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《NEWS》2018.5.5ヤフーニュースより 

端午の節句の「ちまき」東西で中身の意識が違うことが調査で判明 

端午の節句のお祝いで食べると言えば、関東では柏餅が多いですが、関西ではちまきという人が多いと思います。その「ちまき」、関東と関西で違いがあるようなんです。ウェザーニュースでは、2018年4月26日に、ちまきに関する調査を実施し、6,472人から回答をいただきました。その結果、北海道~関東甲信は中身がおこわ、東海~九州では中身が甘いお団子と回答している人が多いと判明。東海地方辺りで日本列島が二分してるではありませんか。 

北海道、東北、関東甲信、四国や九州の一部では、「おこわ」と回答した方が最も多い結果になりました。こちらは、いわゆる「中華ちまき」で、もち米と一緒に味付肉やタケノコ、シイタケなどを一緒に竹の皮で包んで蒸し上げたもの。端午の節句では食べない方も、中華街などで食べた事がある方は多いのではないでしょうか。 

一方、東海北陸、近畿、中国、四国や九州の一部、沖縄では「お団子」が最も多くなっています。こちらは、笹の葉に白くモチモチとした甘いお団子が包まれています。笹の葉の香りがほんのりついて美味しい一方、葉に付いてしまって食べにくいという難点もあったりします。 

唯一、鹿児島県のみ「灰汁巻き(あくまき)」と回答した方が最も多い結果となりました。これは、灰汁(あく)に漬け込んだもち米を竹の皮で包みこみ、さらに灰汁で炊き上げたもの。砂糖醤油や黒砂糖、きなこをつけて食すようです。他県民の筆者としては、一度食べてみたいです。 

端午の節句にちまきを食べるのは、元々中国で供物を捧げていた行事が由来しています。二千年以上も昔、中国にあった楚の国の屈原という詩人が、国を憂いながら汨羅の河に身を投げて死にました。その日が5月5日だったので、楚の国の人々は屈原をしのび、毎年この日に竹筒に米を入れて河に投げ入れ供養しました。これがちまき粽のはじまりです。これが、奈良時代に端午の節句の風習の1つとして日本に伝来。当時、都のあった近畿地方を中心に、(白く甘い団子を笹の葉で包んだ)ちまきが広まったようです。一説によると、その後も伝統を重んじる近畿地方では★ちまきを食べる習わしが引き継がれているようです。一方、端午の節句にちまきを食す風習があまり定着しなかった東日本や北日本では、のちに端午の節句に★柏餅を食べるのが主流となったようです。同じ「端午の節句のお祝いの食べ物」ですが、エリアで大きく違っているのは、歴史が大きく関係しているんですね。

 

 

・・・ということで、私は「塩伊」さんへ。 

 

《御菓子司「塩伊」》 

547-0045大阪市平野区平野上町2-9-2/06-6791-3059 

慶応元年(1865)から、なんと約150年以上続いている老舗の和菓子屋さん。屋号は、創業者にちなんだ「塩屋伊兵衛」から、「塩伊」となったそうです。それ以前は、和菓子ではなく、塩や薬を商いされていたようです。杭全神社のまん前(門前)、国道25号線「宮前」交差点を南へ入ったところにあります。お店には「福助さん」が座っています。着物など傷みが目立ちますが、お店に来るお客さんをもてなしているようです。

 

 

《福本商店「亀乃饅頭」》 

大阪市平野区平野上町2-9-10/06-6791-0977 

大念佛寺の宝物★「亀鉦(かめがね)」の伝えが由来となった「亀乃饅頭」、1個食べると10年寿命が延びるともいわれる、縁起の良いお菓子です。福本商店は寛永元年(1624)創業のお店で、300年以上当時と変わらない製法・味を守りつづけて現在で8代目になるそうです。

 

 

《参考》大念仏寺「亀鉦(かめがね)」 

http://www.dainenbutsuji.com/index.html

鎌倉時代、1323年(元享3)大念佛寺住・中祖法明上人が、播磨国加古にある教信寺に、融通念佛の勧進に行かれた時のこと。難波津から船に乗り、播磨国をめざして進んでいました。出航時には、凪ぎ状態の海が、どういう訳か、にわかに時化始め、船は、木の葉のごとく、大海原に弄ばれました。いよいよ、鳴保崎あたりで、波間に飲み込まれそうになり、上人の他にも、同乗者もいたことから、「他の者の命にはかえられない」と、上人は、大切な寺宝の鉦を海に沈めることで、嵐を鎮めようとされました。海に、鉦を沈めると、何事も無かったかのように、嵐はぴたりと鎮まったのでした。この鉦は、大念佛寺、元祖聖応大師が、鳥羽上皇から拝領した、鉦を鋳なおしたもので、鏡鉦と呼ばれているものでした。海も鎮まり、乗り合わせた人たちも皆、目的地に着くことが出来、法明上人も、勧進を終える事ができました。帰路の船上、鳴保崎にさしかかった時、海中から大海亀が現れました。その大海亀の甲羅の上には、海に沈めたはずの鏡鉦が。感激された、上人は、鏡鉦を受け取り、代わりに融通念佛を十遍を授けられました。後に、この不思議な話を伝え聞いた、後醍醐天皇は、この鏡鉦を見たいと申され、その頃から、この鉦は亀鉦と呼ばれるようになったということです。

 

 

《大念仏寺》 

547-0045大阪市平野区平野上町1-7-26/06-6791-0026 

http://www.dainenbutsuji.com/

http://www.dainenbutsuji.com/photo/photo05.html

★万部おねり(5月1・2・3・4・5日) 

「万部おねり」とは聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合された融通念佛宗総本山大念佛寺最大の伝統行事の通称名です。聖聚来迎会は無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わる時にあたって、私は極楽浄土から二十五菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀仏の願いを具体的に表現した儀式であり、貞和五年(1349)3月15日「観音様の蓮台に乗り、阿弥陀如来のお導きに従って、生身のまま往生の本懐を遂げるまでの儀式を営んでみたい。聖聚来迎の様相を実際にこの眼で見、また世の多くの人々にも見ていただきたいものだ」と中祖法明上人自ら行者となり、臨終不退、一念往生、上品上生を遂げるまでの法明上人の堅固な意思により始まったことを起源としています。「阿弥陀経万部会」は江戸時代第四十九世尭海上人の頃、「阿弥陀経を一万部読誦して、極楽往生と檀信徒の先祖供養」を願いとしてはじめられました。

 

 

・・・カエルもいました、嬉しい。