HIROSHIMA(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・広島の報告内容が多く、うっかりHIROSHIMA(2)をとばしていました。重要な場所なので後戻りします。「原爆死没者慰霊碑」の公式名は「広島平和都市記念碑」です。

 

 

《総務省》 

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/hiroshima_hiroshima_002/index.html

 

《参考》BuzzFeedニュースより  

5月27日、広島。オバマ大統領はこの光景を生涯忘れないだろう。戦後71年が過ぎ、初めてアメリカの現職大統領が被爆地、広島の地を踏んだ。広島平和記念公園、献花したアーチ型の慰霊碑の先に原爆ドームが見えている。被爆の悲惨さを、いまに伝える施設である。慰霊碑から原爆ドームが見えるのは、偶然の産物ではない。そこには一人の建築家の意志が込められている。彼だけが、取り壊しが検討されていた原爆ドームを、シンボリックなものと位置付けた。「悲惨な戦争を想起させるものは復興にそぐわない」「役に立たない」「経済的ではない」。こんな批判を受けながら、死者を慰霊する空間を作り上げた。彼がいなければ、オバマ大統領はこの光景を見ることはなかった。建築家の名前を★丹下健三(1913~2005)という。丹下は建築界のノーベル賞と称される、プリツカー賞を日本人で初めて受賞した世界的な建築家だ。なぜ、慰霊碑の先に原爆ドームが見えるのか。そこにはすべては設計に込められた、丹下の思想がある。 

 

《負の世界遺産》身近な疑問を解決するニュースサイトより 

世界遺産のうち、人類が犯した悲惨な出来事を伝え、そうした悲劇を二度と起こさないための戒めとなる物件がいわゆる「負の世界遺産」といわれるもので、その中でも有名なのはポーランドにある「アウシュヴィッツ強制収容所」(ポーランドの要望で、「アウシュヴィッツ・ビルケナウナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940~1945)」に名称変更)と広島の原爆ドームである。なお、ユネスコが公式に「負の世界遺産」の分類を行っているわけではない。世界遺産の登録基準のうち、以下の6条のみかこれと組み合わせた基準に基づき登録された。 

(6)顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの。 

「アウシュヴィッツ強制収容所」については、終戦後間もない1947年、ポーランド国会においてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を後世への教訓のために保管することが決定され、アウシュヴィッツ博物館が設立された。そして、世界遺産条約が、1975年に締約国が20か国を超え発効した。発効してまもなくの1979年に、「アウシュヴィッツ強制収容所」は、第一・第二強制収容所の遺構が第二次世界大戦における悲劇の証拠であり後世に語り継ぐべきものとして、世界遺産に登録された。

 

 

◆【広島平和記念資料館】◆ 

730-0811広島市中区中島町1-2/082-241-4004 

http://hpmmuseum.jp/

★本館の改修工事を行っています平成29年12月12日  

原爆の非人道性や原爆被害の凄惨さなどをこれまで以上に伝えていくため、平成22年7月に策定した「平和記念資料館展示整備等基本計画」に基づき、平成23年度から平和記念資料館の本館・東館を合わせた常設展示の全面的な更新を行っています。★東館展示を先行してリニューアルオープンした現在は、本館を閉館し整備を進めています。リニューアル後の本館では、原爆の非人道性、原爆被害の甚大さ・凄惨さ、被爆者や遺族の苦しみ・悲しみなどをこれまで以上に伝えます。全館オープンは当初平成30年7月ごろを予定していましたが、耐震改修工事スケジュールの見直しにより、★平成31年春(予定)まで延期することとなりました。ご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。

 

 

《嵐の中の母子像》建立:1960年(昭和35)8月5日 

http://www.hongoshin-smos.jp/sculpture/arashinonakanoboshizo.html

襲いかかる業苦に耐え、悲しみを乗り越えていく母親の強い愛情を示す像に市民の平和への願いを託しています。札幌出身の彫刻家で、「わだつみの像」をはじめ、人間愛に満ちた多くのモニュメントを残している★本郷新さんの作品。1959年(昭和34)第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折、原水爆禁止日本協議会から当時の浜井広島市長に、原水爆禁止運動推進への感謝のしるしとして、この像の原型となった石こう像が贈られました。その後、この大会の成功のために尽力した、広島市婦人会連合会が「平和記念公園への設置」を呼びかけ、ブロンズ像にするための募金活動を行い建立され、広島市に寄贈されたものです。

 

 

《原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑》建立:1971 年(昭和46)8月4日 

https://www.hiroshima-navi.or.jp/post/005883.html

1938年(昭和13)国民精神総動員法により、学校も戦争体制になりました。1941年(昭和16)に呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。戦争が激しくなると、初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられました。その結果、幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の被害にあいました。犠牲となった国民学校教師・子どもの数は、正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。碑は、原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表すもので、毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。制作者は、芥川永さんです。 

「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」 

被爆歌人★正田篠枝さんのこの短歌は、原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。

 

 

《平和大橋・西平和大橋の欄干について》 

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1305266528245/index.html

「平和大橋」、「西平和大橋」という名称は、「平和大通り」とともに、昭和26年(1951)11月に一般公募によって決定されたものです。この平和大橋と西平和大橋の欄干は、アメリカの彫刻家★イサム・ノグチ氏(1904~1988)が設計し、昭和27年(1952)3月に橋が完成しました。イサム・ノグチ氏は、日本とアメリカという二つの祖国を持ち、激動の時代を生きながら、各所で数多くの著名な作品を残しており、モニュメント、庭や公園などの環境設計、家具や照明のインテリアから舞台美術まで、幅広い活動を行った世界的にも名高い芸術家として知られています。 

1.「平和大橋の欄干」のデザインの由来 

平和大橋の欄干について、イサム・ノグチ氏は、「設計の際、私は、建設の理念、すなわち新たに自己の生活を建設する者の特に再建広島の理念を伝えるものとすべきであると考えていました。従って、私は、建設を意味する名前をその橋に付けたいと思います。」と述べており、「つくる」と命名しています。 

イサム・ノグチ氏は、もともとこの橋を「いきる」と名付けていましたが、同じ時期に、「生きる」という映画が公開されていたため、「いきる」から「つくる」に変更したというエピソードがあります。 

2.「西平和大橋の欄干」のデザインの由来 

西平和大橋の欄干について、イサム・ノグチ氏は、「出離の理念、すなわち「人生よさらば」広島がその記念となった悲劇の経験よさらばということを伝えるべきものと考えます。」と述べており、離別の理念をもって「ゆく」と命名しています。 

イサム・ノグチ氏は、もともとこの橋を、東側の平和大橋の「いきる」という命名に対して「しぬ」と名付けていましたが、平和大橋の名称を「いきる」から「つくる」に変更した際に、西平和大橋も「しぬ」から「ゆく」に変更したというエピソードがあります。 

※上記の内容については、財団法人イサム・ノグチ日本財団と協議し、作成しました。