《芸術新潮》1981年12月号/通巻384号
特集|江戸絵草紙|小野忠重
小特集|眩華・雅叙園|藤原新也
展覧会で語る|激動の「1960年代展」
現代美術の夜明け|高松次郎
60年代のニューヨーク体験記|岩崎 鐸
連載★気まぐれ美術館|96|猫は昨日の猫ならず|洲之内徹
《猫は昨日の猫ならず》
こんなことがあった。あるとき、たぶん外房あたりの海の、どこかの断崖を描いたと思われる二十号くらいの油絵を預かって画廊に掛けていたが、偶然画面に手が触れると、一ヵ所、絵具が軟らかくてブヨブヨしている。★小泉清が死んで五年も経つというのに、まだ絵具が乾かないなんてことがあり得るだろうか。折柄お盆で、小泉清があの世から帰ってきているのではないかと、思わず四辺を見廻したりしたが、それは、チューブからいきなり画面へひねり出したイエローオーカーの、細い棒状の絵具の外側が先に皮のような具合に固まり、内部が空気に触れないために、いつまでも固まらずにいたのだった。それにしても、そういう小泉清の色には小泉独得の美しさがある。彼の好んで使ったプルシャンブルーの、あの澄んで淋しい青を、彼以外に私は知らない。あの強烈な赤でさえも不思議に淋しいのだ。色調を整えている隙などないとでも言うように、生の絵具をぶっつけに持って行く彼の色を見ると、私は「色は人生の狂熱である」と言ったゴッホの言葉を思い出す。しかし、小泉清の狂熱は燃え上がり、燃え拡がらない。あの異常なまでの盛上げのために、却って内へ内へと押し籠められて行くかのようだ。一見激情の奔流のように見えながら、彼の画面にはどこかに沈鬱の気配が漾い、孤独と寂寞が影を落している。何が小泉清の裡にはあったのか。人はよく小泉清の色に、半分日本人ではなかった彼の体質を言う。父親は★小泉八雲、即ちラフカディオ・ハーンで、ギリシャ人とイギリス人の混血のその父親と、日本人の母親との間に生まれた四人兄妹の三男が清である。もっとも、彼はそれを言うのを嫌った。中学では英語の出来がよくなかったという笑い話さえある。にも拘らず、どうしようもなく日本人ではないという面が彼にはあったらしい。死ぬまで、売るための、売れるような絵がどうしても描けなかったというのも、その妥協のなさのさせる業だったろう。猫は好きだったというが、好きな猫を描いてもこの有様だ。とはいえ、小泉清だけでなく、そういう絵かきがいまはいなくなった。猫は昨日の猫ならず。
【小泉清】(1900~1962)
1900(明治33)年12月、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の三男として東京の市ヶ谷富久町に生まれる。1919(大正8)年4月、東京美術学校(美校、現・東京芸術大学)西洋画科予備科へ入学。同年9月には本科1年に進級。同期生には岡鹿之助がいた。だが1921(大正10)年、肺に異状があり入院、美校を中退。1923(大正12)年に針シヅと結婚、翌年長男、5年後には長女誕生。このころは絵筆をとることなく、趣味のヴァイオリンで映画館の楽士として働いていた。1934(昭和9)年、中野区鷺宮3丁目に新居を築く。生活のためビリヤード場を併設、翌年、画室を増設。このころより独学で洋画を学び、創作することが多くなったが発表はしなかった。1946(昭和21)年3月、里見勝蔵の勧めにより読売新聞社主催第1回新興日本美術展に初めて出品、読売賞を受ける。翌年10月、銀座シバタギャラリーで初の個展。その案内状に会津八一が推薦文を寄せている。「小泉清君を推薦する」いまから三、四十年も前、私が早稲田中学の教師をしていたころ、生徒の絵の展覧会に一枚の絵を見て、まだ一年生であったその作者に懇望して、もらい受けて自分の下宿に懸けていたことがある。それが清君を知った最初であるが、その頃から清君は、おちついた、考えぶかそうな、自信ありげな、その年配としては珍しい少年であった。/のちにこの少年を上野の美術学校へ入れるということになって、しばらく私の内へ清君を引き取って半年あまりもいっしょに暮らしたこともある。/それから私の身の上も清君の方もいろいろに変わってきたが、身の上がどう変わっても、清君は、いつも澄みわたった気持で、自分の芸術を見つめながら、大切にしてきているのは変わらぬらしい。
さらに翌1948(昭和23)年には、梅原龍三郎の推薦により第2回一燈美術賞を受賞。1954(昭和29)年、国画会会員として迎えられ、初めて美術団体に所属する。しかし、1961(昭和36)年12月、妻シヅが急逝した3カ月後、後を追うように自らの命を絶つ。たとえば「自画像」の、チューブから絞り出した絵具をそのまま塗り重ねていくような、絵具の盛上げを特徴とする絵。洲之内徹は生前の小泉清と面識はなかったが、小泉の自死後に長男・閏の妻から★「猫」の絵を購入する。しかし、現代画廊に掛けても買い手はつかず、スタッフの女性たちからは気味が悪いから置かないでくれと抗議を受ける。購入の理由について洲之内はこう述べている。「この絵が小泉清らしい美しさを持った絵だと思ったからにはちがいないが、同時に、この白猫に漂う一種の鬼気の如きものに、伝え聞く小泉清という人を想像したということもあったかもしれない。」洲之内コレクション(宮城県美術館所蔵)には、この「猫」も「自画像」も入っている。
●新潟市美術館
「洲之内徹と現代画廊-昭和を生きた目と精神」巡回展
2014年4月12日(土)~6月8日(日)
http://www.ncam.jp/exhibition/1908/
http://bihadasabo.net/hp/2018/02/18/spot111/
洲之内徹『気まぐれ美術館』。その書き出しは、新潟★「横雲橋の上の雲」から始まった。文学者、画廊主、美術収集家として知られる洲之内徹(1913-1987)は、1961年より小説家・田村泰次郎から引き継いだ現代画廊で、個性あふれる数多くの作家を紹介しました。また、雑誌『芸術新潮』に14年間(1974-1987)165回にわたって、美術エッセイ「気まぐれ美術館」を連載し、その独特の語り口は多くの熱心な読者を獲得し好評を博します。洲之内は「五十代の終わり頃から六十代にかけての十年余り、私の身の上に起ったことのすべての背景には新潟がある」と振り返っていますが、特に1969年以降、新潟との縁が深まり、阿賀野市・出湯温泉の石水亭を定宿に度々新潟を訪れて、佐藤哲三や田畑あきら子、峰村リツ子、木下晋など、多くの新潟ゆかりの作家たちも現代画廊の展覧会や「気まぐれ美術館」で取り上げました。洲之内の没後、手許に遺された作品群は、現在「洲之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されています。本展覧会は、このうちの半数をこえる作品のほか、彼の著作の中で語られた作品や、現代画廊の初期にかかわる作品、洲之内が画廊経営を引き継いだ後の作家の作品など、56作家約 190点と関係資料により展示構成いたします。洲之内徹という昭和を生きた一人の人間の目と精神を通して、戦後の新しい近代美術史像が生成されていく過程のひとこまを垣間見ると同時に、なぜ人はかくも美術に愛着をもつのか、という問いにあらためて思いをはせる機会ともなるでしょう。
《NEWS》2010.6.12朝日新聞デジタルより
「展示品にカビ」新潟市美術館が休館 地域への貢献、葛藤続く
新潟市美術館が7日から一時休館に入った。展示した作品にカビが発生するなどの騒ぎが起き、館長が解任される事態に至った余波だ。8月末までの休館中に、収蔵品の総点検と施設改修を行う。問題の背景には、「地域社会への貢献」をめぐる公立美術館ならではの葛藤がうかがえる。休館は、騒動を受けて新潟市が4月に設けた「市美術館の評価及び改革に関する委員会」(委員長=金山喜昭・法政大教授、委員6人)の議論を経て決まった。すきま風が入り込む非常口など施設の不備や、収蔵品のずさんな管理などが、行政評価を専門とする上山信一・慶応大教授や、柳沢秀行・大原美術館学芸課長ら委員から厳しく指摘されたためだ。騒動の発端は2009年7月、現代美術展「水と土の芸術祭」で、館内に展示された作品の土壁にカビが見つかったこと。今年2月には、別の展覧会で作品からクモなどが見つかった。同館は4月に仏像展を予定していたが、文化庁は管理体制に不安があるとして国宝や重要文化財の展示を認めなかった。そのため会場は別の場所に変更。篠田昭・新潟市長は3月、館長だったアートディレクター★北川フラムさんを解任した。騒動は、北川さんの存在抜きには語れない。北川さんは、現代美術を通して地域の活性化を実現する手法が高く評価されてきた。その代表例が、新潟県内で3年に1回開かれる国際美術展「大地の芸術祭 越後妻有(つまり)アートトリエンナーレ」だ。里山を背景に廃校などに現代美術を展示し、住民と鑑賞者が交流してきた。この実績を評価した篠田市長が2007年、館長に招いた。「利用者数の低迷や高齢化が進み、館で扱う『美術』の枠組みも狭まっていると感じた。誰もが親しめる、開かれた美術館をめざした」と篠田市長はいう。市長の要望を受けて、北川さんが企画したのが「水と土の芸術祭」だ。「今の美術館にはその土地固有の力や価値を市民とともに明らかにする使命がある。絵画や彫刻など従来の分野に収まらない、場と人をつなぐ美術が求められている」と北川さんは話す。一方、就任と前後して、美術館に長年在籍した学芸員3人が次々と異動。これをきっかけに東京や地元の美術関係者の間で北川さんへの批判がくすぶり出した。昨夏には「新潟市美術館を考える会」が結成され、批判の声をあげはじめた。「考える会」の会長に就いた元新潟市美術館長で美術評論家の林紀一郎さんは、美術館や博物館の活動の柱として「収集・保存、研究、公開」を挙げ、「基本の三つがきちんとできなくては見世物小屋、イベント会場と変わらない」と厳しい。新潟市美術館はピカソやボナールをはじめ、西洋や日本の近・現代美術と、地元ゆかりの作品を所蔵する。林さんは「美術館は地域にとって観光施設であり、美を学ぶ生涯学習の場」という。「評価及び改革に関する委員会」は、3回の議論を経て、新たな展開を見せている。カビ、クモの発生については「管理ミス」として、館長だった北川さんの責任を指摘した。だが、それとは別に、北川さんの館長就任前へさかのぼる運営上の問題点が出てきたのだ。収蔵品の購入方針や選定の不明朗さがその一つ。さらに、保管中の作品のうち1675点は、通常は数カ月で返却される「借用品」なのに、少なくとも3年以上保管されており、10年を超すものもあることがわかった。調査はなお継続中だ。金山委員長は「市民に納得のいく説明をし、美術館の運営を徹底的に透明化すべきだ」と話す。 誰のために、何のために、公立の美術館はあるのか。美術評論家の北沢憲昭さんは「これからの美術館は、明治以来の啓蒙装置から『生きる技術としてのアート』の拠点としての機能も担う。美術館の役割を改めて考える時期にきている」と話している。
新潟市美術館は開館30年を迎えるのを機に、老朽化した設備などを改修し、平成27年7月19日、リニューアルオープンしました。