《りそな銀行大阪本社ビル》
540-8610大阪市中央区備後町2-2-1/06-6268-7400
http://www.resona-gr.co.jp/index.html
りそな銀行の前身である大和銀行では、同行が前商号の大阪野村銀行であった1924年(大正13年)以来、同年に同行の本店として建築された堺筋野村ビルディングを本店としたが、同行では同建物を「大和銀行本店ビル」として建て替えることを決定したので、同建物の新館・旧館および附帯施設を取り壊した跡地において1991年(平成3)7月竣工した。大和銀行は2003年(平成15)に、あさひ銀行と合併し、りそな銀行となったので、りそな銀行本社ビルと改称された。合併後は同行およびりそなホールディングスの登記上の本店・本社所在地がおかれていたが、りそなホールディングスは2010年(平成22年)6月25日をもって登記上の本社を東京に移転した。2015年12月には、系列の近畿大阪銀行の本社機能を併設している。旧所在地は、2016年5月までは、本店営業部の窓口が継続設置されるが、それ以降は南本町に移転する予定であるため、当ビルがグループの大阪本社ビルとして機能し、近畿大阪銀行の旧本店があるOBPキャッスルタワー低層棟は、大阪近隣におけるグループのBPO機能などを集約した「りそなグループOBPオフィスビル」となる予定。設計は、安井建築設計事務所・東畑建築事務所の2社からなる設計共同企業体によるもので、敷地には植え込みを配した公開空地が設けられており、同年★大阪施設緑化賞(みどりの景観賞)優秀賞を受賞している。また★堺筋野村ビルディングの柱の一部も保存されている。
《大和銀行の源流》「野村両替店」
1878年(明治11)初代野村徳七が農人橋詰町9に住宅兼店舗をを構える。同年長男信之助が誕生。
1904年(明治37)信之助が家業を実質継承,証券業で財をなす。
1906年(明治39)本町二丁目に店舗新築移転。
1907年 (明治40)信之助家督相続(二代目野村徳七)。
1912年(明治45)備後町二丁目に店舗新築移転(後年の野村ビルディング建築場所)。
《大和銀行本店 》(中央区備後町)
竣工:1924年(大正13) 設計:片岡建築事務所 (安井武雄) 施工:竹中工務店。野村徳七の意思により7階を有恒倶楽部((現★大阪市立大学「有恒会」)に会館として提供していた。
【ジャコモ・マンズーGiacomo Manzù】(1908~1991)
アルトゥロ・マルティーニ、マリノ・マリーニとともに現代イタリアの3大巨匠と称される彫刻家。古典彫刻、なかでも人間への限りない礼讃を表明したローマ的世界に強い影響を受け、単純で直接的な表現力による魂のもっとも深い情感を表す独自の作風を確立した。靴職人の貧しい家庭の第12子としてベルガモに生まれる。11歳のとき木彫師のもとで働きはじめ、メッキ職人、石膏職人など徒弟働きを転々とするが、1927年ヴェローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ教会を飾るロマネスクの青銅扉の浮彫りを見て深く感動、彫刻家の道をめざす。以後、大理石から木材、石膏、陶土、彫金、浮彫りと、すべて独学で習得した。一度パリに出るが、貧困生活に苦しみ、1930年ミラノに落ち着いて本格的な制作活動をはじめる。マンズーは、生涯を通じていくつかのテーマをシリーズ化して繰り返し制作している。「枢機卿」「踊り子」「妻インゲ像」「恋人たち」「子供」などであるが、それらを、塑像はもちろん、浮彫りやデッサン、版画などで表現する。なかでもキリスト教的テーマは特徴的で、1934年サン・ピエトロ寺院で見た光景に感銘を受けて始めた《枢機卿》シリーズ、1941年に発表した「キリストの磔刑」を主題にした浮彫りシリーズ、1952年に制作依頼を受け12年もの歳月をかけて完成させたサン・ピエトロ寺院門扉の浮彫り《死の扉》などはその代表作である。しかし、マンズーはここで自らの信仰を表現したのではない。キリストや枢機卿などの形態を通して、厳しい時代に生きる人間の苦悩や悲痛の叫びなどを表現したのであった。もうひとつの特徴的なテーマである女性や子供を扱うときも同じである。動きを抑制した明快な形態のなかに、自信と苦悩をあわせ持つ女性の美しさと子供たちの無垢な明るさなどを表現する。彼の彫刻には、個人的な情感とともに普遍的な人間の本質が刻みこまれているのであった。その他、ザルツブルク大聖堂の《愛の扉》(1955・58年)、ロッテルダム聖ローレンス教会の《平和と戦争の扉》(1966-68年)などの大作を残したほか、世界各地で個展、回顧展を開催するなど20世紀後半を代表する彫刻家として活躍し、ローマ近郊のアルーディアで没。83歳。
《風蘭ビルディング》旧★明治屋南本町ビル
541-0054大阪市中央区南本町2-2-2
http://www.meidi-ya.co.jp/index.html
竣工1924年、設計★曽禰達蔵の曾禰中條建築事務所で、外装はタイルで改修されているが、塔屋には中央電気倶楽部でもみられる壺の装飾がある。コーナーにアールをとった現代的な建物です。食料品・和洋酒類の小売・輸出入業を営む明治屋(Meidi-Ya)のビルでした。「My」のロゴでおなじみ、ハイカラなブランド。古くから東京を中心に全国にビルを持っていましたが、3年前にリストラを行い、店舗を縮小。この本町ストアーも不採算により撤退して、1階にはコンビニが入っています。
【曽禰達蔵】(1852~1937)
https://www.city.karatsu.lg.jp/bunka/tanbo/jinbutsu/sone.html
同郷の辰野金吾(1854~1919)とともにジョサイア・コンドル(1852~1920)に学んだ日本人建築家の第1期生。丸の内の三菱オフィス街の基礎を築き、のち後輩の中條精一郎(1868~1936)とともに設計事務所を開設。曽禰中條建築事務所は都市を飾る数多くのオフィスビルを送り出した。
《主な作品》
三菱三号館~七号館(1896現存しない)旧三菱銀行神戸支店(1900神戸市)占勝閣(1904長崎市)以下、曽禰中條建築事務所作品/慶應義塾大学図書館(重要文化財1912東京都)東京海上ビル(1918現存しない)旧日本郵船神戸支店ビル(1918神戸市)郵船ビル(1923東京都現存しない)鹿児島県庁庁舎(1925鹿児島市)小笠原伯爵邸(1927)旧三井銀行小樽支店(1927小樽市)慶應義塾大学病院予防医学教室(1929東京都)★明治屋ビル(1933東京都)講談社ビル(1933東京都)慶應義塾大学日吉キャンパス(1934横浜市)岩崎家熱海別邸(1935熱海市)★三井住友銀行大阪中央支店(1936大阪市)