・・・個展会場となる宿院・山之口商店街「GALLERYいろはに」の行き帰りに、気になるリニューアル建築があります。
《堺市民会館(フェニーチェ堺)》
590-0061堺市堺区翁橋町2-1-1
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/bunka/geibunhall/index.html
市民会館は、昭和40年の開館以来、鑑賞や交流など市民の身近な文化芸術活動の場として親しまれてきましたが、施設・設備の老朽化に伴う建て替えのため、平成26年3月31日をもって閉館しました。48年間にわたってご利用いただき、ありがとうございました。
このたび、新施設の名称を「(仮称)堺市民芸術文化ホール」とし、新施設における事業や運営管理体制、利用ルールや料金の在り方などの考え方をまとめた運営管理方針を作成しました。
現在建設中の本市における芸術文化の創造・交流・発信の拠点施設となる、「堺市民芸術文化ホール」の愛称が★「フェニーチェ堺」に決定しました。「フェニーチェ」は、イタリア語で不死鳥を意味しております。本市は、大坂夏の陣、第二次世界大戦などによって焦土と化しましたが、その都度、不死鳥のように蘇ってまいりました。ホール敷地南側に面する国道310号には、こうした炎の中から新たな生命を得て生まれ出る不死鳥のように力強く立ち上がるという思いが込められており、市民から「フェニックス通り」として親しまれております。このように「フェニックス」は、堺の悠久の歴史の中で常に前を向いて歩んできた先人の想い、そしてそれを受け継ぐ我々の決意を象徴的に表す言葉です。その言葉をイタリア語で表現することにより、中世において、自由・自治都市、また国際貿易港として大いに繁栄し、イタリアの自由都市・ベニスのごとしと称されていた堺のまちを想起させることから、新ホールの愛称に最も相応しいとして決定いたしました。
現在建設中の本市における芸術文化の創造・交流・発信の拠点施設となる、堺市民芸術文化ホールのロゴマークが決定しました。飛翔する「不死鳥」と市民を表す「人」をモチーフにし、フェニーチェ堺と市民との一体感やフェニーチェ堺に人々が訪れることで生まれる賑わいを表現しています。4つのモチーフは、芸術文化の「創造」「交流」「発信」「未来への飛躍」というメッセージを込めています。本市の芸術文化の殿堂となるフェニーチェ堺が「堺の芸術文化を未来に向かって飛躍させ続けよう」という堺市民の願いを表現しています。
★「SACAY」の表記について
中世において宣教師により記された、ヨーロッパでの印刷による単独の日本図としては最初の図となるテイセラ/オルテリウス「日本図」(1595年)に記載された本市の表現です。国名以外で表記があるのは、堺と都、鹿児島の三都市のみであり、自由・自治都市、また国際貿易港として大いに繁栄した当時の堺を彷彿とさせる表現としています。
《参考》 有限会社「テイスト」
http://www.tasteinc.net/taste.html
【呂宋助左衛門】(1565?~没年不詳)
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/054.html
江戸時代の作家・武内確斎の作といわれる『絵本太閤記』によると、戦国時代の終わりに東南アジアの島から「壺」を日本に持ち帰った人物がおり、彼こそが堺の商人・納屋助左衛門(通称呂宋助左衛門)であるとされている。助左衛門は永禄8年(1695)に堺の納屋衆と呼ばれた商人・納屋才助の子として生まれた。長じて彼は、堺を本拠地として東南アジアのルソン島すなわちフィリピンまで海を渡り貿易商を営んだ。文禄3年(1594)には、同じ堺出身の茶人・千利休の橋渡しにより、時の天下人・豊臣秀吉にルソン島で仕入れた「壺」を献上したとのことである。茶人としての秀吉はこの壺を見て心を動かされ、並みいる武将達にもこの壺を強く推奨した。その結果、武将達はこぞって「壺」を注文したという。「ルソンの壺」に目をつけた助左衛門には、先見の明があったことになる。秀吉の庇護を受けて富と名誉を手にした彼は、華美な生活を好んだそうである。そうしてあまりに贅沢をしたため、慶長3年(1598)には、石田三成からありもしないことを悪しざまに告げ口され、秀吉の怒りを買って邸宅没収などの処分を受けることとなった。ところで、一説には秀吉に献上した「ルソン壺」は、実は宝物などではなく、あろうことか便器だともいわれている。であればこのことが秀吉の心底の怒りをかった本当の理由かもしれない。ただ、助左衛門は事前に情報を察知し、直ちに行動した。壮麗な邸宅や財産の多くを菩提寺である堺の大安寺に寄進し、自分はルソン島へと脱出したのである。その後、彼は慶長12年(1607)にルソン島からカンボジアに渡り、ここでもカンボジア国王の信任を得て、日本から訪れる商人の元締めとなった。助左衛門は、かの地で再び商人としての成功を得たのである。彼は日本には戻ることなく同地で没したといわれるが、没年は不詳である。
堺港のプロムナードの途中にステージのようなところがあり、海に面して呂宋助左衛門の堂々たる銅像が立っている。その像は海を見つめ、はるかルソン島に想いを寄せているように見える。大河ドラマ『黄金の日々』の放送を記念して★堺市民会館の敷地に立てられていたが、同館の建て替えに伴い、ここに移設されたとのことである。
・・・「箱もの」の建て替えが難しい時代にあってかなり大規模な工事です。
・・・工事現場の横に「歩道橋」があり、進捗状況が見て取れるのがありがたいことです。