の名誉市民に 

https://www.city.toyonaka.osaka.jp/joho/kouhou/toyonaka-report/2016_06/0602.html

山田監督は豊中市で生まれ、2歳で満州に渡るまで豊中で過ごされました。その時の生家は今も残っており、映画「小さいおうち」のモデルとなりました。平成26年(2014)には市民グループ「とよなか山田会」と市の申し出により山田監督自身が豊中を訪れ、平成28年1月号の広報とよなかの淺利市長との対談では「豊中の家から僕の歴史は始まった」と話されていました。

 

 

《豊中市「屋外造形物」》 

https://www.city.toyonaka.osaka.jp/machi/toshikeikan/okugai_zoukeibutsu/index.html 

設置の由来が話題になるようなものや作品コンセプトがユニークなものなど、製作者の想いが込められています。こうした作品の楽しさやおもしろさを感じていただけるよう、市が管理している屋外造形物について設置の由来などをご紹介します。 

★非核平和都市宣言モニュメント「平和の呼び笛」作:吉田叡示 

阪急宝塚線曽根駅(曽根東町3丁目)付近 

https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/hikakuheiwa/monument/heiwayobibue.html

★「とよなか物語」第5号/特集アートの時間 

https://www.city.toyonaka.osaka.jp/miryoku/brand/toyonakamonogatari5.html

 

 

《池田市立石橋南小学校》 

563-0032池田市石橋4丁目6-1/072-761-6768 

http://www.school.ikeda.osaka.jp/isibasiminami-es/ 

★「石橋」のいわれ石 この石は、石橋駅南の最初の踏切を通る旧西国街道と旧能勢街道が交差する西側の小川にかかっていた石の橋で、明治40年(1907年)ごろまでは、幅2間(約3.6m)長さ1間の一枚板でした。石の中央にある浅い孔は、明治維新の時(1863年)に失脚(失敗して地位を失うこと)して京(今の京都)の都を追われ長州(今の山口県)にのがれる途中、この石橋の上で実美が馬をとめて、京都の空に向かって静かに祈ったときに、できた馬の蹄のあとであると伝えられています。

 

 

【冨長敦也】(1961~) 

1961大阪市生まれ 

1986金沢美術工芸大学大学院美術工芸研究科絵画彫刻専攻修了 

1988大阪★中之島緑道彫刻公募にて受賞(大阪) 

1990第3回三田彫刻コンペティションにて特別賞受賞(兵庫) 

1997(財)ポーラ美術振興財団在外研修助成を受けイタリアにて滞在・制作 

1998「ヤマの男たちのモニュメント」コンクールにて佳作賞受賞(福島) 

神戸学院大学創立30周年記念モニュメントコンクールにて一位指名 

2005あまがさき平和モニュメントデザインコンクールにて優秀賞受賞(兵庫) 

2013テキスタイルデザイナーのジャック・ラーセンが築いた庭園美術館LONGHOUSEに作品が収蔵される。第25回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)にて大賞受賞。2013年より、ハート型の石の彫刻を各地で人々と一緒に磨くことにより、世界中が石を通じて、つながりあえる「Love Stone Project」を開始する。

 

 

・・・「地平線のある風景(作:冨長敦也)」に会いたくて、阪大とは逆方向に商店街を抜けてきました。