中央区(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・前回※「玉造温泉」についてふれましたが、やはりもう少し詳しく書いておきたいと思います。

 

《「玉造温泉」》

大阪市中央区玉造1-12-7

玉造といえば「玉造温泉」といわれるほど、大阪では有名な銭湯。70歳を過ぎたご主人が営業を日々続けるのがきつくなり、後継者もいないので2014年11月24日をもって廃業。「玉造温泉」は戦後まもなくスタート。オールナイト営業の銭湯として名前が広く知れわたり、さらにラドン、打たせ湯、寝風呂、サウナなども完備し、人気を集めました。地元はもちろん、遠方からも、また、ランナーたちが、荷物を預けて、大阪城公園まで走りに行き、ひと風呂浴びて帰るといった使い方もされていました。跡地にはマンション★「セイワパレス玉造駅前」が建ちました。

http://www.seiwa-style.jp/es/building/d95754bc-ccfb-4129-9e47-5d17472f1231

http://www.s-series.net/sp-tamatsukuri_ekimae/index.html

 

 

《伏見橋旧跡》

★猫間川に流れ込む井路に架かっていた橋です。江戸時代から明治末まで井路を利用して荷物の運送などを行いました。戦前に建てられた旧碑は自動車事故で破損したので新しいものに建て替えられています。猫間川は大阪城東側を流れていて、大阪城の守りの要でもありました。現在は暗渠化されています。

 

 

・・・少し後戻りしますが、紹介せずに通り過ぎた大阪の老舗がありますので、やっぱり紹介しておきます。「宮林町」碑の横に建っているのが、

 

 

《森下仁丹》

540-8566大阪市中央区玉造一丁目2番40号/06-6761-1131

http://www.jintan.co.jp/

現在大阪市中央区玉造に本社を置く医薬品製造会社森下仁丹(株)は、創業者の森下博が★1893(明治26)年2月11日に、大阪市旧:東区(現・中央区)淡路町にて、薬種商「森下南陽堂」を創業したのが発祥である。同社の創業日である2月11日と、現在発売されている「銀粒仁丹」の前身にあたる懐中薬「赤大粒 仁丹」)の発売日である1905(明治38)年2月11日から、この日が「仁丹の日」に制定された。以来、同社は今日まで発売され続けている銀粒の「仁丹」の製造元としてその名を知られている。2014(平成26)年で創業121年を迎えた同社は、銀粒仁丹の製造から着想を得た液体も包むことの出来るビーズ状のシームレスカプセル(継ぎ目のないカプセル))技術の様々な用途への展開や、長年の生薬研究から生まれた健康食品や素材、さらには医薬品や医療機器の製造販売に至るまで、幅広い分野を手がける医薬品メーカーのひとつとなっている。トレードマークの「大礼服」(登録商標である大礼服姿の通称「将軍マーク」)は、時代による微妙な変化が面白い。森下仁丹は広告に非常に力を入れていたが、その一つの柱が★新聞広告であり、もう一つの柱が★屋外広告であった。同『朝日クロニクル週刊20世紀』によると、森下仁丹の宣伝部長(当時)だった谷本弘の回顧録によれば、大正時代の広告事情などについて次のように語っていたという。口腔清涼剤「仁丹」の宣伝が開始されたのは1905(明治38)年2月11日だった。宣伝ターゲットは常備薬とする家庭と海外だった。ブランド名の「仁丹」は中国・台湾へ売り込むには仁義礼智信(儒教で説く5つの徳目「五徳」)のトップに位置する仁をとるのが良かろうという漢学者の藤沢南岳や朝日新聞社の西村天囚(大阪朝日新聞主筆で、コラム「天声人語」の名付け親)のアドバイスと中国語で丸薬を意味する「丹」を組み合わせたネーミングである。有名な大礼服のトレードマークは前社長の回想から「(軍人ではなく)仁丹の外交官」とされている。

 

 

・・・そして、「サクラクレパス」本社もすぐ近くにあります。

 

《サクラクレパス》

540-8508大阪市中央区森ノ宮中央1-6-20/06-6910-8800

http://www.craypas.com/

絵具を基盤とする画材・文具総合メーカーである株式会社サクラクレパスが、1991年に創業70周年記念事業の一環として「美術館(サクラアートミュージアム)」を社屋に併設しました。★1921年(大正10)の創業時より描画材料製造の社業を通じて関わってきた大正・昭和期の日本を代表する画家が描いたクレパス画、油絵、水彩画、版画などの絵画コレクションを一般公開する目的で開館しました。近現代日本の絵画コレクション約900点のうち、特にクレパス画のコレクション約500点は大正以降から現在にいたる日本の美術画壇の主要画家を網羅しています。コレクションの公開を中心に、年に約6回の企画展を開催しています。社業を通じて美術教育の発展に貢献してきた歴史をふまえ、地域社会の文化の発展にも貢献すべく教育普及活動にも力を注いでいます。

 

 

・・・道路をはさんで西側にある「城南公園」には、1979年の町名変更でなくなった「北国分町」碑があります。江戸時代前期元和頃、摂津国の国府が置かれていたことから国府が訛って国分になったと伝えられているということです。

 

《参考》難波館(難波「鴻臚館」)

難波津(渡辺津)にあったとされ、現在の大阪府大阪市の中央区と北区に架かる天満橋から天神橋の間、あるいは中央区高麗橋近辺、または中央区心斎橋筋の三津寺付近にあったと考えられる。古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体6年(512年)12月に百済武寧王の使者が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求めて館に留まったとある。これが外国使節を宿泊させる客館の初見である。欽明22年(561年)には難波大郡(なにわのおおごおり)にて百済と新羅の使者を接待する。そののち推古16年(608年)4月に隋煬帝の使者裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」(『日本書紀』)ことで歓迎の準備を整えている。斉明6年(660年)5月8日には高句麗使の賀取文が難波館に到着した。鴻臚館という名称が難波館に用いられた年代は定かではないが、そののち承和11年(844年)に難波の鴻臚館が摂津国★国府の政庁に転用され廃止されたとの記録が残っている(『続日本後紀』承和11年10月戊子条)。