・・・境内を散策しているうちに、墓地へと迷いこんでしまった。そこで発見したものは、
《参考》『現代密教」第4号より
http://www.chisan.or.jp/topics_detail41/id=590
「差別戒名」問題について/文:福崎孝雄
・・・そして墓地を抜けると、
《京都女子大学》
605-8501京都市東山区今熊野北日吉町35/075-531-7030
http://www.kyoto-wu.ac.jp/
大学の母体となる京都女子学園は、2010年に創始111年を迎えました。その長い女子教育の歴史を礎として京都女子大学は1949年に創設され、今日までその歩みを重ねてきました。文学部と家政学部の2学部で始まった大学教育は、その後の改組によって現代社会学部、発達教育学部を加え、2011年には女子大学として初の法学部を設置しました。京都女子大学はその歴史と伝統を大切にしつつ、時代の要請に応えるべく、新たな挑戦を続けています。
★建学記念館「錦華殿」
http://www.kyoto-wu.ac.jp/gakuen/rinen/kinkaden/gaiyou.html
京都女子大学の創始は明治32年(1899)、甲斐和里子が松田甚左衛門の助力を得て設立した私塾にさかのぼります。以来、仏教精神に根ざした建学の理念のもと、女性の地位向上と教育に力を注いできた京都女子大学。その歴史を見つめつづけてきた、「錦華殿」とよばれる一つの建物がありました。円形のバルコニーが特徴のこの建物は、明治31年、西本願寺第22代門主・大谷光瑞師と籌子裏方の新居として建てられた、フランス様式の洋館。女子高等教育の必要性を痛感されていた籌子裏方は、光瑞門主の妹、九條武子西本願寺仏教婦人会連合本部長と、この「錦華殿」において女子大学設立構想をふくらませ、実現に向けての活動をはじめました。そして、明治43年(1910)、仏教婦人会の援助を受けた私塾「文中女学校」は、「京都高等女学校」として新たな歴史を刻むことになり、籌子裏方、武子本部長、和里子女史の情熱は、京都女子大学の前身である「京都女子高等専門学校」の設立によって実を結びます。その後、「錦華殿」は大正9年(1920)に現在のキャンパスに移築され、学園の建学記念館として、数多くの在学生に愛されてきましたが、昭和56年(1981)、老朽化のために残念ながら解体せざるを得ませんでした。この消失を憂いた同窓生の「建学の精神の拠り所として、永く後世に伝えたい」との熱意により、「錦華殿」の復興計画が進められ、同窓会、京都女子学園維持会、卒業生、保護者、教職員等、有縁の方々からの建築資金の寄付を受けて、平成12年(2000)に再建(復元)、往時の麗容を鮮やかに蘇らせました。再建にあたっては、出来る限り忠実に再現するため、解体時に保存した手すりや装飾部材などを積極的に再利用し、カーテン、天井クロスなどは、原型に近い風合いと色彩を再現しています。また、耐震性・耐火性に配慮し、鉄筋コンクリート造としました。「錦華殿」は100年間に及ぶ本学園の歴史と伝統を語り、そして在学生一人ひとりの輝かしい未来をこれからも見守りつづけていきます。
★建学記念館「錦華殿」
http://www.kyoto-wu.ac.jp/gakuen/rinen/kinkaden/gaiyou.html
京都女子大学の創始は明治32年(1899)、甲斐和里子が松田甚左衛門の助力を得て設立した私塾にさかのぼります。以来、仏教精神に根ざした建学の理念のもと、女性の地位向上と教育に力を注いできた京都女子大学。その歴史を見つめつづけてきた、「錦華殿」とよばれる一つの建物がありました。円形のバルコニーが特徴のこの建物は、明治31年、西本願寺第22代門主・大谷光瑞師と籌子裏方の新居として建てられた、フランス様式の洋館。女子高等教育の必要性を痛感されていた籌子裏方は、光瑞門主の妹、九條武子西本願寺仏教婦人会連合本部長と、この「錦華殿」において女子大学設立構想をふくらませ、実現に向けての活動をはじめました。そして、明治43年(1910)、仏教婦人会の援助を受けた私塾「文中女学校」は、「京都高等女学校」として新たな歴史を刻むことになり、籌子裏方、武子本部長、和里子女史の情熱は、京都女子大学の前身である「京都女子高等専門学校」の設立によって実を結びます。その後、「錦華殿」は大正9年(1920)に現在のキャンパスに移築され、学園の建学記念館として、数多くの在学生に愛されてきましたが、昭和56年(1981)、老朽化のために残念ながら解体せざるを得ませんでした。この消失を憂いた同窓生の「建学の精神の拠り所として、永く後世に伝えたい」との熱意により、「錦華殿」の復興計画が進められ、同窓会、京都女子学園維持会、卒業生、保護者、教職員等、有縁の方々からの建築資金の寄付を受けて、平成12年(2000)に再建(復元)、往時の麗容を鮮やかに蘇らせました。再建にあたっては、出来る限り忠実に再現するため、解体時に保存した手すりや装飾部材などを積極的に再利用し、カーテン、天井クロスなどは、原型に近い風合いと色彩を再現しています。また、耐震性・耐火性に配慮し、鉄筋コンクリート造としました。「錦華殿」は100年間に及ぶ本学園の歴史と伝統を語り、そして在学生一人ひとりの輝かしい未来をこれからも見守りつづけていきます。
《新日吉神宮新(いまひえじんぐう)》
605-0932京都市東山区妙法院前側町451-1 /075-561-3769
新=いま「今」の意味。日吉=ひえ。「日枝」「日吉」「比叡」は同じ。平安末期。平氏・源氏・公家が争っていた時代。後白河天皇は天皇を退位なされ上皇になられました。この時代の実権は上皇が握っていました。後白河上皇は院の御所をお定めになられましたときに皇居の守護神として、比叡山の守護神/日吉社(現・日吉大社)を勧請なされ、京都・東山の麓に「新しい日吉神社」を創祀されました。(1160年)創祀850年以上になりますが「新」が付いております。