HIROSHIMA(10) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《広島城》 

730-0011広島市中区基町21-1/082-221-7512 

http://www.rijo-castle.jp/RIJO_HP/contents/01_home/01_top/01_index.html

毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の★原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである。

 

 

別称は「鯉城(りじょう)」。広島城があった一帯は昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われていることから、この名がついた。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。現存する資料の中で鯉城の名前が使われた最も古い資料は、江戸時代後期に藩儒頼聿庵が読んだ漢詩『遊東郊』の一節である。由来については江戸時代に書かれた資料はなく、現在一般的に知られる由来は明治時代以降の資料からである。よって一部では鯉城の由来は明治期に考えられたと唱えるものもいる。 

 

 

 

外観復元された大天守は歴史博物館「広島城」として利用されている。公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)は公益財団法人広島市文化財団が指定管理者として、広島護国神社は同神社、堀は広島市がそれぞれ管理している。

 

 

《広島護国神社》 

730-0011広島市中区基町21-2/082-221-5590 

https://www.h-gokoku.or.jp/

明治元年12月、明治維新の戊辰の役において陣没された高間省三命以下七十八柱を、二葉の里に新しく造営された「水草霊社」に奉祀されたのが創建です。以来、大東亜戦争に至るまでの幾多の事変戦争において、戦没されたご英霊およそ九万二千余柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒、女子挺身隊等約一万柱を含む)の神霊をお祀りしています。水草霊社は明治8年に、官祭招魂社となり、同34年官祭広島招魂社と改称されました。昭和9年、御社殿の老朽化に伴い、西練兵場(旧市民球場の辺り)の西端に新社殿を造営し移転されました。同14年に広島護国神社と改称されましたが、昭和20年8月6日、至近距離上空で★原子爆弾が炸裂し、御社殿すべてを焼失しました。その後同地に小祠を設けて祭祀を続けてきましたが、広島市の復興に伴い移転を余儀なくされたため、復興奉賛会が結成され県民より淨財を募り昭和31年秋現在の広島城跡に新社殿が造営され、待望の復興を遂げました。昭和46年4月、天皇皇后両陛下(昭和天皇)の御親拝を契機に参拝者が急増し、社殿の老朽化も著しく手狭となってきたため、平成の御大典記念事業として、改修及び御社殿のお建替を計画し、県市民や地元企業の御奉賛によって平成5年4月、本殿拝殿を始め儀式殿や石烏居・石畳に至る諸工事が竣功し現在に至っています。

 

 

《広島市青少年センター》 

730-0011広島市中区基町5-61/082-228-0447  

http://www.y-center.jp/

 

 

★「旧廣島護国神社・被爆鳥居台座」 

原爆投下から71年、今なお残る被爆の証言資料 

http://www.y-center.jp/hibakutorii.html