《広島市信用組合》
http://www.hiroshimashi.shinkumi.jp/
「真心」の像には、被爆者である制作者★林万寿人の平和への願いが込められています。本店ビルを新築した昭和38年に設置され、シシンヨービルに建て替えられた今も、本店玄関右側に置かれ静かに広島の街を見つめています。この乙女の姿はシシンヨーのマシコット・キャラクターに発展し、「まごころちゃん」の名で広く親しまれて今日に至っています。平和記念資料館・東館にある★濱井信三像の作者でもあります。
【林万寿人】(1896~1985)
1919(大正8)広島高等師範学校付属中学校卒、東京美術学校入学。1931(昭和6)帝国美術院展覧会工芸部初入選。以後、帝展及び日展に入選19回。1949年(昭和
24)より広島県主催美術展覧会工芸部審査員17回、同運営審議委員7回。
【濱井信三】(1905~1968)
http://akibajuku.sakura.ne.jp/book/
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27331
初代の公選広島市長(在任期間1947~1955、1959~1967。渡辺忠雄市長を1期挟み通算4期市長を務めた)。胸像の銘文では濵井。一貫して核兵器の全面禁止を訴え、広島の父、または原爆市長と称される。広島平和都市建設法の成立に力を注ぎ、広島市中区中島町に平和を祈念する公園(広島平和記念公園)の建設、同じく市中心部への幅員100m道路(平和大通り)の建設を打ちだし、現在の広島市の街並みの基礎を造った。
《幟町中学校》
730-0014広島市中区上幟町6-29/082-221-4421
http://cms.edu.city.hiroshima.jp/weblog/index.php?id=j1021
《雪椿の乙女》作:茂木弘行
原爆の犠牲となった佐々木禎子さん、12歳(幟町中1年生)の死を悼み全国の子供達のみではなく遠く海外の子供達からの支援の手が差延べられた。像は★1956年の「子どもの日」に完成・除幕された。
【茂木弘行】(1945~)
http://www.makiko-doso.jp/makitalian/10.html
新潟県出身。1963東京芸術大学彫刻科に入学。1969東京芸術大学大学院修了。1971東京芸術大学彫刻科助手となる。1982上越新幹線新潟駅に★「雪椿の乙女」を設置。1988親不知に「W.ウェストン像」を設置。1989新潟市役所に「プレリュード」を設置。
《折り鶴の碑》設計・製作★前川義春
この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴にこめられた平和への願いを、広島の子どもたちが受け止めた証として建立されたものです。1955年、広島市立幟町中学校一年の佐々木禎子さんは、突然発病した原爆による白血病のため。12歳の短い生涯を閉じました。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて、1958年、広島の平和記念公園に原爆の子の像を建てました。病床で生き抜く希望を折り鶴に託したサダコの物語は、やがて国の内外に広がり、多く折り鶴が広島に届けられるようになりました。それら折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。そして、禎子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意志をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。2000年3月、広島市幟町中学校生徒会
【前川義春】
http://www.sculpture.art.hiroshima-cu.ac.jp/staff/yoshiharu-maekawa
1955福井県に生まれる。1982東京芸術大学大学院彫刻専攻修了1982同専攻の助手を務める(~'85まで)1985ドイツ学術交流会(DAAD)の奨学金を得て渡独。国立ミュンヘン美術大学ProtKornbrust教室入学。1991同大学卒業(Diplom)1994~広島市立大学芸術学部助教授、教授(現在に至る)。
自然界において優れた耐久性を持つ石材は、古代から現代まで世界各地で彫刻や建築の重要な素材として創作、技法研究が続けられてきました。日本においても自然の摂理を応用した独特の加工技術を編み出し、同時に禅庭のように日本の風土と精神性を背景に、世界に類を見ない昇華された表現形式を創り上げました。こうした中、石彫分野では多様性を見せる現代生活に即した公共芸術として、またランドスケープや作庭等も含め、新たな分野への研究・創作が盛んにおこなわれています。石材に関する伝統から現代までの技法研究をおこなうと同時に、石彫の新しい展開とその可能性をひろげるための研究と制作をおこなっています。
《広島女学院中高等学校》
730-0014広島市中区上幟町11-32/082-228-4131
1886年に砂本貞吉が開設し、アメリカから来日した宣教師のN・B・ゲーンスによって教育の基盤が整備された。国際交流や平和活動に力を注いでいる。2006年、長年に渡る平和活動が評価され学校法人としては初の★谷本清平和賞を受賞している。女院(じょいん)と通称される中高一貫の私立女子校であり、中国地方では最も歴史の長いミッションスクールである。完全中高一貫校である為、高等学校での生徒募集をしていない。2010年には、中学校舎と繋がっていた旧高校校舎は取り壊され、運動場側に新高校校舎が建設された。
《広島女学院高等女学校職員生徒慰霊碑》建立:1953年4月
https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/006465.html
女学院高等女学校1、2年生350人は、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地から1.2キロメートル)で建物疎開作業中に被爆し、大半が死亡または重軽傷を負いました。聖書の一節を刻んだ碑は、十字をかたどっています。碑は当初、女学院大学構内に建立されましたが、1991年(平成3年)に現在地に移されました。「原爆犠牲者之碑」の裏には聖書の一節が刻んであります。「昭和二十年八月六日の原爆に斃れた教職員十八名生徒三百餘名の霊を合祀して其平安を祈る昭和二十八年四月吉日廣島女學院これは復活なり生命なり我を信ずるものは死ぬときも生きん(ヨハネ傳)」
《参考》「谷本清平和賞」
http://www.hiroshima-peace-center.jp/peace_award/list.html
★第18回2006年11月12日(平成18年)学校法人広島女学院(教育団体)
早くから平和学習に取組み、学院が一丸となって世界平和実現に向けて行動している。
関西学院大学神学部を首席で卒業後、渡米して1940年にエモリー大学大学院修了。沖縄中央教会牧師を経て、1943年に広島流川教会の牧師に就任。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下の際に、爆心地から3kmの己斐町で疎開作業をしており直接の難を免れるが、広島市内に引き返して救護活動に従事。その後、原爆症により生死の境をさまようが奇跡的に回復。教会復興に尽力している最中、1946年5月、ピューリッツァー賞作家でもあるジャーナリスト★ジョン・ハーシーの取材を受けたことから、谷本の被爆体験が世界中に紹介され、著書『ヒロシマ』となって大きな反響を呼ぶ。1948年3月UP通信ルサフォード・ポーツの取材を受け、この記事の中で「ノー・モア・ヒロシマ(NomoreHirosima)」が初めて唱えられ、駐留米軍紙を経てアルフレッド・パーカーが平和運動のスローガンに用いて世界に広がった。1948年10月にアメリカメソジスト教会のミッション・ボードの招請により渡米。15カ月間に渡り31州256都市で講演を行ない、広島の惨状と平和を訴えるとともに、流川教会復興に奔走。のちにアメリカ上院で開会祈祷を行うなど、アメリカでは一躍時の人となる。しかし国内では、占領軍によるメディア統制(プレスコード)のために、原爆被害の実情も、谷本の活動もよく知られていなかった。また国内のキリスト教関係者の中には彼の事を原爆牧師とあだなして非難する人もあったという。1950年8月、ヒロシマ・ピース・センターを設立し、★ノーマン・カズンズとともに被爆した少女や孤児の救済活動として、原爆孤児の精神養子運動や原爆乙女の渡米治療に取り組む。1982年に流川教会牧師を退任。名誉牧師の称号を授与される。晩年は、広島市の外郭団体の広島平和文化センターの理事長などを歴任。1986年に死去。生前の功績を讃え、故人としては異例だが、エモリー大学から名誉神学博士の称号を授与される。その式典には第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターも参列した。死去の翌年の1987年にはヒロシマ・ピース・センターによって★谷本清平和賞が創設された。
《参考》「ジョン・ハーシー」
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-37350105
★広島市名誉市民「ノーマン・カズンズ」
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1188984095216/index.html
《NEWS》2016.6.10朝日新聞デジタルより
広島/自分の言葉で伝える
2週間前、現職の米国大統領が初めて被爆地・広島を訪れました。大窪シゲキさんのコラム「9ジラジ新聞平和号外」第10号は、一連のオバマ氏の言動に何を感じたか。平和記念公園で花輪を渡した高校生やリスナーの思いを届けます。花輪を渡す大役を担った★広島女学院高校3年並川桃夏さん(17)とは、約1年ぶりの再会でした。昨年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に向けて渡米した彼女の声をラジオと新聞から届けていたので、今回再び、彼女の言葉を聞きたいと思いました。あの日、あの時、あの場所に。広島の10代がすぐそばで立ち会えたことに意味があると僕は感じています。5月27日の記憶を彼女は語り始めました。「大統領の周りに流れる空気に圧倒され、緊張しましたが、その場にいられてすごくうれしかったです。広島の地で、核兵器なき世界を追求することの重要さを演説の中で伝えて下さって、本当に感動しました。被爆者の方と抱き合っているのを間近で見て、涙が出てきました。この事実を自分の言葉で未来に伝えていこうと思います」「広島で平和を学んできた同世代の皆さんと一緒に広島を世界に伝えられるようになりたい。今回の訪問をきっかけに、平和について自分なりに考えて、その気持ちを誰かに伝えることこそが第一歩だと私は思っています」彼女の意思は、ちゃんと後輩にも伝わっています。大統領の訪問前、広島女学院高校では1年生の山下緑さん(16)、岩本彩香さん(15)、横山果歩さん(15)を中心に有志が『プロジェクトオバマ』を立ち上げました。大統領へ学校訪問を呼びかけるビデオレターを製作。フェイスブックで発信した動画の再生回数は1万回を超えました。彼女たちの言葉に僕は深く感心しました。「大統領を退任されてからも影響力を持つ方だと思いますので、いつか訪問して頂けるように願い続けます。その始まりになればうれしいです」先輩たちの姿を見て、自分たちもそうなりたいと思い活動を始めました。先輩たちが築き上げてきた時間があるからこそ、今回の企画も進められました。後輩に同じように思ってもらえるような自分になりたいです」1945年8月6日から71年。広島女学院ではあの日の記憶が確実に受け継がれています。この素晴らしき継承をラジオから伝えると、9ジラー(リスナー)たちも感じたことを聞かせてくれました。「広島と世界をつなげられるような人間に私もなりたい」「同世代の子が真剣に考えていることを知れてうれしかった。私も他県の人に広島を発信できる人になります」「広島を伝えようとする輪が大きくなっているように感じます。私もその一人になる」「大統領の訪問以降、家族や友達と平和について考えることが増えました」「父は演説を聞いて目に涙を浮かべていました。今回の出来事は歴史にも刻まれ、私の心にも残りました」「大統領に全てを任せるのではなく、世界の皆さんがこれからを考えていかなければならない」「事実を知るだけではなく、広島にいるみんなと一緒に戦争を伝えていかなくてはいけないですね」一人ひとりが出来ることは微力かもしれない。だけど無力じゃない。全力でやれば、誰か一人には伝わると信じています。まずは、この記事を読んだ感想をすぐ隣の人に伝えてみませんか?そこから新たな一歩が生まれることを僕は願っています。
・・・ヒロシマから帰ってからが、本当の学習のように思います。アートを中心に観ていますが、何をどのように表現するのか、まさしく自分自身の問題と直結しています。