《神亭壺》
神亭壺は古越磁を代表する器形の一つ。三国(呉)から西晋にかけての南京や浙江省一帯の墓葬から出土する。当時の来世観を示しているとともに、豊穣な江南地方の風景を映している。中国では「穀含罐」(穀物の倉)」 「堆塑罐(塑像をつんだ壺)」 「魂瓶(魂の宿る瓶)」などの名称があるが、★日本では神仙の住む館と考えて「神亭壺」と呼んでいる。後漢代の「五管瓶(五つの壺が組み合わされた瓶・五穀豊穣を意味する)」 から発展した。
《虚舟(うつろぶね)》
日本各地には、ある時、浜辺に不思議な舟が漂着し、舟の中から美女と生首と菓子が見つかったが、この美女は許されない恋をした結果、恋人の生首とともに海に流されたものと思われるので、人々は再び舟を沖に戻したという伝承が伝わっている。最も著名な事例が後述する享和3年★常陸国のものであるが、それ以外にも寛政8年加賀国見屋のこし、元禄12年尾張国熱田沖、越後国今町、正徳年間伊予国日振島、明治16年神戸沖などの記録がある。『折口信夫全集』第三巻に収録されている★「霊魂の話」(初出は『民俗学』第一巻第三号・郷土研究会講演 1929年9月)には、折口信夫や柳田國男のうつぼ舟、かがみの舟に対する考察が記載されている。それによると、うつぼ舟、かがみの舟は、「たまのいれもの」、つまり「神の乗り物」である。かがみの舟は、荒ぶる常世浪を掻き分けて本土に到着したと伝わっていることから潜水艇のようなものであったのではないか、と柳田國男は語っている。また、折口信夫は、うつぼ舟は、他界から来た神がこの世の姿になるまでの間入っている必要があるため「いれもの」のような形になっていると説いている。虚舟の形状については★常陸国の事例の図版が有名であるが、それ以外には虚舟の形状について記述された史料は殆ど存在しない。箱舟と書かれた史料が若干存在するのみである。
《折口信夫「霊魂の話」》
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18412_22284.html
《NEWS》2016.11.13茨城新聞より
常陸国の海岸にUFO(未確認飛行物体)のような奇妙な物体と1人の女性が漂着したという江戸時代の伝説★「うつろ舟奇談」に今、アート界が注目を寄せている。本県北部を舞台に開催中の「茨城県北芸術祭」(~20日)では海外作家がうつろ舟に焦点を当てた作品を展示。また、森美術館(東京・六本木)の企画展「宇宙と芸術展」(~来年1月9日)では、うつろ舟奇談を伝える江戸時代の瓦版刷物の複製展示のほか、うつろ舟を模したグッズも販売。約200年前から伝わる伝説が今、さらなる広がりを見せている。県北芸術祭では、日立市川尻町の小貝ケ浜緑地に「虚舟ミニミュージアム」と題した作品を展示。他の華やかな作品に交じった異色の作品だ。インターネットで情報を得て、うつろ舟奇談に関心を寄せていたインドネシア人の現代美術作家、ヴェンザ・クリストさんが手掛けた。いくつかの史料のイメージを掛け合わせて作ったうつろ舟の模型やうつろ舟に関する記事を掲載した本紙紙面、関係者などへのインタビュー映像などを展示。同祭事務局は「地元のお客さまから『茨城にこんな伝説があったのか』との声がある」と語る。森美術館の「宇宙と芸術展」では、芸術の中で表現されてきた、宇宙に関する世界中の美術作品などを紹介している。日本初公開のレオナルド・ダビンチが書いた天文学手稿やチーム・ラボのインスタレーションとともに、うつろ舟奇談を伝える史料の万寿堂「小笠原越中守知行所着舟(複製)」(「漂流記集」より、江戸時代後期、西尾市岩瀬文庫蔵)を展示。同館は「人間が宇宙人としてイメージしてきたものの系譜を見せたい」と話す。また、うつろ舟を模したどんぶりなどの関連グッズも販売し、人気を集めている。ジャンルを超え、国内だけでなく海外での関心も広まるうつろ舟。長年研究を続ける岐阜大の田中嘉津夫名誉教授は、伝説の魅力を「200年前の文化のほか、科学や芸術など多くのさまざまな要素を含んでいる。オカルト的に注目されている部分もあるが、世界中でうつろ舟に関するインターネットサイトも増えてきている」と話す。
★うつろ舟奇談
常陸国の海岸に奇妙な物体と女性が漂着したという江戸時代の伝説。2014年に発見された新史料で漂着地が「常陸原舎り濱」とあり、田中名誉教授の研究で現在の「神栖市波崎舎利浜」が浮かび上がった。曲亭馬琴の「兎園小説」(1825年)や、柳田国男の「うつぼ舟の話」(1925年)などで伝説について書かれている。
http://www.geocities.jp/sybrma/421utsurobunenobanjo.html
《巣山古墳》
635-0823奈良県北葛城郡広陵町三吉
https://www.town.koryo.nara.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=28
全長約220m、馬見古墳群最大の前方後円墳。後円部径約130m・高さ約19m、前方部幅約112m・高さ約16m、3段築成で葺石・埴輪を備える。くびれ部両側には造出しが設けられているほか、前方部西側には島状遺構があり、形象埴輪(家・水鳥・蓋・盾など)が出土している。周囲には濠と堤がめぐる。後円部で竪穴式石室2基、前方部で小石室1基が確認されている。出土遺物は玉類、鍬形石、車輪石、石釧など。4世紀末~5世紀初頭の築造。国指定史跡:1927(昭和2)年指定、国指定特別史跡:1952(昭和27)年指定。
★広陵町文化財保存センター
635-0814奈良県北葛城郡広陵町南郷583-1/0745-55-1001
http://www.nantokanko.jp/osusume/6133.html
《NEWS》2006.2.23朝日新聞より
葬送の「船」出土、7世紀の史書裏付け 奈良・巣山古墳
奈良県広陵町にある大型前方後円墳、巣山(すやま)古墳(4世紀末~5世紀初め)から、葬送儀式に使われたとみられる木棺のふたや舟形木製品が見つかった。同町教委が22日、発表した。木棺を載せた舟形木製品を引っ張るなどして古墳まで運び、その後、遺体を別の棺(ひつぎ)に移して古墳に埋葬したらしい。古事記などは「喪船(もふね)」と表現し、中国の史書「隋書倭国(わこく)伝」(7世紀)は古代日本の葬送について「遺体を船に置き、陸地で引いた」と記している。それを裏付ける初の物証で、貴重な発見という。巣山古墳は全長約220メートルで、有力豪族葛城氏の墓とみられている。前方部の周濠(しゅうごう)の北東隅を調査したところ、多量の木製品が出土した。木棺のふたは長さ約2.1メートル、幅約78センチで、かまぼこのような丸みがある。舟形木製品は長さ約3.7メートル、高さ約45センチの板状で、へさきか船尾とみられる反り返りがあった。いずれも模様が刻まれて朱が残り、半分ぐらいで切断されていた。復元すると木棺は長さ約4メートル、舟形木製品は同約8メートルとみられる。船の帆を表現したらしい三角形の板や角材などもあった。同町教委文化財保存センター長の河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は、左右2枚の舟形側板の間を角材や板材などでつなぎ、その上に木棺を載せたと推測。「葬送用の特別な用具で、修羅(そり状運搬具)で引っ張ったのでは」と話す。古墳の壁画や埴輪(はにわ)の表面などに、四角いものを載せた船が描かれている例があるほか、古事記や日本書紀にも似た記述がある。
《参考》「古墳の他界観」/文:和田晴吾
古墳と★他界の関係を考える上で極めて重要な発見が、2006年、奈良県巣山古墳(前方後円墳・中期前葉)であった。周濠の北東隅(前方部側からみて前方部左外側)にあたる外堤の葺石裾部付近から木製品が集中的に出土し、そのなかの主要なものが、実物大の、竪板を立てた型式の準構造船に復元されたのである。「竪板(クスノキ)は約2.1m、幅約78、下部の厚さ約25、上部の厚さ約5で 側面に突起が付き、表面には円文様を中心に直弧文が描かれる。基部は船底の丸木船を跨ぐように『ハ』字状に加工され、根元が太く湾曲するのに対して先端は薄く平らに仕上げている。裏の両側縁には溝があり、中程にずれがあることから舷側板が二段に当たっていたと考えられる。舷側板(スギ)は約3.7m、幅45、厚さ約5で 端部が反り上がる。上端には3箇所の切 り込みがあり、下端にも長方形の小孔が並び、1個の孔には桜の皮や木片が残り、背面の痕跡から5程の角材と繋いでいたことが推測される。表面には円文様と帯文様が彫刻され、円文様は方形区画の中に表現している。(以下略)
・・・前方後円墳の形状に関する様々な説、まさしく「迷宮」である。
《NEWS》2017.11.9朝日新聞デジタルより
「鎌倉」でなく「北条時代」が区切り 時代区分に新提案/保立道久★東京大学名誉教授
歴史には時代区分がある。だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城→北条→足利→織豊→徳川」にすべきだ、というそのわけは。「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。王権の変化で区切るほかありません」では、最初の王権はいつできたのでしょうか。「3世紀初頭、邪馬台国の卑弥呼の時代と考えます。その頃、前方後円墳の原型といえる古墳が纒向(まきむく)(奈良県桜井市)に営まれ始めた。そこで従来3世紀末か4世紀初めとされる古墳時代の開始を、邪馬台国の成立時とします」「前方後円墳は、★つぼを横倒しにして半分埋めた形なんです。後円部に埋葬された人の魂が、つぼのくびである前方部を抜けて天に飛翔します。こういう神話を信じた人たちが邪馬台国をつくった。古墳時代は神話時代です。ただ、その神話は天皇家のものとは限りません」
《参考》和紙科研「和紙の物理的分別手法の確立と歴史学的データベース化の研究」
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/hotate/index.htm
東京大学(史料編纂所及び農学生命科学研究科製紙科学研究室)と九州国立博物館および日本女子大学★永村真研究室との連携研究によって、自然科学(製紙科学)的な立場から和紙の材質の研究を深め、歴史学および文化財科学の立場からの古文書・記録の分析をあわせて、歴史史料に使用された和紙の材質調査マニュアルとそれに対応した和紙材質記録システムを作成する。これらを通じて貴重な古和紙史料を文化資源として生かすためにも和紙の制作技法と保存科学の研究にも資したい。
《保立道久の研究雑記》2017.10.24
http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/
日本史の時代名と時代区分(再論)
歴史科学協議会編の『歴史学が挑んだ課題』(大月書店)に★「前近代日本の国家と天皇」という論文を書いて以降、日本史の時代名、つまり「古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」という時代名がおかしいという感じがきえない。これらの言葉を見るたびに違和感である。だいたい、時代名の付け方が、時代名を作ってきた成り行きまかせで恣意的すぎる。下手に専門知識のある人は、そんなことにこだわってもしょうがない。もっと細かいこと、高級なことに興味があるのだなどという気分の人もいるだろう。所詮、時代名などというのは符丁であって議論してもしょうがないなどというのっては、話はすべて無駄。これらのうち、おそらく学術的にいって問題がないのは、古墳時代くらいではないだろうか。そこで、容易に賛同をえられないであろうことは分かっているが、それらとはまったく異なったコンセプトで、「古墳時代、大和時代、山城時代、北条時代、足利時代、織豊時代、徳川時代」という用語を、右の論文で提案した。提案した時代名の性格は、大きく二つに分かれる。つまり前の方から言えば、「古墳時代、大和時代、山城時代」は西国国家の時代である。この時代、日本には国家は九州から近畿地方、つまり西国を中心とする国家が一つしかなかった。まず古墳時代からいけば、私は、★古墳=壺型墳説にたっているので、王の魂は壺口から天に飛翔すると考えている。それにからまる神話を「前方後円墳」は表現しているのだ。前方後円墳は東北中部まで分布しているが、これは当時、神話が各地で共有されていたことを示している。この時代の国家なので、「古墳時代」でよいと思う。しかし、その後の「大和時代、山城時代」の二つは、西国国家の中心地域で表現するのがよい。西国国家の王都がある場所を時代名としたい。これは大王・天皇中心の国家である。王家が日本の文明化を大きく進めたことは疑いがない。そして、この時代は地方にとっては総体的に自由でいい時代であったと思う。山城時代(あるいは山城京時代)というのは評判が悪いが、しかし、こうすれば、長岡京以降をすべて同じ時代にできる。これはいつ奈良時代が終わるのかということがわかりにくいが、これは分かりやすい。また私は、石井進説をとって、院政時代は承久の乱(正確には後鳥羽クーデター)まで続いていると思う。たしかに、源平合戦の中で東国国家が成立するが、それが名実ともに明瞭となるのは、北条氏が後鳥羽クーデターを粉砕した後だ。その前は清盛も頼朝も性格としては変わりない。二人を基本的に区別しない。どちらも相当な「ワル」であって同じ穴のムジナというのは、研究を始めたとき以来の信念である。それ以降は武家国家の時代になる。これは覇権を握った武家の氏族名、つまり北条・足利・織豊で行くのがよい。もちろん、だからといって王権がすべて覇王家に移るわけではない。旧王家は長く残った。これは結局、長い西国国家の伝統に左右された事態だと思う。ともかく「鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代、江戸時代」というのは基本的には地名主義だが、その基準は不明で恣意的すぎる。一つ一つ「結鎮」(けち)をつけると、まず「飛鳥時代、奈良時代」というのは、きわめて困る、理解しにくい時代名で研究者ごとに定義は違うだろう。これは欽明大王の時期に王家の血統の世襲性が明瞭になり、大和に拠点を移し、前方後円墳を作らなくなった六世紀半ばから後半以降を「大和時代」として、神話時代をおえた文明化の時代として一括するのがわかりやすい。次に平安時代というのはまったく無意味な言葉で、たしかに桓武が愛宕に遷都とした時の歌にあるが、これは桓武の夢におわり、すぐに激しい政争が展開し、地震と怨霊の時代にはいったことを無視する言葉だ。こういう言葉を使い続けるのは余計な言葉と偏った印象を子供にあたえる。歴史家はよく考えれば、誰でもそう考えるに違いないが、★慣れというものは恐ろしい。馬鹿な言葉を歴史意識から追放するのは歴史家の役割である。鎌倉時代とか室町時代、あるいは江戸時代というのも地域からみれば、実に偏見に満ちた言葉だ。★地名で時代を区切るのが、この時代に必要とはとても思えない。鎌倉と江戸を強調するのは、ようするに徳川将軍家から、明治国家が受け継いだ★歴史イデオロギーである。これに封建制は東国からという明治の学者の考え方が化学反応してできた言葉で、現在では、これは野蛮な★東京史観以外のなにものでもない。そして室町時代というのは、一種の★京都史観であろうと思う。東京都と京都で時代名を2対1でわけて手打ちしましょうというようなことだ。井上章一氏から、こういう時代名は★大阪無視ですよといわれた。これは正論だと思う。最近の大阪の政治はあまりに★文化を無視しているが、これを取り戻すには、★歴史観から変えていく必要があるのかもしれない。徳川・明治時代は大阪はもっとも文化の高い都市であった。さて、問題は、もちろん、こういう大ざっぱなことではなく、時代のより具体的なイメージをどう捉えるかということであり、それは、これらの時代の中での小区分をどうするかという問題に関わってくる。しかし、これについては、上記の論文を参照願いたいと思う。『歴史学が挑んだ課題』は専門的な歴史書にはめずらしく急速に売れているようで、三刷りになったという連絡が出版社からあった。私のものだけでなく、渡辺治氏の論文など、有益なものが多いので、ぜひ、お求めください。
・・・とてもとても、刺激的な論文です。「歴史学が挑んだ課題」も読まなくてならない、またまた積読が山積みになる。