・・・前回掲載した「新聞記事」に登場されていた方々の詳細について、
【苅谷俊介】(1946~ )
http://www.tutibutai.com/index.html
大分県に生まれる。日出町出身。大分県立大分工業高等学校卒業後、家庭の事情で大学進学を諦めて上京して就職。働きながら俳優になろうと東宝芸能学校演技科に入学して、1968年3月に卒業。1970年の日米合作映画『トラ・トラ・トラ!』の助監督を経て、1971年に渡哲也主演の松竹映画『さらば掟』で映画俳優デビュー。東宝や東映の千葉真一主演映画で脇役として出演した後、1974年に石原プロモーションに入社。その後はテレビドラマ『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズなどにレギュラー出演した。趣味の考古学研究との両立のため、1982年に石原プロを退社。俳優業の傍ら考古学の研究を続け、1985年1月には個人事務所の株式会社土舞台を設立。1991年頃よりは約100人の考古学愛好家を集めて勉強会「考古見聞会」を主宰し、2000年4月には日本考古学協会会員となった。2003年頃より神奈川県秦野市に在住している。2009年に故郷の日出町から「ふるさと親善大使」、隣接する別府市からは妻とともに「ONSENツーリズム別府特別観光大使」の委嘱を受けた。高校2年生のとき、学校をさぼるために学校の近所の発掘現場に通ったことがきっかけで考古学に興味を持つ。俳優となり考古学からは一時遠ざかっていたが、1980年に石原プロの社長だった★石原裕次郎の新居建設現場から多数の土器を含む遺跡が出土したことを契機に、再び考古学への情熱が再燃。石原プロの副社長(当時)の渡哲也に事情を説明して所属していた石原プロを1982年に円満退社した。「考古学研究のため」とはどうしても言えなかったため、表向きの名目はあくまで「独立して俳優をやりたい」ということであった。その後、俳優活動の傍ら考古学の研究を続けており、2011年までに発掘に関わった遺跡は、全国で30ヶ所以上にのぼり、古代史に関する一般向けの著書を出版。論文も発表している。邪馬台国の有力候補地である★纒向遺跡の調査・研究は1984年頃からしており、2009年の発掘調査の際にはマネージャーには仕事を取らないよう命じて連日発掘調査を手伝った。
【橋本輝彦】(桜井市纒向学研究センター)
633-0085奈良県桜井市大字東田339/0744-45-0590
1969奈良県吉野町生まれ。1992年奈良大学文学部卒業。1994年桜井市教育委員会採用。2009年桜井市教育委員会文化財課主査、現在に至る。研究テーマは弥生時代終末から古墳時代前期にかけての土器や墳墓など。初期ヤマト政権発祥の地である★纒向遺跡の調査を担当し、166次に及ぶ調査の約半数に関わっている。
【赤松マカロン】
https://ja-jp.facebook.com/akamatsumacaron/
奈良県の主婦です。羊毛フェルトで作品を作ったり、講習会をしたり、最近では東北の伝統こけしの収集をしたりしています。
《NEWS》2017.8.31朝日新聞デジタルより
予想外の「かわいい」古墳クッション、職人も驚く反響
「どこが?」と奇異に思う人も多いだろう。古墳は古代の人の墓だ。しかし、かぎ穴のような「前方後円墳」の形を見ていると、丸い部分が頭、方形の部分が体の、二頭身キャラクターのようにも見えてくる。近年、各地の博物館や史跡公園のショップに古墳の付箋やメモ帳、テープなどが並ぶようになった。「でも、ほんの5年ほど前までは、埴輪グッズは人気なのに、古墳グッズはほとんどありませんでした」。古墳をカジュアルに楽しむ団体「古墳にコーフン協会」会長の歌手、まりこふんさんはそう振り返る。その古墳グッズの先駆けになったのが、前方後円墳形の「古墳クッション」だ。2013年春から、奈良市でイスの修理工房「宇宙椅子」を営む福徳有男さん(56)が製作し、これまでに計約3千個を出荷した。福徳さんは、古墳とは無縁のサラリーマンだった。早期退職してイスの修理を学び、12年、京都府木津川市に最初の工房を開いた。歴史好きの知り合いから古墳ファンが大勢いると聞き、「形を面白がってもらえるかも」と作ったのが、座面が前方後円墳形の「古墳イス」だった。続いてイスの木製部分を外した「古墳クッション」を試作。職人として座り心地にもこだわった。ウレタンの厚さや組み合わせを工夫し、軟らかいスポンジで硬めのスポンジを挟む「三段築成」に落ち着いた。 継体天皇の墓との説が強い大阪府高槻市の今城塚古墳で開かれたイベントで販売したところ、「これ、かわいい!」と女性客から予想外の反応が。そこで知り合った歴史グッズをつくる人たちに助言をもらい、墳丘の段を縫い目で表現するなど改良を加えた。店やネットショップで売り出すと、注文が殺到。手づくりのため月に数十個が限度で、一時は半年待ちになることもあった。
【福徳有男】
奈良の椅子張り職人。家庭用、業務用の椅子・ソファなどのクッション座面の張替え座面のある椅子やソファ、オリジナルクッションの制作椅子張りの技術を使ってできることなら何でもお気軽にご相談ください。20数年間、某百貨店勤務。退職後、椅子張りを学び、修行をはじめる。2012年に宇宙椅子cosmic re-chairを開業。2013年に製作した★古墳椅子、古墳クッションが話題となり新聞、雑誌、テレビなど、たくさんのメディアにとりあげられる。会社員時代は映像制作やイベント、商品企画などの仕事にも関わってきました。そんな会社員時代のあらゆる経験が今のことにも繋がっているような気もします。日々の出会い、ご縁を大切にこれからも楽しくお仕事させていただきます。
・・・様々な立場(仕事)年齢(男女)の方々がつながり、「古墳」を盛り上げていく素晴らしい例だと思います。
《前方後円墳》
円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の★「鍵穴形」をなす。主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な★仮説が唱えられている。
★最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる。
★それに対して円部は軍事・政治を担った「男王」、方部は祭祀を司った「女王」の墓に由来するという説もある。
前方後円墳の形状は、古くは★「ヒョウタン形」などとも形容されていた。「前方後円」の語は、江戸時代の国学者★蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めて使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。明治時代末期になり、ウィリアム・ゴーランドは円墳と方墳が結合して、清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測した。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれた。現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて「前方部」と呼ぶ。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われている。古い形の前方後円墳は前方部は低く★「撥形」をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。
韓国では、全羅南道から全羅北道にかけて前方後円墳があり、古墳のカタチが韓国や朝鮮の★「太鼓(チャンゴ)」に似ていることから長鼓山(チャンゴサン)と呼ぶ人が多い。英語ではkey hole shaped(鍵穴形)と訳される。日本では古くより、その形を身近な器物になぞらえ、車塚(くるまづか)、銚子塚(ちようしづか)、茶臼山(ちやうすやま)、瓢簞山(ひようたんやま)、瓢塚(ひさごづか)、二子山(ふたごやま)などと呼びならわしてきた。江戸中期の国学者・蒲生君平も《山陵志》(1808)の中で宮車模倣説を唱え、円丘を車蓋に、方丘を轅(ながえ)に見たて〈前方後円〉と形容した。
《チャング(장구)》
朝鮮半島の代表的な打楽器(太鼓)。別名・チャンゴ(杖鼓 / 長鼓、장고)。日本の鼓を大きくしたような形状で、松の木を削った胴に羊、馬、牛、犬などの革を張る。全体の大きさや使用する革は、演奏する曲のジャンルで異なる。左右の皮は音が異なり、左側は先端が丸いものがついているクングルチェという桴を使うか、平手で叩く。右側は竹でできた桴のヨルチェをしならせながら叩く。手首は縦ではなく、横に回転させる。左の桴は時に右面も打って往復する。胴体と革を紐で固定しており、紐に挟まっているプジョンでチューニングをする。チャングは両面太鼓。★鼓の原型だという説もある。リズムは3拍子。韓国の現代音楽である「サムルノリ」で必ず用いられる4つの楽器(ケンガリ、チン、チャング、プク)ではチャングは雨を表現している。五穀豊穣を祈る農楽や祖先を祀るプンムル(風物)で親しまれてきた。「伝統楽器」と表現されることがあるが、伝来や、いつごろから使用されているかは明らかではない。現代はショーとしてアレンジされた打法・演技で華美に披露され、古来からの楽曲が正確に伝承・演奏されることはない。
【蒲生君平】(1768~1813)
江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。京都では歌人小沢蘆庵の邸に滞在して、★天皇陵(古墳)を研究する。父・正栄の喪が明けた32歳の時、すべての天皇陵を実際に調べあげる旅に出る(寛政11年11月28日 - 寛政12年5月24日)。佐渡島の順徳天皇陵までの歴代天皇陵を旅する。伊勢松阪の本居宣長を訪れ、大いに激励を受ける。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて天橋立に行き、日本海に散骨したという話は有名である。帰途、師の鈴木石橋にあいさつに行ったが、身なりは粗末でくたくたに疲れ切っていたという。調査の旅から帰郷した後は、江戸駒込に塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら、享和元年(1801年)『山陵志』を完成する。その中で古墳の形状を★「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができた。その後は江戸に住み、大学頭林述斎に文教振興を建議している。構想していた9志のうち借金で『山陵志』『職官志』まで出版したが、文化10年(1813年)6月病に伏し赤痢を併発して46歳で病没。現在の東京都台東区の臨江寺に葬られた。著書は、他に「不恤緯」(ふじゅつい)等がある。
★「山陵志」
http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/2002/128_1.html
草稿は寛政9年(1797年)に、最終稿は享和元年(1801年)に完成したと言われる。書物として発刊されたのは文化5年(1808年)とも文政5年(1822年)とも言われる。文政5年説の場合、君平の死後にはじめて出版されたことになる。本書が幕末の尊王論の根拠となったと評される一方で、調査結果を記録した考古学資料としての評価も高く、明治維新の後、明治天皇は君平の業績を讃え、勅命により郷里である★宇都宮(宇都宮市花房3丁目)に石碑・蒲生君平勅旌碑)が建立された。その他、宇都宮市の蒲生神社(1925年創建)に祭神として祀られている。本書は徳川光圀が編纂に取り組んだ『大日本史』の補完資料の位置付けとしても評価されている。
《瀬田遺跡★円形周溝墓》奈良文化財研究所ブログより
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2017/04/tanken164.html
2016年春、橿原市★「瀬田遺跡」で、弥生時代の終わり頃に造られた「円形周溝墓」が見つかりました。円形の墳丘の南側に台形の陸橋がとりついており、古墳時代の「前方後円墳」にそっくりです。全長はおよそ26メートル、墳丘の直径は約19メートル。残念ながら、墳丘は後世に削りとられていましたが、周溝がよく残っていたため、お墓の形や大きさがよくわかりました。瀬田遺跡の円形周溝墓は、県内で見つかった最も古い前方後円形のお墓です。橿原市の東北に位置する桜井市には、最古級の前方後円墳とされる箸墓古墳や纒向石塚古墳があります。ところが、さらにそれよりも古い前方後円形の円形周溝墓が、これまでに香川県や兵庫県、大阪府、滋賀県では見つかっていました。当然、奈良県でも纒向石塚古墳よりも古い、前方後円形の弥生時代の周溝墓が見つかるはず……。そうした予想と期待に応えたのが、今回の発見だったのです。瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、そして箸墓古墳へと、前方後円墳がどのように出現したかを考えることができるようになりました。
《NEWS》2015.1.8産経新聞より
朝鮮半島に「前方後円墳」12基 奈良・橿考研博の学芸員が報告
大和政権のシンボルとされる前方後円墳が、韓国南西部に少なくとも12基あることがわかり、橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)の坂靖★総括学芸員が、日韓の考古学者らが出席して同研究所で開かれた研究集会で発表した。12基の築造は5世紀末~6世紀前半。当時、韓国南西部を支配していたのは百済だが、中央集権体制は確立されておらず、被葬者は日本列島との関わりを権勢の基盤にした、地域の有力者と考えられるという。韓国では1980年代ごろから前方後円墳に注目が集まり始めた。研究機関の調査により、光州広域市や全羅南道地域(咸平郡や海南郡など)で前方後円墳が確認されている。研究者によっては判断が分かれる古墳もある中で、坂総括学芸員が前方後円墳と判断した古墳は計12基。うち新徳1号墳(咸平郡)は、全長約51メートル。横穴式石室と周濠、葺石を持ち、金銅製の冠片や鉄刀、馬具、玉類などの副葬品が出土している。月桂洞1号墳(光州広域市)は全長約4メートル。横穴式石室と周濠、埴輪を持ち、鉄斧や鉄鏃なども見つかった。また、最も大きい長鼓峯古墳(海南郡)は全長77メートルで、横穴式石室と埴輪が確認されている。前方後円墳は大和政権のシンボルとされ、日本国内では北は岩手県から南は鹿児島県まで、数多く点在する。当時、朝鮮半島の南西部を支配していたのは百済だが、中央集権体制は確立されておらず、その領土も明確ではなかったという。そうした中、朝鮮半島と日本(倭)の間を自由に往来する集団がいたとみられ、前方後円墳の被葬者については倭人将軍説や、亡命倭人説、百済王権内の倭人官僚説など、諸説がある。坂総括学芸員は「前方後円墳の起源が日本列島にあることは疑う余地がない」とした上で「被葬者は在地首長に次ぐ立場の人物。日本列島との深い関わりを示すために、前方後円墳の墳形を採用したのだろう」としている。
【坂靖】
https://www.facebook.com/kashikoken/
2016年度 – 2017年度 : 奈良県立橿原考古学研究所、附属博物館学芸課、課長
2014年度 – 2015年度 : 奈良県立橿原考古学研究所、附属博物館、総括学芸員
2009年度 – 2010年度 : 奈良県立橿原考古学研究所、総務企画部、総括研究員
2007年度 : 奈良県立橿原考古学研究所、調査第2課、主任研究員
《参考》東北学院大学オープン・リサーチ・センター「 アジア流域文化論研究プロジェクト」
★韓国前方後円墳調査報告/東北学院大学文学部教授:熊谷公男、辻秀人
http://www.ipc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/rep/20051007.htm
http://www.ipc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/rep/20040713.htm
《松本清張》「遊古疑考」(1973)
前方後円墳性交モチーフ説とも言うべきものですが、主眼は前方後円墳に対する風水からのアプローチ。邪馬台国論争をはじめ、飽くことなき情熱と鋭い洞察で日本古代史に挑み、史学界に波紋を呼んできた著者が、考古学上の諸成果を踏まえ、話題の高松塚古墳の築造期及び被葬者の問題や、前方後円墳、神篭石、三角縁神獣鏡など、古代史永遠の謎に、綿密な考証と独創的な推理力で迫る。清張考古学の金字塔。
《参考》「松本清張記念館」
803-0813福岡県北九州市小倉北区城内2-3/093-582-2761
http://www.kid.ne.jp/seicho/html/index.html
http://www.kid.ne.jp/seicho/html/kankou/back.html
《古墳=壺型墳説》
前方後円墳が壺形の蓬莱山をあらわしている。古くから唱えられてきた説であり、近年では★岡本健一氏によって主張されています。中国伝来の神仙思想のうち、不老長生の仙境「蓬莱山」のイメージと、生命更新の仙木「扶桑樹」のシンボルが、日本の古代文化におよぼした影響の諸相を、歴史考古学的に明らかにする。「蓬莱山」と「扶桑樹」は古墳時代を解き明かすうえで二大キーワードであるはずが、なぜか古代史や考古学の分野では、長らく見過ごされてきた。20年前より「前方後円墳=蓬莱山起源」説を提唱してきた、元新聞記者でもある著者の研究集大成。
【岡本健一】
1937年京都市生まれ。1961年京都大学文学部史学科(国史専攻)卒業。毎日新聞社入社。京都支局・社会部・学芸部に勤務。学芸部長・論説委員・特別編集委員を経て、1999年客員編集委員。京都学園大学人間文化学部教授。2008年定年退職。その間、「“稲荷山鉄剣銘発見”のスクープと一連の解説」で日本新聞協会賞グランプリ(1979年)、「長年の公正な文化財報道と啓発的な著作」で藤森栄一賞(長野県考古学会賞、1999年)。
《象徴としての「壺」》
「壺」は、ヒサゴ(ヒョウタン・フクベ・ウリ・西瓜・南瓜など)とともに、⑴一般に「子宮・母胎」を表す(アト・ド・フリース『イメージ・シンボル辞典』山下主一郎他訳、平凡社1984 井本英一『境界・祭祀空間』平河出版社1985)は、ウリやヒサゴのようなウリ科の果物は、神の子が生まれ出る「アドーニス(年ごとに死んでは蘇る穀霊の化身)の園(アドーニスの壺)や「うつぼ舟」の変種であったと説く。今日でも諏訪などのように、甕を「母袋(母胎)」と呼ぶところがある。弥生時代の甕棺も、古墳時代の前方後円墳(壺型古墳)も、正体は甕や壺であり、「子宮・母胎」と見立てられたのであろう。そこに亡き首長らを葬ることは、胎内回帰と生命更新を祈る行為である。⑵同時に、「壺」は広大な「宇宙」と「楽園=不死の世界」をも意味した。古今東西、「壺型の宇宙」観をもった民族・文化は数多い。とくに東洋では、西方の桃源境「崑崙山」と、東海の神仙境「蓬莱山」は、ともに壺のかたちをしていると信じられた。