◆【商業史博物館】◆
http://ouc.daishodai.ac.jp/museum/
江戸時代の大阪の歴史、特に大阪の町制や商都大阪をテーマに展示しています。江戸時代の河内の代表的な商品作物である河内木綿に関する史料を展示した郷土資料室もあり、地元河内の歴史も学ぶことができます。
★平成29年秋季企画「なにわ風情を満喫しませう―大坂四条派の系譜 」
平成29年10月24日(火)~11月25日(土)
http://ouc.daishodai.ac.jp/museum/event/exhibition.html
なにわ商家の床の間を彩った多くの掛軸が、★大坂四条派の作品であったことは意外に知られていません。近世近代の大坂画壇を考える上で、これら四条派の作品群は重要な意味合いを持つと言えましょう。今回、幕末から明治の大坂で活躍したなにわ四条派の雄、西山芳園、完瑛親子の作品を中心に、床の間映えのするはんなりとした絵画表現にスポットを当てようと思います。もとより、床の間を飾る感覚は奇抜を好まないと言ってもよく、今日もてはやされる若冲や蕭白などの強烈な個性の画家には見られない「はんなり」とした大坂画壇の作家を紹介しつつ、画壇の広がりとその奥深さをご堪能いただきます。
《NEWS1》2017.11.6東大阪経済新聞より
大阪商業大学商業史博物館(東大阪市御厨栄町4、TEL 06-6785-6139)で10月24日、秋季企画展「なにわ風情を満喫しませう―大坂四条派の系譜―」が始まった。幕末から明治の大坂で活躍した大坂四条派の★西山芳園・完瑛親子の作品を中心に、船場の商人が床の間に飾った、大坂らしい「はんなり」とした作品に焦点を当てる同展。2期で構成し、60点を展示する。前期は、髪の一本一本に至る細部まで描いた完瑛の「和美人」や、江戸から戦前にかけての夏の風物詩で、大川に出した夕涼みの船を描いた「涼船図」、芳園の三幅対などを展示。日本美術を研究・収集したことで知られるウィリアム・ビゲローの旧蔵品だった芳園の「旭日老松」は、1933(昭和8)年の「故ビゲロー氏遺愛品浮世絵及四条派画幅入札」会に出品され、大卒初任給が75円程度だった当時、4,199円で落札されたことから、当時の芳園がいかに評価されていたかが分かる。大坂四条派の特徴について、同館主席学芸員で大阪画壇担当の★明尾圭造さんは「若冲などのような強烈な作品はないが、下にどのような花を飾るかで絵が完成する落ち着いた作品。写実性が豊かで、描き込みすぎず季節を味わえる」と言い、「どの作品も表具が良く、作品が大切にされている。茶会や料亭の床の間を彩り、大坂の上流階層に所蔵者が多かったことによるもの」と解説する。「今の大阪は派手なイメージだが、人知れず穏やかなものを見て楽しむのが大坂の人。先人が文化に対してどういう思いをしていたのか追体験してもらいたい」と話す。11月16日の15時~15時30分には学芸員による展示解説を実施。17日の11時~13時30分には★「花外楼」北浜本店(大阪市中央区)で、「描かれた大坂を味わいませう」と題し、料亭での作品観賞会、18日の14時~16時30分には、同大学★ユニバーシティ・コモンズ re-Actでシンポジウムを開く。いずれも参加は無料だが、17日のみ食事代実費として1万5,000円が必要。申し込み・問い合わせは同館まで。開館時間は10時~16時30分。日曜・祝日、11月9日休館。観覧無料。前期は11月8日まで、後期=11月10日~25日。
【西山芳園】(1804~1867)
江戸時代後期の画家。文化元年生まれ。大坂の人。松村景文に四条風の画法をまなぶ。人物・花木・鳥獣の絵を得意とし,京坂地方で名が知られた。慶応3年11月8日死去。64歳。名は成章。字(あぎな)は士達。
【西山完瑛】(1834~1897)
四条派の画家。大坂生。名は謙、字は子受、通称を謙一郎、完瑛は号。西山芳園の子。画法を父に受け、人物・花鳥を能くする。また儒学を後藤松陰の門に学び、播州明石侯に仕える。明治30年(1897)歿、64歳。
《参考》「はんなり」
京言葉を中心に近畿地方で用いられる日本語の副詞である。落ち着いた華やかさがあり、上品に明るく陽気なさまを表す。語源は「花なり」または「花あり」とされる。
【明尾圭造】
1961年大阪府生まれ。関西大学大学院文学研究科博士課程(日本史学専攻)修了。平成11年4月、芦屋市立美術博物館学芸課長から大阪商業大学商業史博物館主席学芸員にと転職されました。交通史研究会、日本古文書学会会員。著書に、『阪神間モダニズム』(共著、淡交社)、論文に、「後期朱子学者の社会実践−菅茶山の教育活動を中心に」(津田秀夫先生古稀記念『封建社会と 近代』〔共 著〕所収)がある。
《NEWS2》2013.10.2大阪日日新聞「浪華紙魚百景(大商大商業史博だより)」より
江戸時代、大川沿いの中之島に蔵屋敷が林立していたことは以前紹介(第77、80回)したが、西国諸藩を中心とする蔵屋敷の勤番武士が立ち寄る料理屋もまた、その周辺部に散見された。多くは接待の場所として藩費で出掛けたものだが、なかには同僚とともに繰り出す気の張らない店もあった。幕末、土佐堀に藩邸があった長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が立ち寄る店に「加賀伊」と呼ばれる料理屋があった。当時、京都藩邸と大坂藩邸を行き来しつつ、他藩の志士との情報交換に余念がなかった桂にとって、大川に面した「加賀伊」は藩邸でははばかられる密談にはもってこいの場所であったろう。やがて長州藩の定宿的な存在となり、明治以降も伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州閥の元勲が立ち寄る料亭に発展した。この「加賀伊」が長州藩の定宿から歴史上の場所となる時がやって来る。明治初年、新政府は政治方針をめぐり混迷を極めていた。明治6(1873)年の征韓論決裂により西郷隆盛や板垣退助ら多くの参議が辞職し、次いで木戸孝允も職を辞した。残った大久保利通を中心とする政府も、孤立無援の状態となってしまった。そこで在野にいた井上馨や五代友厚らの周旋により、明治8(75)年1月に大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文が大阪に会し、2月に至って、政治改革についての合意をみた。すなわち、「大阪会議」と言われるもので、維新の元勲が同年大阪に集い立憲政体の樹立を約したのである。この会議の中心の場所となったのが「加賀伊」である。大阪会議の成功を記念し、木戸により「花外楼」と命名されたことが今日に続く老舗料亭のスタートとなった。明治15(82)年に出版された『商工技藝(ぎげい)浪華之魁(さきがけ)』には「御料理商 北浜通一丁目 徳光伊助 花外楼」とあり、階上の長押(なげし)には「花外楼 松菊」なる扁額(へんがく)が高々と掲げられている。これこそが木戸孝允(松菊は号)命名の由来となる証しなのだが、楽しげに宴会に興じる人々の姿からはその気負いが全く感じられないのが面白い。さて、商業史博物館では10月9日(水)から11月30日(土)にかけて「花外楼-老舗の一品」と題する企画展を開催し、関連資料を展示する。木戸孝允の「花外楼」扁額をはじめ元勲の書、調度としての大坂画壇の紹介や関連講座など盛りだくさんで乞うご期待。
・・・伝統ある格式の高い高級料亭「花外楼」、まず行くことはないと思っていましたが、「作品鑑賞会」が開催されるというまたとない機会が巡ってきました。