●「春の所蔵作品展」光と影の時代-1920~30年代の美術
2018年4月18日(水) ~7月1日(日)
展示室:彫刻展示スペース第1室第2室第3室第4室
当館は、「1920~30年代の美術作品」を収集方針の一つに掲げています。二つの世界大戦に挟まれた、変化に富んだこの時代の個性的な芸術を、絵画、彫刻、工芸の各分野の作品によりご紹介します。
・・・結構いい作品が所蔵されていて、感激です。
★ボストン美術館「パリジェンヌ展」時代を映す女性たち
2018年4月11日(水) ~6月10日(日)
時代の変化とともに様々な表情をみせてきたパリジェンヌ――マネやルノワールなどの巨匠が描いた女性の肖像、カサットやモリゾなど女性芸術家による傑作、カルダンやバレンシアガの斬新なドレスなど約120点を通して、18~20世紀のパリを体現してきた女性たちの姿に迫ります。
・・・「県美」に続いて「現美」へ。
《頼家之墓》
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206120180.html
比治山の麓にある★多聞院の裏手に、頼山陽の両親である頼春水、梅颸夫妻を初め、叔父杏坪、子聿庵、孫誠軒など、頼一族の墓が並んでいます。頼家は竹原の豪商紺屋の出身ですが、「三頼」と呼ばれる春水、春風、杏坪の三兄弟、春水の子山陽、その子聿庵など、いずれも学者として名をあげています。
https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/005986.html
春水は、はじめ平賀中南に就いて学び、大坂に出て趙陶斎に認められ、片山北海の混沌詩社において名を挙げ、懐徳堂★中井竹山兄弟と親交を結んだ。当時、大坂に尾藤二洲・古賀精里が在り、ともに程朱学を考究した。天明元年(1781年)、七代藩主浅野重晟が広島藩学問所を開く折りに招かれて教授となりました。彼の妻梅颸も文学、特に和歌に秀でていたと言います。春水の弟杏坪も、大坂で儒学を学んだ後、天明5年(1785年)藩学問所に登用されました。彼は文化10年(1813年)頃から郡代官、郡廻り、三次町奉行などを歴任して行政の上でも実績をあげ、一方では修史局を統括して藩内の地誌『芸藩通志(げいはんつうし)』159巻の編集にあたるなど、地方文化の向上に尽くしています。また山陽の子聿庵は、父が脱藩したため春水夫妻によって育てられ、後に藩校の教授になりますが、詩を好み、能書家であったと言います。なお、頼山陽の墓は、京都市東山区長楽寺にあります。
《比治山》
広島城築城以降、この地は発達した。比治山の北側には西国街道が通り商業地として発達し、比治山の東側の猿猴川沿いに「比治村」ができる。また山の南側は宝暦3年(1753年)の干拓により土地形成され明治以降も続いた。比治山自体は、江戸時代は藩有林で明治末期まで国有林であった。1872年(明治5年)に、旧日本陸軍が陸軍墓地の整備を決定。1898年(明治31年)、比治山は江波山とともに公園として整備することが許可され、そのころから比治山公園と呼ばれるようになった。1908年(明治41年)から広島市が公園として整備しだした。戦前から市内有数の桜の名所であった。また、当時はツツジの名所でもあった。1909年(明治42年)に御便殿が移設[17]。陸軍墓地と御便殿は2大名所となった。戦中、船舶砲兵団司令部(陸軍船舶兵)や電信第2連隊が駐屯していた。1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約1.8キロメートル離れたところに位置した。爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がらなかった等、比治山によって対照的な被災状況となった。被爆当日は「多聞院」が臨時★広島県庁として機能した。市内中心部の被爆者はここに多数逃げ込んでいる。戦後も比治山は引き続き公園として整備された。1949年(昭和24年)原爆傷害調査委員会(ABCC)が開所している。なお、戦前から1986年(昭和61年)まで東側に宇品線が通り、戦後1966年(昭和41年)から南側に新広島バイパス(国道2号)が通っている。1980年(昭和55年)、広島市が政令指定都市になったことを記念して★「芸術公園」として整備が決定し、公園内にモニュメントが置かれた。あわせて博物館建設構想が上がり、「広島市現代美術館」や「比治山公園青空図書館(現・広島市立まんが図書館)」が建設された。1990年代には、山を貫通する比治山トンネルが整備され、広島市中心部と段原地区とのアクセスが改善された。
・・・美術館に入るまでもなく、見どころ満載です。もちろん館内の、素晴らしいアートに期待膨らみます。
・・・やっと、入館です。