・・・柏原市「リビエールホール」は大和川沿いにありますが、
《大和川の風景》
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072800029/
大和川が付け替えられて310年ほどになりますが、今でも元の大和川を感じることができる場所が少なくありません。JR大和路線の西側が周辺より高いのは、旧大和川の堤の名残です。旧大和川の堤防は、神社や墓地として利用されていたところが多く、今も昔の堤防の上に残っているところがあります。そして、周りの土地よりも高いところを流れる天井川だったため、今も川が流れていたところは、周りよりも高くなっています。
《中甚兵衛ゆかりの地》
柏原市内にある大和川付け替え地点(上市2丁目、柏原市役所の北西、安堂交差点の北)は堤を築いて大和川の流れを留めたことから★「築留(つきどめ)」といいます。平成2年(1990)に治水記念公園として整備され、中甚兵衛の銅像が立っています。この銅像は甚兵衛着用と伝えられる陣羽織を着て、左手に丸めた書類を持ち、右手は遠くを指差しています。彫刻家・高橋宏至氏の作で、柏原ライオンズクラブから平成元年(1989)に寄贈されたものです。像以外にも、説明板や付け替え250周年の記念碑などが立っています。近鉄大阪線安堂駅または近鉄道明寺線柏原南口駅から徒歩3分のところです。
※「中甚兵衛の生涯」
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2015072600087/
《了意川と船だまり跡》
旧奈良街道には柏原船の運航に携わった、重要文化財★三田家や登録文化財★寺田家が残っています。柏原船の船だまり跡(現在は児童公園)も見学できます。三田家住宅付近には、了意川がその景観をよく残しています。
《河内の古民家スタンプラリー》
2017年11月1日(水)~11月30日(木)
今年も、11月の期間中、「河内の古民家めぐりスタンプラリー」が開催されます。古民家13住宅をめぐり、8つ以上スタンプを集めると、抽選で素敵な景品が当たります。奮ってご参加ください。
①スタンプラリー台紙を各古民家にて購入。(1枚あたり参加協賛金として100円)
②参加古民家13住宅を巡り、スタンプを集める。
③8スタンプ以上集めて応募すると、素敵な景品を抽選でプレゼント!
・・・昨年、残念ながら見学できなかった柏原市の古民家、「今年こそは」と参加しました。
《柏原市今町》
平城京以降の主要な街道であった★旧奈良街道に沿った街道町として発展していたが、江戸時代以降は柏原船営業の商家等が栄えた町である。柏原船は寛永13年(1636年)から始まり、旧大和川洪水の被害地復興のため平野川に荷船を通して大阪と結び、その収益で荒無地の開発も行うとするもので、最盛期には70人の商人を数えたと言う。通りに面して現存する三田家は大阪から柏原に移り住み活躍した商家で、明和3年(1776)建替当時の建築様式を知る上でも貴重である。
《奈良街道》
大阪市と奈良市を結ぶ街道の1つで、唯一山越えをしない街道から重要視された。大阪市浪速区大国町から四天王寺、八尾市、柏原市を通り、大和川の横谷から奈良県王寺町、斑鳩町、大和郡山市を経て奈良市にいたる。現在の★国道25号線に相当する。
《三田家住宅》
582-0002柏原市今町1-6-22/072-973-1501
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014082300024/?doc_id=1536
奈良街道に面した町家で、裏は★了意川(平野川)に接し、柏原船の積荷をそのまま荷揚げできる造りになっていました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以後大きな改築を行われず今日まで遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示されるとともに当時の生活・経済状況も窺い知る事が出来る貴重な資料として、文書類も合わせて重要文化財に指定されています。
※「了意川」
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2017010800023/
了意川とは、柏原村の東寄りを北へ流れている川です。かつて久宝寺村★了意が船を通すために整備をしたために了意川と呼ばれるようになったということですが、詳しいことはわかっていません。この了意川(了意井路ともいう)を下ると、平野付近から下流は平野川と呼ばれ、大坂の京橋で淀川に合流していました。旧大和川水系の一つですが、それほど川幅はなく、水量も余り多くない川です。大和川付け替え後は、新大和川の水を青地樋から取水しています。
【安井了意】
久宝寺の人で16世紀末に亀井村から大坂まで船を通そうと平野川を広げました。了意の貨物輸送の試みは、営業的には失敗に終わりましたが、志紀郡の代官末吉孫左衛門によって受け継がれ、柏原・大坂間で荷物の輸送が盛んに行われました。
平野川は百済川ともいい、柏原の青地楯及び弓削の笠松橋から、大和川の水を引いて弓削から竹渕に至り、竹渕川とも称し、平野の東辺を流れて平野川と称し、今里をすぎて京橋から淀川に流入している川筋である。また一名了意川ともよばれて、早く豊臣秀吉の家臣片桐且元の代官下代井上小左衛門の配下にあった久宝寺村の安井了意という者が、亀井村の墓地の南の馬ヵ制という所から、この井路筋を浚えて、大阪城の東猫間川へ向って通船できるように認可を得たが、水量少い上に輸送荷物の依頼が少かったので、間もなく失敗に終った。これによってこの井路筋を了意井路というのであっ て、 今に了意川、丁意橋の名が残っている。
《寺田家住宅》
582-0002柏原市今町2-1-14
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014082300123/
奈良街道に面した江戸時代後期の町家です。主屋、離れをはじめ7棟の建物が登録文化財となっています。寺田家は、江戸時代から北条屋の屋号で肥料問屋や柏原船の運航を行ってきました。内蔵には柏原船の舟板が外板に使用され、柏原船を偲ばせます。主屋は桁行(けたゆき)八間、梁間六間、二階の天井が通常より低い「つし二階」で、街道の歴史的景観を残す貴重な建物です。
・・・ご両家ともに、現在もお住まいになっており、この企画のためにわざわざ公開してくださっています。本当に、ありがとうございました。