堺筋本町(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《イケマンファーム株式会社》(十代目代表:池田佳隆) 

541-0054大阪市中央区南本町2-2-5池萬堺筋ビル/06-6262-4701 

http://kir280113.kir.jp/about.html

創始:元文元年(1736)/創業:昭和27年(イケマンファーム株式会社は昭和52年3月設立) 

 

《参考》われら六稜人(第35回)「博物館を一代で築いた男」より 

http://www.rikuryo.or.jp/home/people/ikeman0.html

【池田萬助】六稜60期。幼名、正繁。北船場の米問屋「池萬」の長男に生まれ、生粋の浪花商人として育てられる。愛珠幼稚園、愛日小学校、北野中学校(旧制)と恩師に恵まれ、関学では教授から大学に残るよう説得までされたが、結局、彼は商売人の血に従って家業を継ぐ決意を固めた。戦時中、米穀流通は政府の統制下に入り「米問屋」が軒並み廃業に追いやられていた中で、大学卒業と同時に彼が始めたビジネスとは…。 

事業というのは、どうも4年毎に行き詰まるものなんです。その時に、何か捌け口…突破口をですね…切り開かねばと考えるわけです。現実のリアリズム路線以外にロマンティック路線を併走してみるといいますか、一種の逃避口ですね。別の「仕事」に熱中するのです。これまでにも色々やりましたが、昭和35年前後には「人相」をやりました。やりだすと凝り性ですからね、徹底的にのめります(笑)。そうこうしていると、本業の難問も自然に開いてくるものなんですよ。同じ頃、家族旅行で正月に熊野本宮を詣でまして「蘇民将来」という厄除けを目にしました。6センチくらいの小さな六角錘のお守りなんですが、何とはなしに素朴で不思議な魅力を感じて、物好きがこれを頂いて帰ったのです(笑)。これが祇園さんにもあるんですね。長野にもありましたし、東京にもありました。これが僕の民俗学への第一歩でした。ある時、福井県武生のある神社で、それは見事な金色の木彫天神が、年始行事の「どんど焼き」で惜し気もなくくべられている光景を目のあたりにしました。不思議に思って「なぜ、燃やしているの?」と尋ねましたら「社寺の軒下のそこいらじゅうに土人形が捨ててあるよ」という。これは何とか保存できないものか。「今、集めとかなアカン…」いかにも物好きの発想でしょ(笑)。わが国の人形文化を守りたい…これが古人形との出会いでした。普通のコレクターだったら自分の足で1体1体集めて回るのかも知れませんが、僕の場合は各地にデボ(集積所)だけ造って、そこへ現地の人を動員して集めて貰うわけです。友人や仕入先の人から知人をたどっては「アンタ、お母さん何してるの?」「保険の外交員…」。あぁ、これはしめたと思って「頼むわ!」という具合(笑)。写真を渡して「こんなん集めてきて欲しいねんけど」。極めつけは、お父さんが元国鉄マン。この方には定年後に収集をお願いしました。電話でやり取りするのですが、方言で何を言っているのかサッパリ解らないのです。これが顔を合せると不思議に理解できたりするものなんですね。天草では、仕入先のお父さんに頼んだり…そういうやりかたで全国展開して集め回りましたよ(笑)。出張に行けば集積所にまた何体か溜まってるわけ。当時はまだ宅配便なんて便利なものはありませんでしたからね。これを手で提げて持ち帰るわけです。すべて皆さんの協力のおかげなんです。土人形は本当によく集めたと思います。時期や場所はその時々で異なりましたが、たとえば僕が東北地方で集めた時は江戸期のものでした。ところで、大阪ガスの総務部長をされていた父の知人が、やはり福島の三春人形の大コレクターで、本まで出版なさってますが「本当は博物館を造りたかった」とこぼしておられました。「やはり印刷物で人形の立体感を伝えるのには限界がある…」それで僕は、当初から博物館を造る前提で、制作年代の流れや系譜を重視しながら収集していったわけなんです。 

 

 

《参考》大阪府立北野高校(六稜人)から俳優★「森繁久彌」(44-45期)に名誉教諭の称号が贈られた 

http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=3

1913年(大正2年)5月4日、大阪府枚方市上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、彼の実弟は儒学者の成島柳北である。父の達吉は旧制第二高校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家の岩崎久彌(男爵・三菱財閥三代目総帥でエリザベス・サンダースホーム創設者澤田美喜の父)と深い親交を持っていたことに由来する。2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親が北野中学校へ入学させるために堂島小学校へ転校させられる。★旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年(昭和10年)に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となった。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した。(後略) 

 

★「イケマン人形文化保存財団」 

616-8434京都市右京区嵯峨鳥居本仏餉田町12/075-882-1421 

http://sagano.or.jp/

「さがの人形の家」は、春は桜、秋は紅葉もみじの美しいロケーションを背景に、江戸期より昭和初期までの系譜の整った品質の良い古人形を20万点余り館蔵している博物館です。その内の3,845点は、平成23年3月に国登録・有形民俗文化財の指定を受け、人形の専門的な博物館として活躍しています。鑑賞用として三等身で無垢むくのあどけなさと気品を兼ね備えた御所ごしょ人形、可愛くて小さい賀茂かも人形、美しい衣裳人形、木彫りに金彩を用い緻密ちみつな模様を描き、頭部が前後に振って舌を出す「からくり仕上げ」になっているのもある素晴らしい嵯峨人形、又、不思議を発見し、今日の科学技術の導入の糸口となったからくり人形等、各種類の人形の他に、ぬくもりを感じる各地方の郷土人形があります。郷土人形は、各地の風土や風習をふまえて、江戸時代の庶民文化の中で生まれ、節句人形として栄えた人形です。美の原点である単純素朴で表現の自由な味わいと土のぬくもりがあります。これら各種類の人形を、社会学的な立場で研究、蒐集しゅうしゅうし、広く一般の方々に人形文化を理解し、親しんでいただきたい、次の世代を荷になう青少年に、人形達を役立たせ、大きな夢を持ってもらいたいとの願いを込めています。人形は、私達に無言で語りかけて来るあたたかい美を持っています。心のふる里、心の対話を求めて下さい。 

 

・・・機会をつくって行ってみたいと思います。

 

 

・・・情報によるとビル入口上部にある扉が開き、「大黒様」が登場するカラクリがあるらしい。ぜひ、観てみたい。調べると「モリシゲ」さんまでつながってくるので、本当おもしろいですね。 

 

《サザンビル》(旧)本町安達ビル 

541-0054大阪市中央区南本町2-1-1 

1968年竣工、10階建ての賃貸オフィスビルです。ガラスウォールの外観で存在感があります。エントランスがリニューアルされ明るく好印象を与えます。 

 

 

《参考》「The DECK」 

http://thedeck.jp/

コワーキングスペース、ファブスペース。大阪に新しいモノづくりの場所ができました。The DECK[ザ・デッキ]はどなたでも利用できるドロップイン型のスペースです。 

 

 

《本町橋》 

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000024065.html

本町橋は現役の橋としては、大阪市内最古の橋である。豊臣秀吉が大阪城築城に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられている。江戸時代には公儀橋の一つとして幕府が直轄管理する橋であった。橋の東側は商業地となり、今の大阪コクサイホテルの前には石畳が敷かれ荷揚場になっていた。また橋詰の北東側には享保9年(1724)の大火事以降に西町奉行所が設置され、行政の中心地ともなった。天明7年(1787)の調査によれば、橋長約54m、幅員5.9mの木橋であったとされている。現在の橋は、本町通が市電道路として拡幅された大正2年(1913)5月に架け替えられたもので、3連の鋼アーチが、ルネサンス風のデザインをもつ石造りの橋脚に支えられた重厚な構造の橋となっている。平成24年2月に大阪市指定文化財として指定された。

 

 

《NEWS》2017.9.26船場経済新聞より 

「本町橋」大阪市中央区本町橋4-4 

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/chuo/0000410787.html

大阪市内最古の現役橋である「本町橋」で9月23日、「橋洗い」が行われた。主催は大阪市中央区役所。共催に本町橋100年会。同イベントは、古典芸能・芸術を通じた船場地区活性化事業「古典芸能×近代建築★船場を遊ぼう」の一環。「市民自身の手で地域を奇麗にすることで、街を大事にしようという思いを持つ」ことを目的として、2013年から始まり今年で5回目となる。今年は約60人の参加者が、完成から104年となる本町橋をデッキブラシで洗った。大阪市中央区役所の林敬二さんは「毎年の開催でイベントの認知が進み、参加者も増えてきている。雨が心配だったが、無事に開催できて良かった」と笑顔を見せた。橋洗いの参加者は「知り合いがいて、職場も近かったので参加した。今回初めての参加だったが、橋にたまった1年分の汚れを落とすのは楽しかった」と話した。橋洗い終了後には本町橋船着場にて、サックス演奏家の高橋知道さんをリーダーとした「高橋知道カルテット」による「水辺のJAZZ演奏」が行われた。橋洗い参加者や通行人たちがジャズ演奏に耳を傾けた。関連イベントとして11月28日まで、橋上と船着場では★「本町橋いま・むかし展」を開催する。橋の欄干を活用し、本町橋と本町通り界隈の歴史の変遷を約100点の写真や資料で紹介。雨天時は山本能楽堂で開催する。

 

《東区役所》 

1869年(明治2)大坂三郷再編により、東大組が発足。 

1875年(明治8)大区小区制施行により、東大組が第1大区となる。 

1879年(明治12)郡区町村編制法施行により、第1大区が東区となる。区役所を備後町2丁目に設置。 

1880年(明治13)区役所を淡路町1丁目に移転。 

1886年(明治19)区役所を高麗橋1丁目に移転。 

1889年(明治22)市制施行により、大阪市の行政区へ移行。 

1897年(明治30)大阪市第1次市域拡張により、東成郡玉造町・清堀村・東平野町・西高津村の全域と中本村の猫間川以西・鶴橋村の大阪鉄道(現在の大阪環状線)以西を東区へ編入。 

1901年(明治34)区役所を本町1丁目に移転。 

1925年(大正14)上記のうち旧東平野町・西高津村域を天王寺区へ分区。 

1943年(昭和18)旭区より鴫野町の城東線(現在の大阪環状線)以西を編入し、城東線以東を城東区・東成区へ、末吉橋通以南を天王寺区へ移譲。 

1989年(平成元)南区と統合され、中央区となる。 

大阪のシンボルである大坂城や、江戸時代から大阪経済の中心地であった船場を包含するエリアであったため、大阪市内におけるステイタスエリアともなっており、繁華な南区に対し「東区」に拘る者がとりわけ年配者に多い。東区役所跡地には★「大阪産業創造館」が建っている。