●「旧南区」のつづきです。
南区は1989年2月13日まで大阪市にあった行政区です。現在の大阪市中央区の南部が旧南区にあたります。1869年に大坂三郷再編により、南大組が発足。1875年に大区小区制施行により、南大組が第2大区となりました。1879年には郡区町村編制法施行により、第2大区が南区となり、1889年の市制施行によって大阪市の行政区へ移行しました。南区廃止前の面積は大阪市26区のうち最小で、西半は大阪ミナミの繁華街が占めていました。現在、区役所の跡地は★「大阪市立中央屋内プール」となっています。
宗右衛門町 心斎橋筋一丁目 心斎橋筋二丁目 南炭屋町 25北炭屋町
26周防町 27八幡町 28久左衛門町 三津寺町 29阪町
東櫓町 西櫓町 湊町 難波新地一番町 難波新地二番町
難波新地三番町 難波新地四番町 難波新地五番町 難波新地六番町 30九郎右衛門町
二ツ井戸町 高津町一番町 高津町二番町 高津町三番町 高津町四番町
高津町五番町 高津町六番町 高津町七番町 高津町五八番町 高津町九番町
高津町十番町 御蔵跡町 日本橋筋一丁目 日本橋筋二丁目 日本橋筋三丁目
日本橋筋四丁目 日本橋筋五丁目
《参考》「東賑町」「西賑町」
谷町筋沿いは玉木町、万年町、立半町、柏原町と続いた。立半町と柏原町の西隣に生駒町・宮崎町・田島町と続いたが、この辺りは大坂城南惣構堀の遺構である空堀跡の一部で、東西に瓦土取場(瓦屋藤右衛門請地)が広がっていた。柏原町以南は西成郡西高津村領内となり、谷町八丁目筋寺町へと続いた。1872年(明治5)に谷町1丁目から3丁目、錫屋町、北谷町、南谷町を再編し、谷町1丁目から5丁目になった。この5丁目まではのちに東区となる東大組に属していた。一方、玉木町、万年町、立半町、柏原町はのちに南区となる南大組に属しており、同年に谷町筋6丁目と7丁目になった。また、谷町八丁目筋寺町を含む西高津村は1897年(明治30)に大阪市東区へ編入され、1900年(明治33)に谷町8丁目と9丁目が起立された。8丁目と9丁目は1925年(大正14年)より新設の天王寺区に属し、1943年(昭和18年)より区境変更に伴い南区に属した。また、この際に6丁目と7丁目が谷町筋から谷町へ改称された。1982年(昭和57)にもと瓦土取場だった★東賑町★西賑町、南空堀町および田島町などを編入。現在の6丁目と7丁目が西側へ広い町域となっているのはこのためである。1989年(平成元)に東区と南区が合併し、全域が★中央区となった。
『東賑町』と称したのは昭和45年から昭和57年までの12年間。この東に対して西は西賑町、南高校の傍らの『西賑町』町名継承碑が対となる。明治初期:大坂三郷南組新瓦屋町、明治6年:東新瓦屋町、明治12年:大阪市南区/明治22年:大阪市南区東新瓦屋町/昭和45年:大阪市南区東賑町/昭和57年:大阪市南区谷町6丁目・安堂寺町2丁目/平成元年:中央区谷町6丁目・安堂寺町2丁目
《参考》「渡辺町」
2016.3.5日本経済新聞より
渡辺氏が嵯峨天皇の子孫である嵯峨源氏の名門であることや、渡辺一族が優れた操船技術を持っていたことなどから、長く特別扱いされてきたことが考えられるという。全国の渡辺さんにとって、★坐摩神社こそが重要なルーツ。長い歴史の荒波を乗り越え、受け継がれた「渡辺」は、大阪が全国に誇るべき番地と言えるだろう。
・・・スゴイ「町名」ですねえ。
《参考》「清水谷東之町」
★大阪府立清水谷高等学校「沿革」より
https://www.osaka-c.ed.jp/shimizudani/introduction/history/history.html
1900大阪市立第二高等女学校が大阪市南区千年町で開校。大阪府第一高等女学校として設立認可の告示。
1901大阪府清水谷高等女学校の校名が告示される。大阪市★東区清水谷東之町に移転。大阪府清水谷高等女学校として開校・授業開始。開校の際に大阪市立第二高等女学校を合併。大阪府立清水谷高等女学校に改称。
1907「済美館」(木造)新築落成。
1925新校舎落成、鉄筋3階建「済美館」(同窓会館)落成。
・・・由緒ある高校です。
《参考》「左官町」
徳川の世となり、大坂に平和が訪れると、玉造は再び大坂城三の丸から町人のまちへと大きく環境が変わりました。平和な時世に広大な大坂城は必要なくなり、玉造のまちは再開発されることとなったのです。開発の民間活力として期待されたのは、京都伏見からの大工職人。伏見城が廃城となったことや、夏の陣後の大坂城の再建という大規模な公共事業があったことから、大人数 が移住しました。旧町名の★「左官町」はこれらに由来しています。町人のまちとして発展した玉造ですが、特に特定の産業がまちを支えたというわけではありません。ただ、1838年(天保9)東側にあった猫間川から井路(いじ=水路)を引き込み、現在の玉造幼稚園の辺りに船だまりをつくり、物資の運搬拠点とされました。銭湯★「玉造温泉」の裏にある★「伏見橋跡」が井路の名残を伝えています。※残念ながら「玉造温泉」は閉店・解体され、跡地にマンションが建設されています。大坂城の守護神として知られていた「玉造稲荷神社」は、平和な世のもと、お蔭参り(伊勢参り)の大坂からの出発地として、猫間川に架かる黒門橋の手前にあった二軒茶屋とともに、浪花百景に描かれる等、観光拠点としても有名になりました。